ところがこれが変更されのが昭和50年(1975)のことで、この年最高裁が白鳥事件の再審請求に際して、
「事実認定に疑いを生じさせれば足りる」
という新たな新解釈を示したことから、被告人の側は、とにもかくにも刑事訴追の要件のどこかにひとつでも、「ここがおかしい」という疑いを生じさせさえすれば、判決で無罪を勝ち取ることができるという風潮を生みました。
そのときの白鳥事件の犯人というのは、昭和27年(1952)に札幌で帰宅途上の警察官(白鳥一雄警部)を後ろから拳銃で撃って死亡させたというとんでもない事件で、殺された警部には、
「貴様のおかげで俺達の仲間が監獄につながれた。
この恨みはきっとはらす。
組織的に貴様をバラしてやる。」
というの脅迫状も届いていました。
白鳥警部は、当時武闘闘争を図っていた日本共産党対策に従事していた人です。
事件当時は、日本がまだ占領統治下で、前年にサンフランシスコ講和条約が締結され、事件後の4月には条約が発効するというタイミング。
そして半島は、朝鮮戦争の最中でした。
当時の日本共産党の武闘派というのは、Korea進駐軍を名乗っていた半島人と、それに同調した一部の日本人の共産党員で、半島人というのはもともとは朝鮮戦争の前に済州島で共産パルチザンとしてあらゆる不法な破壊活動を行ってきた連中と、その仲間たちです。
そのような人の命をなんとも思わない破壊活動をするような連中を取り締まるのは、国籍や民族とか差別だとか、そういうことと一切関係なく、世界の常識です。
ところが日本国内で暴れまわった彼らは、警察署も襲うような実にとんでもない連中で、ついには拳銃で警察官を殺害する、しかも後ろから撃つという卑劣極まりない方法で殺した卑怯卑劣な犯罪者です。
ちなみに、日本では、最低の極道と言われた人たちであってさえ、どうしようもなくて相手を刺すときは、正面から戦いを挑んだものです。
自分の命を的にするから、値打ちがあると考えられてきたのです。
後ろから、しかも離れて拳銃で撃つとかは、日本人には思いもつかない発想です。
たとえば坂本龍馬の暗殺は、みなさまご存知のことと思います。
暗殺されたとき、竜馬は中岡慎太郎とともに、二人で旅館の二階にいました。
そこに現れた暗殺者も二名であったことは、よく知られたことです。
竜馬は北辰一刀流の達人。
中岡慎太郎も腕がたちます。
それでも暗殺する側は、もちろん見張り役とかは他にいたかもしれませんが、竜馬の目の前に現れた暗殺者も二名、しかも正面から刀を斬りつけています。
武は、物事を竹のようにまっすぐにするためにのみ用いる。
だから武と書いて「たける(竹る)」といいます。
これが古来我が国にある武を用いる時の精神です。
拳銃で、しかも後ろから、さらに職務を終えた帰宅途上を狙うなどといいう卑劣は、オウムの地下鉄サリン事件のように、何の関係もない人たちを巻き込んだ事件にも共通する、卑怯卑劣な精神がなしたものです。
しかもその殺害の実行犯は、日本共産党の「人民艦隊」で中共に不法出国しています。
この「人民艦隊」というのは、当時の日本共産党が、朝鮮戦争のさなかにあった北朝鮮に味方して、兵や兵糧などを送るのに用いたボロ船です。
こうして事件の検挙者は、殺害の実行犯ではなく、殺害の共謀共同正犯であった日本共産党幹部2名について行われました。
決め手となったのが、唯一の証拠物件である、警部の体内から取り出された銃弾です。
その銃弾は、事件の2年前に共産党員を自称する日本人のような顔をした日本人でない人が発砲した銃弾と旋条痕が一致したという鑑定結果が、米軍から出されたのです。
米軍による鑑定というのは、この時代においては、もっとも信頼性の高いものであったわけですが、裁判で弁護側は、その銃弾の鑑定が、当時日本を占領統治していた米軍によって鑑定されたものであるという点について、これを「捏造だ」と騒ぎ立てました。
なぜ「米軍が行った鑑定だから受け入れられない」というのかというと、当時の米軍が、South Korea側に立って戦争をしており、日本共産党が押すNorth Koreaとは敵対関係にあったからだというわけです。
戦争の最中なのだから、敵国に関連する鑑定結果はアテにならないというのですあ、まさに屁理屈です。
ところが理屈にならないことをゴリ押しするために、共産党が行ったのが、全国110万人の再審請求の署名です。
署名というのは、10万人署名くらだと、本物の署名のケースが多いのですが、100万人署名とかになると、実際には、飼い犬や猫の名前まで入れ、同じ人が繰り返し何度も署名した、極めて疑わしいものであるといわれています。
けれども、これを世論だとして、彼らは裁判を最高裁に持ち込みました。
最高裁の判決は「上告棄却」、つまり犯人側の敗訴です。
しかし、その判決文の中に、
「再審制度においても『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」
という一文がありました。
繰り返しますが、判決は犯人側の敗訴です。
しかしその判決文の中に、上の言葉があったことから、共産党はこの一文だけを抜き出して、これに
「白鳥決定」
という名前を付け、起訴の証拠にひとつでも、証拠能力に疑いのカケラがあれば、それは無罪だという、きわめて乱暴な主張を展開するようになりました。
この結果、以後に起きた様々な在日Koreanがらみの事件で、まさに「疑わしきは罰せず」が適用されて、あらゆる蛮行が無罪に持ち込まれることになりました。
すべて、逆なのです。
あべこべです。
もちろん冤罪は避けなければならないことですが、大事なことは被告人の無罪ではなくて、治安そのものの維持にあります。
一罰百戒で、事件や事故が未然に防げることが大事なのであって、そもそも事件や事故が起きてから対処するのでは遅いし、事件や事故が起こる前なら、たとえそれが冤罪であったとしても、被害者加害者双方ともに、軽微な怪我で済むのです。
たとえば、白鳥事件に関していうならば、警察官を殺そうとしているという噂が立った時点で、関係者全員が逮捕されたなら、事件は起きていないのですから、せいぜい始末書程度で済むのです。
拳銃は没収されるかもしれませんが、始末書なら前科にもならないのですから、冤罪も何もありません。
それで町の治安が保たれるのなら、むしろ結構な話なのです。
ではどうしたら良いのか。
その結論を、江戸の昔に求めた内容は、拙著で述べました。
小手先の「疑わしきは罰せず」という議論よりも、そもそも犯罪をいかに抑止し予防するかといった本来あるべき社会の形を、私達はしっかりと取り戻す必要があります。
なぜなら犯罪は、重大犯罪になってから逮捕するのではおそすぎるからです。
萌芽のうちに、その芽を摘み取る。
「なぜオレが捕まらなきゃならないの?、冤罪じゃないの?」と言ったケースも多々あるかもしれません。
しかし、反則金程度で、結果として殺人や放火や強姦、暴行傷害などの重大犯が防げるなら、それは社会的コストというべきです。
そうでなければ安全で安心な社会など、築けないのです。
このような問題提起を、もっとやさしくわかりやすく書いたのが、
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』です。
是非、ご一読を。
お読みいただき、ありがとうございました。

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