2016年五月の初頭ごろだったか、Twitterで士農工商という表記が教科書から無くなっているという話が話題になっていた。そう。もう江戸時代の身分制を「士農工商」として表記することは退けられて久しいのだ。少なくとも一九七〇年代初頭に疑問が呈され、九〇年代にほぼ否定され、その結果として二〇〇〇年代半ば以降、教科書から消えはじめた。
かねてから近世身分制社会について個人的にまとめたいと思っていたので、いい機会と思い改めて研究書籍や論文を読み直したり、新規に関連文献を読んだりして一気にブログ記事としてまとめてみようと思いたったのが運の尽き。なんだかんだで書き終えるまで三か月ほどかかってしまい、かつ三万三千文字オーバーの超長文記事となってしまった。誰が読むんだ。
というわけで、長文を読みたくない人のための簡単なまとめ
・士農工商は職能分担を表す言葉で、社会通念として身分体系を意味するようになるのは十九世紀、江戸時代後期だが、一貫して制度を示す言葉ではなかった。
・江戸時代の基幹身分は兵農分離を前提として支配者層としての武士・朝廷・寺社、平人としての百姓・町人、賤民の三身分だが、身分制に含まれない周縁的人々「身分的周縁」が多数存在していた。
・江戸時代の身分制の成立は1670年代、キリシタン弾圧を契機として作られた年一回の「宗旨改め」が実態として運用されはじめてから。
・近世身分制は村や町などの地縁的共同体、イエなどの血縁的共同体、種姓イデオロギーに基づく血統、役の負担の種類、不動産や道具の所有の有無、職業、仲間や座などの共同組織、組合村や組合町などの社会的結合、公家や寺社・宗派を本所とした社会的編成、等々様々な社会関係の中で差別被差別の関係が決定された。
・身分制の周縁で蔑視されたり貧困に甘んじさせられた身分的周縁の人々の中にも強力な集団化を成し遂げて身分制社会で強く生きた例も多い。集団化の差が身分的差異とは別に相対的に社会的立場の強弱を決定した。
・身分的周縁とともに、身分的中間層として支配者と被支配者の間で支配を支える人々が存在していた。
・身分制社会の中で経済力を蓄え、事実上の社会的権力として君臨した大店・豪商と豪農層がいて、彼らの台頭と平人層の没落が同時に進行して格差社会化が進み幕藩体制を揺るがした。
・武士身分は金で買えた。同様に町人、百姓身分も金で失う。
・固定的な身分理解から柔らかい身分理解へという近世身分制社会観の転換が起きているのであって、士農工商がなかったからといって江戸時代に身分差別がなかったことを意味するわけではない。むしろ流動的な社会関係の中で差別・被差別の関係が複雑に張り巡らされた、より強固な身分差別社会であったことが明らかになってきたのである。
ほら、要点まとめただけでも長い・・・というわけで以下長文。
第一章では日本の「士農工商」観の変化について、第二章では近世身分制度研究の研究史を簡単に、賤民の起源をめぐる近世政治起源説から中世社会起源説への転換、そして身分的周縁研究へという流れを描き、第三章では兵農分離、検地と刀狩り、キリシタン弾圧と宗旨改めによる戸籍制度の成立を通して近世身分制社会の成立を概観、第四章では近世身分制の主要身分のうち支配者層である武士、朝廷、寺社と中流層となる百姓・町人のアウトラインを、第五章では前半で身分制社会の周縁から事実上社会的権力として君臨する大店・豪商登場過程を描き、後半で支配機構の末端で武士でも平人でもない支配をささえる人々としての身分的中間層を紹介、第六章で身分的周縁としてえた・非人の賤民制と身分制社会下でおきた集団化の波についてまず描き、続いて身分的周縁の例として様々な宗教者の例を身分的上昇を遂げた神職とかつてのエリートから没落していく陰陽師、強力に組織化を進めながら解体していく虚無僧などを中心に紹介し、近世の身体障害者差別と障害者ながら高い地位を獲得しで独自の格式格差社会を作った盲人について、そして都市の身分的周縁となる日用(日雇い労働者)層について簡単にまとめている。
