ヘイトスピーチ規制法をすみやかに制定するべきである
ドイツ連邦共和国基本法(通常、ボン基本法と呼ばれる。ドイツの憲法典と考えてよい。)は、意見表明の自由で総括される基本権につき「自由で民主的な基本秩序を攻撃するために濫用する者」はこれらを喪失するとの条項(18条)、「自由で民主的な基本秩序を侵害もしくは除去し、またはドイツ連邦共和国の存立を危うくすることを目指す」政党の違憲条項(21条)を定めている。これらの決定は連邦憲法裁判所が行う。さらに、「教授の自由は、憲法への忠誠を免除しない」(5条3項)といった規定も存在する。詳細は以下のとおりで、これを「たたかう民主制」と呼んでいる。
第18条 [基本権の喪失]
意見表明の自由、とくに出版の自由(第5条1項)、教授の自由(第5条3項)、集会の自由(第8条)、結社の自由(第9条)、信書、郵便および電気通信の秘密(第10条)、所有権(第14条)または庇護権(第16a条)を、自由で民主的な基本秩序を攻撃するために濫用する者は、これらの基本権を喪失する。喪失とその程度は、連邦憲法裁判所によって宣告される。
第21条 [政党]
(1) 政党は、国民の政治的意思形成に協力する。その設立は自由である。政党の内部秩序は、民主主義の諸原則に適合していなければならない。政党は、その資金の出所および使途について、ならびにその財産について、公的に報告しなければならない。
(2) 政党で、その目的または党員の行動が自由で民主的な基本秩序を侵害もしくは除去し、または、ドイツ連邦共和国の存立を危うくすることを目指すものは、違憲である。違憲の問題については、連邦憲法裁判所が決定する。
(3) 詳細は、連邦法で定める。
第5条 [表現の自由]
(3) 芸術および学問ならびに研究および教授は、自由である。教授の自由は、憲法に対する忠誠を免除しない。
わが国憲法学の泰斗・樋口陽一氏は、かつて「『憲法の敵』『自由の敵』に憲法上の自由を与えないことによってはじめて守られる『憲法』や『自由』は、いったいその名に値するだろうか」と反問し、ボン基本法の「たたかう民主制」に対し、決然たる批判の姿勢をとった(『比較の中の日本国憲法』岩波新書)。樋口氏が、「たたかう民主制」を批判したのは、1956年に、連邦憲法裁判所がドイツ共産党を違憲とする判決によって解散に追い込んだことを踏まえたものであり、それは同時に、わが国の破防法の制定とその運用の危険性への危惧が人々の念頭に覆いかぶさっていた時代の特殊性を幾分かは反映したものであったとも考えられる。
実際、レッドパージ事件に関する『明白な憲法破壊』の企図が看取される目的をもつ思想は、その限りにおいて『憲法第19条、第21条』に依る保障を援用することができない。」というような判決(1950年9月9日福岡地裁判小倉支部判決)などを見ると、樋口氏の「たたかう民主制」批判ももっともなことと思われる。
憲法の教科書でも、たとえば、浦部法穂『全訂 憲法学教室』日本評論社』は、以下のように述べ、わが国では「たたかう民主制」をとりえないことを指摘している。
「ドイツ基本法は、表現の自由につき、『自由な民主的基本秩序を攻撃するために濫用する者は、これらの基本権を喪失する』として、いわゆる『たたかう民主制』の姿勢を明らかにしている。憲法というものは、たしかに、それじたい、一つの政治理念の表明であり、したがってあらゆる思想に対して完全に中立の立場をとっているとは考えられない、という見方も成り立ちえないわけではない。そして、そうであるならば、憲法に敵対するような思想に対しては憲法の保障は及ばない、と解する余地もないではない。またファシズムの経験に学んだドイツが、民主制を守るという強固な意思の表明として『たたかう民主制』の立場を打ち出したことは十分に理解できる。
しかし、『自由な民主的基本秩序』や『憲法体制』を擁護すべきことは当然であるとしても、それにとって危険な思想を禁じ排斥することができるかは、別問題である。というのは、ある思想につき、それが『自由な民主的秩序』や『憲法体制』にとって危険であるからというので禁止できる、ということになれば、それは権力にとって危険なすべての思想を抑圧することになりかねないからである。民主制を守るという名目のもとに、権力にとって都合の悪い思想が抑圧されるというようなことになれば、民主主義にとっての基本的な前提基盤が民主主義の名において破壊されることになってしまうのである。思想というものは、どんなものであれ、どこまでも自由であるということが確認されなければならないと思われる。」
