「マンスプレイニング」と指摘されて激昂する人が考えてみるべきこと/サイバーハラスメントへの加担という罪
社会起業家の駒崎弘樹氏が、ツイッターでやりとりをしていた仁藤夢乃さん(社会活動家)から、物言いをマンスプレイニングではないかと指摘され、「逆差別」だと反発して仁藤さんに関するデマを拡散した問題で、本日駒崎氏が、ご自身のウェブサイトに「謝罪」文を掲載している。こちら→ https://www.komazaki.net/activity/2018/07/post8380/
拝読したが、駒崎氏はなぜ今回の件がこのように炎上し、批判が相次いだかについて問題の本質を全く理解されていないと感じる。
まず、デマの拡散についてである。駒崎氏の文章には「怒りに任せて」「真偽を確かめないで」とあるが、真偽がどうであるか以前に、このようなツイートをすれば仁藤さんの信用を失墜させることは明らかである。つまり、真偽云々の前に駒崎氏の側には仁藤さんの名誉を毀損する意図があった訳である。このことは、複数著者とは言え、自身との共著があるにも関わらず「仁藤さんという活動家」「どんな人だろうか」などと書いておられることからも、貶める意図があったことが窺える。
これを「怒りに任せて」と弁明するならば、どんなハラスメントも同じような言い訳で許されてしまうことになる。
ここで重要なのは、駒崎氏自身がどんな思いでそれをやってしまったか、という弁明よりも、自身の行動によって仁藤さんにどんな損害を与えてしまったのか、そのことについてきちんと自覚しているのか、ということである。6万人超のフォロワーを抱える駒崎氏がこのようなツイートをすれば、仁藤さんへの攻撃を扇動することにもつながってしまうことを、きちんと自覚して反省すべきである。これはサイバーハラスメントである。
それが書かれていないまま、「怒りに任せてツイートしてしまいました」では「自分は何もわかっていません」と表明しているようなもので、言い訳の域を出ない。「弁解の余地はありません」と書いておられるが、その矛盾には呆れてしまう。
また、このことは、駒崎氏が自身のもの言いについて、仁藤さんからマンスプレイニングだと指摘をされたことに激昂したことにも通じる。
まず、「あなたのその言動はハラスメントです」と言われた時に、指摘された相手が真っ先に行うべきは「自分のどんな言動がそう感じさせてしまったのか」と自身について振り返ってみることである。その上で納得がいかないならば、「なぜそう感じたのですか」と相手に尋ねてみるべきだ。
相手から更なる指摘がある場合には耳を傾け、思い当たることがあるならばきちんと謝罪してから議論を再開すれば良い。あるいは、さらに納得がいかないのであれば、「なるほどあなたはそう感じたのですね。でもこちらにはそうした意図はなかったのです」と冷静に説明をすれば良いだけの話である。
駒崎氏は仁藤さんから「マンスプレイニング」との指摘を受けたことについて、「深く傷つき、そして怒りました」と書いておられるが、仁藤さんは昨日のやりとりのなかで、「もし女性である私に対してだけではないということなのでしたら、議論のためにもそうした物言いをお辞めになったほうが良いと思います」ともおっしゃっており、女性差別の意図がないのだとしても、よくないことだということを明確に述べている。
「自分にはハラスメントの意図はなかった」と落ち着いて伝えるならば悪いことではないが、いきり立って「逆差別だ!」と喚き立てることは、全く建設的でない。ましてや、相手の名誉を毀損するようなツイートをするなど、愚の骨頂である。
確かにこうしたことは、言うは易く行うは難しであるから、私自身も自戒を込めてという部分がある。しかし駒崎氏ほどの「言論人」であれば、とっさのやりとりのなかでこうした建設的な方向に議論を修正することがお出来になるのでは、と思うが、いかがだろうか。
つい昨日のことであるが、この件について当方のFacebookに駒崎氏への抗議の文章を綴ったところ、駒崎氏の今回の発言について、氏の人格を厳しく「論評」(ご本人は「分析」と言っておられたが)されるかたから反応があった。
そのかたは仁藤さんや、そのほかにもサイバーハラスメントや差別的な被害を受ける女性に共感して怒りを持って反応されたのだと推察したが、私は「お気持ちはわかるが、人格攻撃はいかがなものか」ということをご返事した。
そのかたが今回の件や駒崎氏についてどのように感じようとも、また表現しようとも自由であるが、私自身は政治に携わる人間の端くれとして、人格攻撃には賛同できない。
なぜなら、議員は言論で勝負していく仕事であることから、議員の「論」が、人格攻撃や悪口の応酬になってしまったら、制度や政策の是非を問う場が混乱するためである。