「士農工商」とは何だったのか
「士農工商」の由来と受容
「士農工商」という言葉と社会を構成する人々を四民に分ける分類は古代中国の古典に由来する。「春秋穀粱伝」に「古者有四民,有士民,有商民,有農民,有工民。」とあり、「漢書」には「士農工商,四民有業。學以居位曰士,闢土殖穀曰農,作巧成器曰工,通財鬻貨曰商。」、「管子」にも「士農工商四民者,國之石民也。」とある。いずれも士農工商に身分的序列の意味はなく、職能から社会を構成する人々を分類する意味でつかわれていた。
いつごろ士農工商の分類が日本に伝わったかは定かではないが、「続日本紀」の「霊亀元年(七一五)五月辛巳朔」に「四民之徒。各有其業」とあり、十四世紀に成立した「神皇正統記」にも「凡男夫は稼穡をつとめておのれも食し、人にもあたへて、飢ざらしめ、女子は紡績をこととしてみづからもき、人をしてあたゝかにならしむ。賎に似たれども人倫の大本也。天の時にしたがひ、地の利によれり。此外商沽の利を通ずるもあり、工巧のわざを好もあり、仕官に心ざすもあり、是を四民と云ふ。」という記述がある。平安~鎌倉時代までに「士農工商」「四民」という概念は中国古典と同じく身分差を意味しない、社会を構成する職能別の分類として定着したようだ。
ただ、日本では受容される過程で「士」の指す対象が武士となった点に特徴がある。「中国では、士は何事かをなしとげる能力のある人、とくに学問によってそれを行える人の意味が強い」(朝尾直弘「日本の近世 7 身分と格式」1992 P15)、すなわち士大夫層を指すが、神皇正統記では士を「仕官にこころざす」者とし、続けて「仕官するにとりて文武の二の道あり」として武士の意味を付け加えた。十五世紀、一向宗の僧蓮如は阿弥陀如来の本願をたのむ心にすがって往生できる人々を士農工商を前提として四つに分類し、士にあたる人々を「奉公・宮仕ヲシ、弓箭ヲ帯シテ主命ノタメニ身命ヲオシマズ」とした。慶長八(1603)年の日葡辞書にも士農工商の語が登場しサブライ(侍)・ノウニン(農民)・ダイク(大工)・アキビト(商人)」また「四民」として「サブライ(侍)・ノウニン(農民)・タクミ(匠)・アキウド(商人)」と紹介されている。(朝尾1992 P17-18)
ここまで中国でも日本でも基本的に「士農工商」の各々の間に身分の別はない。以後近世にはいっても「士農工商」は基本的に身分としてではなく職業分類としての使われ方が主流であった。
近世の士農工商観
しかし、豊臣政権による太閤検地とそれに続く兵農分離によって武士とそれ以外との区別が生まれ、続く徳川幕府もその体制を引き継ぐと、それ反映して士と農工商との差別関係が表現されるようになる。中江藤樹は「翁問答」にて「士は卿大夫につきそひて政の諸役をつとむる、さぶらひのくらゐ也。物作を農といひ、しょくにんを工と云、あき人を商と云。この農工商の三はおしなべて庶人のくらゐなり。」として、士と農工商の「くらゐ」の差を唱えた。農工商の間に身分の差はない。
一方、西川如見は著書「町人嚢」(享保六年)で「五等の人倫」論に基づいて士農工商を整理した(大島真理夫「士農工商論ノート」)。すなわち、天子=禁中(天皇)、諸侯=諸大名、卿大夫=旗本のうち物頭の地位にある者、士= 一般の旗本、そして庶人の五つが五等で、庶人は彼ら天子・諸侯・卿大夫・士の家臣や下級武士も含む士農工商の四民であるとする。