日本国憲法は、「たたかう民主制」に関わる規定を置いていないし、解釈上もこれを採用できないことは以上のとおりである。しかし、法律の次元ではそれに似た規定が置かれている(例えば、国家公務員法38条第5号・・・「日本国憲法施行の日以後において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体を結成し、これに加入した者」は「官職に就く能力を有しない」。ほかにも電波法107条、破防法39条・40条に同様な規定がある。)。
「表現の自由」に関する米国憲法判例の法理を強く支持するわが国憲法学の主流は、表現行為の法律による規制について、「明白かつ現在の危険」、「ブランデンバーグ原則」、「明確性の原則」、「より制約的ではない他の方法(LRA)の原則」など、厳密なテストを要求する。たしかに表現の自由は民主制の基礎であり、最大限尊重されなければならない。しかし、表現の内容、それの向けられた対象者の境遇、表現行為の場、方法など諸般の客観的事実に照らし、「個人の尊厳」からの違背の程度が著しいものまで、民主制の基礎として尊重されなければならないいわれはない。
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① 「明白かつ現在の危険」・・・ある表現行為が他者の権利・利益や平穏な生活を侵害する明白で現実的、具体的な危険が存在する場合にのみ当該表現行為の規制が許されるという基準
② 「ブランデンバーグ原則」・・・①ををさらに進め、ある表現行為がそのような危険をもたらすことを企図した扇動にあたる場合にのみ規制が許されるという基準
③ 「明確性の原則」・・・規制の対象と規制の態様が客観的に明確でなければならず、あいまいな場合には「あいまいなゆえに無効」と判定すべという基準。①もしくは②とあわせて検討される。
④ 「より制約的ではない他の方法(LRA)の原則」・・・LRAとはLess Restrictive Alternativeのこと。同じ目的を達するために、表現行為に対する別のより制限的でない手段・方法がある場合にはそれによらなければならないという基準。①ないし③の基準と併用される。
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今、在特会などが在日朝鮮・韓国人に対して行っているいわゆるヘイトスピーチは、弱者、マイノリティへの威嚇・脅迫・侮辱・悪意をこめた差別であり、言葉の暴力に過ぎず、民主制の基礎とはなんら関わりない。これらは唾棄すべきものであって、「日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張」などと比較することさえおこがましい。速やかにヘイトスピーチ規制法を制定するべきである。(了)
第18条 [基本権の喪失]
意見表明の自由、とくに出版の自由(第5条1項)、教授の自由(第5条3項)、集会の自由(第8条)、結社の自由(第9条)、信書、郵便および電気通信の秘密(第10条)、所有権(第14条)または庇護権(第16a条)を、自由で民主的な基本秩序を攻撃するために濫用する者は、これらの基本権を喪失する。喪失とその程度は、連邦憲法裁判所によって宣告される。
第21条 [政党]
(1) 政党は、国民の政治的意思形成に協力する。その設立は自由である。政党の内部秩序は、民主主義の諸原則に適合していなければならない。政党は、その資金の出所および使途について、ならびにその財産について、公的に報告しなければならない。
(2) 政党で、その目的または党員の行動が自由で民主的な基本秩序を侵害もしくは除去し、または、ドイツ連邦共和国の存立を危うくすることを目指すものは、違憲である。違憲の問題については、連邦憲法裁判所が決定する。
(3) 詳細は、連邦法で定める。
第5条 [表現の自由]
(3) 芸術および学問ならびに研究および教授は、自由である。教授の自由は、憲法に対する忠誠を免除しない。
わが国憲法学の泰斗・樋口陽一氏は、かつて「『憲法の敵』『自由の敵』に憲法上の自由を与えないことによってはじめて守られる『憲法』や『自由』は、いったいその名に値するだろうか」と反問し、ボン基本法の「たたかう民主制」に対し、決然たる批判の姿勢をとった(『比較の中の日本国憲法』岩波新書)。樋口氏が、「たたかう民主制」を批判したのは、1956年に、連邦憲法裁判所がドイツ共産党を違憲とする判決によって解散に追い込んだことを踏まえたものであり、それは同時に、わが国の破防法の制定とその運用の危険性への危惧が人々の念頭に覆いかぶさっていた時代の特殊性を幾分かは反映したものであったとも考えられる。
