すわ開戦かと不安が高まる今、北朝鮮によるテロも現実的な脅威になってきた。地下鉄サリン事件当日、市ヶ谷に入った著者が、そこで学んだ未知の危機に出会うことの現実とは。
北朝鮮とアメリカの言葉の応酬が続いている。北朝鮮の外相ですら、「言葉の喧嘩が本当の喧嘩にならないことを望む」などと(本気か、あるいは少なくとも口では)言っているような状況だ。
もし偶発的な衝突を端緒に、北朝鮮との戦争が本当に始まってしまったら、当然ながら日本にも直接的な被害が及ぶ可能性が高い。そのときは衝突の最前線だけでなく、日本国内で生活している私たち一般市民の平穏な暮らしにも、さまざまな形で深刻な影を落とすだろう。
何もミサイルが飛来するということだけが問題ではない。日本国内で生物・化学兵器などを使ったテロが発生する可能性も否定できない。そんなときに、国内でのテロに立ち向かい、治安の維持・回復につとめることが、警察と並んで、自衛隊の任務の一つになってくる。
実のところ、自衛隊はこれまで、大規模自然災害やテロ事件を経験する中で、その技術や対応能力を強化してきた。今回は、1995年の地下鉄サリン事件当日に、私が陸上自衛隊に密着して見た、当時の自衛隊の実情と、今日までの進化とを考えてみたい。
あれは22年前、1995年3月20日、月曜の朝だった。
東京の地下鉄日比谷線・丸ノ内線・千代田線の3路線計5編成車両に、神経毒ガス「サリン」が撒かれた。オウム真理教の引き起こした、世界初の地下鉄での化学兵器テロだった。
サリンを開発したのは、第二次大戦中のドイツだが、その総統ヒトラーでさえ、サリンを実戦では使用しなかった。この猛毒の神経ガスの致死量は、大人で0.6mgとされるが、これは実に、注射器から垂らした一滴程度の少量だ。
そのサリンによって、「走るガス室」にされた地下鉄の車内、駅構内では、乗客や駅員13人が死亡、負傷者数は約6300人にのぼる大惨事となった。
当時、出版社に勤めていた私は、事件を通勤中のラジオで聞いた。取り敢えず、そのまま会社に着いたものの、定例の月曜朝の編集会議をパスして、そのまま一眼レフカメラと36枚撮りのフィルム4本を持って外に出た。
メディアに携わるものとして、その行動は当然であると思った。しかし当日は、背景や犯人像を含め、どういう事件なのか、まだ全く分からなかった。
ラジオからは「陸上自衛隊が市ヶ谷駐屯地(当時)に集結」という言葉が聞こえてきた。そこで、私は市ヶ谷駅を目指した。
20分足らずで正門に到着した。現在でも同じ配置だが、市ヶ谷の正門には、左側に面会受付の手続きを行うための、小さな建物がある。この日はそこに、二人の自衛官が座っていた。
普段であれば、ここで事前にアポイントメントしていることを告げ、面会する自衛官の部署や氏名、自分の氏名と所属会社名、面会の理由、受付時刻などを用紙に記入する。すると、しばらくして、該当の自衛官が正門まで迎えに来る。
だが、この日はアポイントなどない。知り合いの自衛官にも電話はつながらず、入れる見込みは薄かった。そこで一か八か、
「すみません、事件なんで、入らせてください!」
と言ってみた。すると何ということか、「どうぞ」と門内に通してくれたのだ。管理が厳格化された現在では絶対にあり得ないことだが、当時の受付担当者としては、国民の不安に一刻も早く応えるためには、メディアとのコミュニケーションが必要だと、自分で判断したのだろう。
もちろん、一方では、テロリストがメディア関係者を装ってやってこないとも限らないわけで、私にとってはありがたかったが、この対応には問題がなかったわけではない。22年も経ったいまだから、このことは初めて書いた。