「庶人に四つの品あり。是を四民と号せり。士農工商これなり。士は右にいへる諸国又内の諸侍なり。農は耕作人なり。今は是を百姓と号す。工は諸職人なり。商は商売人なり。上の五等と此四民は、天理自然の人倫にて、とりわき此四民なきときは、五等の人倫も立つことなし。此故に、世界万国ともに此四民あらずといふ所なし。此四民の外の人倫をば遊民といひて、国土のために用なき人間なりと知べし。」
士農工商の間に特に身分差をとらえていないものの、その四民の外にある人々に対して「国土のために用なき人間なり」として差別的な視線を向けてもいる。同様の視点は近世初期の仮名草子「可笑記」にもある。
「それ天下にたからおおくありといへども、人をもって第一とす。人の中にも士農工商の四民を以てたからとす。士とは奉公人の事、農とは百姓の事、工とは職人の事、商とはあきんどの事。此外の者は遊民とて何の用にもたたず、ただ鼠のごとし」
職分論から身分論へ
ほぼ江戸時代を通して士農工商は職分の違いとして国を構成する人々「四民」全体を指すことばとして使われてきたが、江戸時代も中~後期になると、社会的矛盾が利害の衝突として現れるようになり、百姓と職人、商人をはじめとした諸職業、諸社会集団の間の軋轢が社会問題となってくる。その結果「士農工商」を身分制社会のあるべき姿、理想像として捉える見解が登場する。
寛政十一年(1799)、藤田幽谷は著書「勧農或問」で町人の奢侈が農業の衰退をもたらしているとして、商業の抑制のため、商人の身分制限を主張した。
「猶又一法を設けて農を利するのみにあらず、これを貴び、商賣をば是を抑へ且賤しむべし、士農工商の次序を以四民の格を明らかにし、且其種類を定め、百姓町人かたく婚姻を通ずべからず…… (中略)…… (商人は)人別帳にも御百姓とは別にして、帳の末へ記させ、此商人は何程富たりとも、田地を取に限ありて、百姓一軒前の半分とか、三分一。四分一ならでは持たせることを禁じ、いかに著姓旧族たりとも、既に商人と定る上は、小百姓の下座と定めて是を辱しむべし…… (後略)」
ここではじめて、士農工商を身分序列として捉える言説が登場するのである。商業への敵視が士農工商という言葉に身分序列の意味を付与し、江戸後期という流動化する社会の中である種の理想論として語られるようになった。十九世紀初頭には歌川国芳の農耕絵巻「労農夜話」など、士農工商を身分序列としてとらえる作品も登場するようになり、この時期、ある程度「士農工商」が身分の違いを表す言葉として捉えられるようになったと考えられている。
つまり、職能区分を示す「士農工商」が身分として捉えられるようになったのは十九世紀に入って、江戸時代後期から幕末のことであり、それは言葉の捉えられ方であって、制度としても社会としても実態を表すものではない。ただ、この身分の差を表す言葉としての「士農工商」に対するスローガンとして「四民平等」が幕末維新期に大きく唱えられるようになる。
徴兵制と四民平等
明治政府において「四民平等」は徴兵制の施行とセットで広く唱えられた。「徴兵告諭」(明治五年(1872))は四民平等となって庶民が権利を獲得し平等となった今、武士が独占していた兵役も広く負担されるべきであるとする。
「然ルニ大政維新列藩版図ヲ奉還シ辛未ノ歳二及ヒ遠ク郡県ノ古二復ス、坐食ノ士ハ其禄ヲ減シ刀剣ヲ脱スルヲ許シ四民漸ク自由ノ権ヲ得セシメントス、是上下ヲ平均シ人権ヲ斉一二スル道ニシテ則チ兵農ヲ合一二スル基ナリ、是二於テ士ハ従前ノ士二非ス民ハ従前ノ民ニアラス、均シク皇国一般ノ民ニシテ国二報スル道モ固ヨリ其別ナカルヘシ」