実際、レッドパージ事件に関する『明白な憲法破壊』の企図が看取される目的をもつ思想は、その限りにおいて『憲法第19条、第21条』に依る保障を援用することができない。」というような判決(1950年9月9日福岡地裁判小倉支部判決)などを見ると、樋口氏の「たたかう民主制」批判ももっともなことと思われる。
憲法の教科書でも、たとえば、浦部法穂『全訂 憲法学教室』日本評論社』は、以下のように述べ、わが国では「たたかう民主制」をとりえないことを指摘している。
「ドイツ基本法は、表現の自由につき、『自由な民主的基本秩序を攻撃するために濫用する者は、これらの基本権を喪失する』として、いわゆる『たたかう民主制』の姿勢を明らかにしている。憲法というものは、たしかに、それじたい、一つの政治理念の表明であり、したがってあらゆる思想に対して完全に中立の立場をとっているとは考えられない、という見方も成り立ちえないわけではない。そして、そうであるならば、憲法に敵対するような思想に対しては憲法の保障は及ばない、と解する余地もないではない。またファシズムの経験に学んだドイツが、民主制を守るという強固な意思の表明として『たたかう民主制』の立場を打ち出したことは十分に理解できる。
しかし、『自由な民主的基本秩序』や『憲法体制』を擁護すべきことは当然であるとしても、それにとって危険な思想を禁じ排斥することができるかは、別問題である。というのは、ある思想につき、それが『自由な民主的秩序』や『憲法体制』にとって危険であるからというので禁止できる、ということになれば、それは権力にとって危険なすべての思想を抑圧することになりかねないからである。民主制を守るという名目のもとに、権力にとって都合の悪い思想が抑圧されるというようなことになれば、民主主義にとっての基本的な前提基盤が民主主義の名において破壊されることになってしまうのである。思想というものは、どんなものであれ、どこまでも自由であるということが確認されなければならないと思われる。」
日本国憲法は、「たたかう民主制」に関わる規定を置いていないし、解釈上もこれを採用できないことは以上のとおりである。しかし、法律の次元ではそれに似た規定が置かれている(例えば、国家公務員法38条第5号・・・「日本国憲法施行の日以後において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体を結成し、これに加入した者」は「官職に就く能力を有しない」。ほかにも電波法107条、破防法39条・40条に同様な規定がある。)。
「表現の自由」に関する米国憲法判例の法理を強く支持するわが国憲法学の主流は、表現行為の法律による規制について、「明白かつ現在の危険」、「ブランデンバーグ原則」、「明確性の原則」、「より制約的ではない他の方法(LRA)の原則」など、厳密なテストを要求する。たしかに表現の自由は民主制の基礎であり、最大限尊重されなければならない。しかし、表現の内容、それの向けられた対象者の境遇、表現行為の場、方法など諸般の客観的事実に照らし、「個人の尊厳」からの違背の程度が著しいものまで、民主制の基礎として尊重されなければならないいわれはない。
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① 「明白かつ現在の危険」・・・ある表現行為が他者の権利・利益や平穏な生活を侵害する明白で現実的、具体的な危険が存在する場合にのみ当該表現行為の規制が許されるという基準
② 「ブランデンバーグ原則」・・・①ををさらに進め、ある表現行為がそのような危険をもたらすことを企図した扇動にあたる場合にのみ規制が許されるという基準
③ 「明確性の原則」・・・規制の対象と規制の態様が客観的に明確でなければならず、あいまいな場合には「あいまいなゆえに無効」と判定すべという基準。①もしくは②とあわせて検討される。
④ 「より制約的ではない他の方法(LRA)の原則」・・・LRAとはLess Restrictive Alternativeのこと。同じ目的を達するために、表現行為に対する別のより制限的でない手段・方法がある場合にはそれによらなければならないという基準。①ないし③の基準と併用される。
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今、在特会などが在日朝鮮・韓国人に対して行っているいわゆるヘイトスピーチは、弱者、マイノリティへの威嚇・脅迫・侮辱・悪意をこめた差別であり、言葉の暴力に過ぎず、民主制の基礎とはなんら関わりない。これらは唾棄すべきものであって、「日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張」などと比較することさえおこがましい。速やかにヘイトスピーチ規制法を制定するべきである。(了)