性格の悪い人だ、酷い人だと思う人物から素晴らしい立案がなされることもあれば、その逆も然りである。
私は駒崎氏の社会起業家としての活動に必ずしも賛同する立場ではないが、自分もサイバーハラスメントに悩まされている当事者の1人として、今回の件で批判すべき点を誤るわけにはいかないのである。
言動について批判をすることと、その向こう側にある相手の人格を貶めることとは別の問題である。批判と中傷の区別をしっかりとつけねばならないと私は考える。
心のなかで、相手の人格についてどのように思うかは個々人の自由だけれども、それを口に出して他者に伝えるかどうか、ましてや、誰もが見ることのできるウェブ上に書き立てるかどうかということは、全く別の次元のことである。どんなに腹を立てていても、言論の場で品位をなくしてはならないと私は自分を戒めていたいと常々思っている。
しかしながら、そのかたには理解してもらえず、持論の展開が続いたので、「これぞマンスプレイニング」とため息が出た。
その後のやりとりのなかで、私に反論され「ムキになった」と認めておられたことから、そのかたの中にも女性や若手に対する見下しがあったのではないかと指摘をしたところ、今度は「それこそ人格攻撃だ、中傷だ」と、あたかも「逆差別!」と言わんばかりのご立腹の様子であった。こうなるともはや駒崎氏のケースとあまり変わりがない。「俺は悪くない!」と考えが凝り固まってしまい、相手がどんな気持ちになったか、というところには到底思いが及ばないのである。残念だが、いったんやりとりの場から退場願うほかない。
私は最後にそのかたにお伝えしたのだが、「ムキになるということは、認められたい思い、承認欲求のあらわれではないですか」、という気がしている。
相手に認めさせたい、つまり、自分の意見にうんと言わせたい、賛同させたいという欲求からその発言をしてはいないか。「認めさせたい」相手は、自分より社会的地位が低い・キャリアが短いなどであったり、年下であったり、女性であったりしないか。それらの人たちには「自分の意見は受け止められて当然」と心のどこかで思ってはいないか。故に、反論されると必要以上に怒りや不満を覚えてしまうのではないだろうか。
「マンスプレイニングである」と指摘をされると、「自分は誰に対してもこうだ」と開き直る男性がいる。しかし、本当にそうだろうか。自分より立場の上の人や、男性、目上の人にも同様の言動を本当にしているだろうか。
「している」と思う方もいるだろう。しかし再度伝えたいのは、重要なのはあなたの弁明ではなく、「相手がどう感じたか」なのである。
セクハラをして、「自分にはセクハラの意図はなかった!男性への差別だ!」と「逆ギレ」をする人を、誰が擁護するだろうか?
同じことではないだろうか。
もうひとつ、忘れてはならないのは、仁藤さんがこれまでどれほど酷いサイバーハラスメントや女性蔑視を受けてきたかということである。仁藤さんだけでない。「もの言う女性」に対する攻撃の酷さは、あちこちで可視化され、いまやMeToo運動とも共鳴し合って、人権問題として取り組むべき課題であることが認識されつつある。
女性差別、蔑視というものは、多くの男性の「無意識」のなかに住み着いているからこそ厄介なのである。
しばしば女性に向けられる支配的、抑圧的なものいい、「俺の話は聞いてもらえて当然だ」という男性側の無意識のおごりは、女性たちのこころを疲弊させる。男女平等と言うならば、まず「そんな差別は存在しない!」「それこそ逆差別だ!」と怒り出す前に、女性たちの声に耳を傾けてみてほしい。女性たちが放棄させられてきたあらゆる権利について、思いを馳せてほしい。私たち女性には、「与えられる権利」よりも、「闘って勝ち取らなければならない権利」のほうがずっと多かったのだから。
そのことに思いを馳せることができる人に、次代を担う言論人として活躍して頂きたいと思っている。
駒崎氏は謝罪文の最後に、仁藤さんと「直接お会いして今回の件のお詫びと共に、今後の児童虐待防止について語り合えたら、と思います」と記しているが、もしそれが実現するのならば、その時までにいまいちど、ご自身の行為の何が問題であったかということを再考されるべきであろう。
あくまで駒崎氏が「言論」の空間でこれからも信頼を得て活動したいと思われるのならば、の話であるが。
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お詫び
しばらくFacebookへの投稿は控えるとしてきましたが、今回の件は現場で頑張っている女性への攻撃として看過できないものであったため、サイバーハラスメント、ネットハラスメントの被害を受ける当事者のひとりとして、筆をとりました。また、「マンスプレイニング」についても過去に言及している立場から、書いておきたいと思いました。