引用文中にもあるように制度の変化は士農工商から四民平等へではなく、「兵農分離」から「兵農の合一」へという流れである。
斉藤洋一・大石慎三郎著「身分差別社会の真実」(1995年)によると、「士農工商えた非人」と士農工商に被差別層の二者を加えた言い方が登場するのは明治七年(1874)のことだという。明治時代に新しく作られたこの言葉は昭和初期の融和教育を通じて広く浸透した(斉藤・大石 1995 P32-34)。昭和初期の融和教育の展開は初期の部落解放運動の大きな成果だが、同時に「士農工商えた非人」の身分制社会から「一君万民」の平等な一つの臣民へという虚構にも利用され、挙国一致体制形成に少なからぬ影響を及ぼすことになった。
江戸の身分制度研究略史
吉田勉「歴史/身分論から差別論・穢れ論・境界論・地域社会論へ―歴史学・民俗学・人類学・宗教学などの成果 前近代部落史研究の課題と展望」(2014)によれば戦後の賤民研究は次の四つの時期に分けられる。
(1)林屋辰三郎の散所論や、井上清・原田伴彦らがリードする近世政治起源説が主流だった時期(戦後~1970年代中頃)
(2)卑賤観としての触穢論を軸として、林屋散所論に代わって、黒田俊雄・大山喬平・網野善彦らがリードする中世非人論が主流となり、また渡辺広・横井清らの問題提起を承けて、朝尾直弘によって近世政治起源説から中世社会起源説へと転回した時期(1960年代中頃~1980年代初頭)
(3)(2)の時期を受けて、民俗学・人類学の「ケガレ」論議がさかんになり、歴史学でも境界論に基づく賤民像の転換や、「死と再生」というパラダイムから歴史学・民俗学・人類学・宗教学などのアプローチが行われた時期(1980年代~2000年頃)、
(4)身分的周縁論、三昧聖・散所・声聞師・舞々などの諸被差別民論、「ゆるやかなカースト社会」論、旦那場制論からの地域社会へのアプローチなど、多様な試みが分散的に取り組まれている時期(2000年頃~現在)
近世政治起源説から中世社会起源説への転換
「近世政治起源説」は幕府・藩などの近世政治権力によってえた・非人をはじめとした被差別層は皮革業や屠殺業、死刑執行人などの職業を強制され、被差別的な身分に落とされたとするもので幕藩体制の分断統治政策によって身分差別社会が作られたとする。この見解は早くも村落共同体からの疎外という観点から1950年代に疑問が呈され、1970年代半ばまで通説的な地位を保った後、「中世社会起源説」の登場で否定されることになった。
「中世社会起源説」は1980年代に村や町のメンバーシップがそれぞれの自治に基づいていた点から被差別層が国家による強制ではなく「自立」的な地縁的・職業的身分共同体を重視して、穢れ思想など諸要因の影響で他の身分的共同体からの排除と差別の中で形成されたとする共同体決定説と、領主権力による役負担に基づく社会的分業との作用の中で被差別層をはじめとした身分差別が生み出されたと捉える。
「身分制度は、たしかに各時代の支配権力による政治的・法制的な規制や編成のこころみによって秩序化・制度化がはかられるが、身分そのものは、各時代の社会がそれぞれの特質に即して内在的に生みだすもので、したがって、社会構造のなかで広く人びとの存在形態、意識や感覚と切り離すことができず、それらを含めて分析することをつうじ把握され得る、との認識がこの十年間に学界共通の財産となった。」(朝尾直弘1992 P25-26)
