その書道教室には、2歳年上で3人組の「お姉さん」たちがいた。
今になって思えば僕も彼女たちも同じ小学生だけど、当時の僕にとっては年上の異性で近寄りがたかった。
彼女たちは同じ小学校に通っていて仲が良く、習字の時間でも会話に花を咲かせていた。先生にも時折注意されるほど。
そんな大きな声で話すものだから、離れたところで筆を動かしている僕の耳にも会話の内容が入ってくる。その内容が面白いと、僕は笑いを堪えきれなくて、顔がにやけてしまった。
「なに勝手に盗み聞きしてるの」
「にやけ顔、キモい」
習字の時間が終わったあと、「お姉さん」たちと一緒に、かくれんぼで遊んだことがある。僕が鬼で、彼女たちは隠れる役。書道教室を間借りしている公民館の駐車場で、かくれんぼが始まった。
僕はすぐに、彼女たちの中で一番背が高く、身体も大きかった美咲ちゃんを見つけた。でも「み~つけた」が言えなかった。美咲ちゃんの名前を呼ぶのが恥ずかしかったから。苗字を取って「○○さん、み~つけた」と言えば良かったのかもしれない。でも結局、頭の中で彼女の名前を浮かべるときと同じように、下の名前で「美咲ちゃん、み~つけた」と言った。
仲良しの「お姉さん」3人組にも別れが訪れた。中学受験を控えた美咲ちゃんが学習塾に通うため、書道教室をやめることになったのだ。
残された書道教室の「お姉さん」たちは、美咲ちゃんよりも背は低いものの身体がほっそりとしていた愛ちゃんと、3人の中で一番背が低くて丸顔だった舞ちゃん、2人になった。
美咲ちゃんが書道教室に来なくなって最初の日、愛ちゃんが舞ちゃんに向かってこんなことを言った。
「美咲とは学校では全然仲良くなかったけど、ここだと話し相手がいなくて可哀想だったじゃん。だから面倒だけど話につき合ってあげてたんだよね」
この言葉には先生も看過できず、「そんなことを言ってはいけません」と窘めていた。
ある日、書道教室に入ると、いつもいるはずの愛ちゃんの姿が見えなかった。どうやら熱を出して休んでいるみたいだ。「お姉さん」は舞ちゃん、ただ1人だった。
話し相手のいない舞ちゃんは黙々と字を書く。僕は舞ちゃんの整った字が好きだった。
いつもより静かに習字の時間が終わった。僕は筆をしまって、硬筆の課題の漢字を練習していた。
「何書いてるの?」
突然声がした。舞ちゃんだった。
「お姉さん」の方から声を掛けられたのは初めてだった。僕は漢字を練習している用紙を見せた。
そう言って、僕の学年ではまだ習っていない「銅」という漢字を口にした。
勉強には自信があった。
「うん、書けるよ」
僕はすらすらと書いた。それを見て舞ちゃんは驚いた表情をした。
「じゃあこの漢字は?」
舞ちゃんはお題をいくつか出してきた。僕は漢字を全部書きとっていった。
「へぇ、すごいじゃん。ねぇ、先生。○○くんってまだ習っていない漢字も書けちゃんだよ」
舞ちゃんが先生に報告した。誇らしいような、ちょっと恥ずかしいような。生まれて初めての感情だった。
「この漢字は書ける?」
「うーん、えーと……」
とうとう書けない漢字に出くわした。僕は降参した。
それを見て、舞ちゃんはどこか嬉しそうだった。
「この漢字はね、こうやって書いて……」
そう言って優しく丁寧に漢字を教えてくれる舞ちゃんは、僕にとってのお姉さんだった。
「そろそろ帰る準備をしましょう」
先生のその言葉を聞きたくなかった。ずっと舞ちゃんに教わっていたかった。
「よくできました!」
次の週には、愛ちゃんと舞ちゃんが仲良く会話する、普段通りの書道教室に戻ってしまった。
そして僕も美咲ちゃんと同じ学習塾に通うことになった。そのことを舞ちゃんに伝えられないまま、僕は書道教室をやめた。
ふとたまに、あの日のことを思い出す。なぜ舞ちゃんは、僕に漢字を教えてくれたのだろう。
もしかすると、いつも邪険に扱われている僕を不憫に思ったのかもしれない。ただ単純に、年下の男の子に対して「お姉さん」風を吹かせたくなったのかもしれない。
それでも、あの日の彼女は僕のお姉さんだった。ただ一人の、かけがえのないお姉さんだった。
anond:20180707054202
「美咲とは学校では全然仲良くなかったけど、ここだと話し相手がいなくて可哀想だったじゃん。だから面倒だけど話につき合ってあげてたんだよね」 この言葉には先生も看過でき...