鎌倉時代から室町時代にかけての社会的脱落者への差別が血縁的差別へ発展したとする中世非人論や、中世の非人を職能民と捉え、彼らの聖から俗への転換と穢れ観の変化の関係に求める網野史観や境界論などが主流となりつつ、民俗学的な穢れ思想の研究の深化を経て、身分差別への宗教的な影響なども考察された。このような研究史の中で「中世社会起源説」は地域社会の実態調査を重視することとなった。
士農工商から身分的周縁へ
その成果として1990年代に近世社会史・賤民研究のフィールドで活発化したのが「身分的周縁」論であった。日本各地の江戸時代の人々・集団の細かな実態調査が進むと、被差別層とされた人々はもちろん、従来の武士、百姓、町人とされた人々にも従来の身分の枠に収まらない多様な生き方をしている人々の姿が次々と浮き彫りになり、同時に江戸の身分社会が「士農工商」という言葉で表現されるような固定的なものではないことが明確になった。そこで、身分の枠から外れた周縁的人々が「身分的周縁」と名付けられ、その研究の積み重ねを通じて、あらためて近世江戸時代の身分制社会が捉えなおされるようになった。
身分的周縁論をリードする研究者の一人吉田伸之は「成熟する江戸」(2009)でこう書いている。
「身分的周縁というのは、このような士農工商といった固定的な身分の枠に収まらず、また単純化できない人々のありようであり、身分的周縁論というのは、これらを取り上げて、近世社会を構成するあらゆる要素を具体的、かつていねいに明らかにしてゆこうとする方法のことである。」(吉田伸之2009 P142)
「士農工商」という言葉が教科書から消えたのも、1980年代の賤民研究の「近世政治起源説」から「中世社会起源説」への転回以降の「身分的周縁」論に至る長い研究の蓄積によって、江戸の身分制社会が政治上の制度としても社会的実態としても「士農工商」の身分序列ではないということが明らかになったからである。
近世身分制社会の成立
兵農分離~太閤検地と刀狩り
近世の身分制度は兵農分離を軸としている。その土台は豊臣秀吉による太閤検地と刀狩りによってつくられた。太閤検地によって統一基準で算定された石高に基づき、秀吉から大名へ、大名から家臣へと領地が石高で与えられ、その知行の大きさに見合う軍役奉仕が義務付けられる。また、太閤検地によって百姓の耕作権が公認されるのとひきかえに、領主に対する貢租の納入が義務付けられる。支配者としての武士と被支配者としての百姓という構造が確立されていく。
この兵農分離に基づく身分構造の制度化として実施されたのが「刀狩り」である。「刀狩り」も、農民の武装解除という通俗的な理解が根深いが、そうではない。刀狩りは刀・脇差の所持ではなく帯刀を禁じることでの帯刀の有無を表象とした身分統制、すなわち『武士に奉公する者と、奉公しない百姓、戦う奉公人(兵)と戦わない百姓(農)の差別化』(藤木正志 「刀狩り」2005 P106)であった。
「秀吉の刀狩りは、村に多くの武器があることを認めながら、村と百姓が武装権(帯刀と人を殺す権利)の行使に封印することを求めた。帯刀(携帯)権を原則として武士だけに限り、百姓・町人には脇差の携帯だけを認めた。刀を除く武器も、その使用は凍結された。しかし、村と百姓が完全に武装解除されたわけでも、文字通り素肌・丸腰にされたわけでもなかった。」(藤木正志 2005 P228)
このような豊臣政権の兵農分離政策は天下一統から朝鮮出兵へ至る諸戦争への役の動員体制のために作られた。武士の軍役への動員のためにも武士とそれ以外とを分離する必要があり、百姓や職人など様々な職能に応じた動員体制が同時に構築される。それは職種ごとに居住地を分ける志向ももっており、武家奉公人の在地からの離脱と、村方居住者の百姓化、不徹底に終わったが一部で商職人の城下町への集中といった変化があった。この豊臣政権の戦時体制を近世初期身分制と呼び、これを受け継いだ徳川幕府によって近世身分制社会が成立する。(横田冬彦1992 P52-54)
宗旨改め(宗門改め)と江戸身分制社会の成立
豊臣政権はまた、役の動員のために戸口調査も実施した。天正二十年(1592)の「人掃令」である。村ごとに各家単位で武家奉公人、職人、百姓、村役人、障碍者を分けて夫役台帳にとりまとめる。その共同体がどの程度の役の負担を行えるか把握する目的で作られた。このような豊臣政権下で始められた戸口調査は不十分ながら「戸籍制度」の萌芽であったが、徳川幕府はそれを制度として確立する。それが「宗旨改め(宗門改め)」である。
慶長十七年(1612)の禁教令以後、一般民衆レベルで町・村など共同体に依拠した信仰調査とキリシタンの棄教が進められ、その名簿が作成されるようになる。寛永期(1624~45)、それまでの過激な弾圧によって国内から宣教師が一掃されると、キリシタン改めは「全家族・全住民の町・村単位の登録制度へと転換」する。寛永十二年(1635)、全国的なキリシタン転宗者と一般民衆からの起請文が徴収され、寛永末年(1645)までに各共同体ごとに全住民の家族構成と宗派・旦那寺の記載がされた宗旨人別改帳が作成、寛文期に宗旨人別帳は毎年登録が義務づけられた。
この宗旨人別帳に「職業に関わりなく、村の帳に登録されたものが『百姓』であり、町の帳に登録された者が『町人』」(横田冬彦1992 P73)、さらに『百姓』『町人』とは別帳で出され、寺請から属籍が区別された者が『賤民』となる。
「すなわち江戸時代、将軍と大名によって構成された『公儀』のもとで、すべての人々が宗旨改帳という『戸籍制度』によって登録されていた近世的な身分制度とは、<武士―平人―賤民>という身分制度であった。」(横田冬彦1992 P76)
近世身分制社会の構造~武士、朝廷、寺社、町人、百姓
三つの支配者層
支配層として君臨するのが、
(1) 徳川将軍家を頂点として、独自の家政機構を備え封建領主として被支配層の統治を認められた大名と、幕府の行政機構において官僚としての職務を分担する旗本・御家人、および各大名の家臣団からなる武士。
(2) 幕府の権威づけや元号宣下、官位叙任、祈祷や諸宗派の統制などの宗教的機能を持ち、幕藩体制を将軍家とともに支える役割を担わされつつも、制度上徳川将軍家に従属し、封建領主として大名と並列にあった天皇・公家。
(3) 近世身分制社会を成立せしめる宗旨改め制度の管理運用、キリシタン禁制のチェック機能、被支配身分の人身同定機能を担い、寺院本末制度によって本山・本寺の地位を保障し各宗派の組織化を行って幕府の統制下で宗教社会を形成した寺社。
の三つである。公家貴族層と寺社領主層を長袖身分と呼んで区別する場合もあるが、公家貴族層は朝廷とその領地、後述する公家家職として編成された諸集団、寺社は宗教世界と寺社領地のみに支配力を行使した。
支配者としての武士身分
大名は将軍家の下で「国や郡、或いは一万石以上に及ぶ一定領域を公的に支配・領有し、独自の家臣団と家政機構・軍事機構・財政司法行政機構を有することを承認された武家の家格である」(吉田伸之2009 P27)。御三家御三卿からなる親藩、徳川家の直臣家臣団であった譜代、徳川幕府成立以前から徳川家と同格の大名であった外様からなる。親藩・譜代・外様という将軍家との距離、所領規模(石高)、国持大名から城主、無城主など領地の格、参勤時の詰の間の違い、官位等によって格式が定められ、階層秩序化された。
旗本は将軍の直臣で将軍に謁見できる「御目見」以上の武士身分のうち、一万石未満の者を指す。高家二十六家と交代寄合二十九家を頂点として諸大夫・布衣・布衣以下の三層に序列化され、幕府の官僚として各奉行職や番頭・大番頭など重職を担った。
御家人は御目見以下かつ布衣以下の武士で、独自の所領を持つことはなく幕府から切米・扶持を給付されるとともに町屋敷を与えられて下層町人に貸し出して地代を徴収するなどして収入を得ていた。その大半は旗本・上位御家人が組頭を務める組の支配を受け、「組の者」として様々な職に就いた。下層御家人となるとやっていることは大工・左官・掃除之者・台所人など職人や賤視された日用層と変わらなくなる。
天皇・公家~朝廷社会
徳川幕府は元和元年(1615)、禁中並公家中諸法度を出して天皇・朝廷をその支配下に置いた。同法度は天皇・朝廷の弱体化を目指したものという理解はすでに否定されている。
「現在では、戦国時代末期に解体に瀕していた朝廷と公家の秩序を再確立し、幕藩体制という近世支配の一翼を担わせるため、体制に適合的な天皇と朝廷に再編し、その存続と機能の維持を図ったものと考えられている。」(藤田覚「江戸時代の天皇」 2011 P15)
天皇に対して学問をはじめ日本国の王としてのふるまいを求めるとともに、天皇を支える朝廷の序列を確立した。皇族、五摂家・清華家の堂上公家とそれ以外という家格、現任の摂政・関白・太政大臣・左大臣・右大臣を上位としそれに次いで世襲親王家、非現任大臣、諸親王という序列である。その下に地下官人が従う。
朝廷統制のため、幕府は様々な規制と役職・組織を設けた。代表的な役職が武家伝奏である。武家伝奏は幕府と朝廷の交渉・連絡役で関白に次ぐ地位が与えられ、当初は武家昵懇衆という親幕府公家から選ばれ、後に公家候補者を朝廷が推薦し幕府が選任する仕組みとなったが、同職は幕府への忠誠を誓う誓詞血判の提出が求められた。同じく任命に幕府の同意が必要な議奏も設置され、関白と武家伝奏・議奏が朝廷の意思決定を行う執行部となった。また、朝廷監督機構として京都所司代が設置、所司代指揮下の禁裏付武家が旗本から選任されて京都に常駐し、朝廷財政の管理や御所内の役人の指揮監督にあたった。
公家たちは神道の吉田家・白川家、陰陽道の土御門家、鋳物師の真継家などそれぞれ家職を持ち、宗教者や職人たちを編成して主要な収入源とするとともに、朝廷は天皇を頂点とした封建領主として所領の村や町を支配する。この点で朝廷は幕府に従属する大名領主の一種であったといえる。
ただし、一般的な大名と違って天皇は幕府の権威づけや元号宣下、官位叙任、祈祷や諸宗派の統制などの宗教的機能を持ち、幕藩体制を将軍家とともに支える役割を担っていた。
寺社社会
近世身分制社会を成立せしめる宗旨改め制度の管理運用を担ったのが全国四十六万の寺社である。天台宗・真言宗・浄土宗・浄土真宗・律宗・時宗・法相宗・日蓮宗と曹洞宗・臨済宗・黄檗宗の禅三宗をはじめとする諸宗派からなり、キリシタン禁制のチェック機能と、被支配身分の人身同定機能を持たされた。
近世寺社の類型は以下の四つに分類できる。(吉田伸之2009 P32)
1) 将軍家や大名家の菩提寺
2) 中世以来の伝統を持つ宗派の総本山をはじめとする有力大寺院
3) 都市域における都市民の旦那寺
4) 在地社会における村落構成員の旦那寺
幕府は各宗派の本山・本寺の地位を保障して各宗派の大小寺院を末寺として組織化する権限を与え本山・本寺が末寺を統制する体制を整えた。寺院本末制度である。同時に各地の領主にもその支配下の寺院の管理を命じ、二重の統制体制が築かれた。基本的に僧侶はこの本末制度下で各寺院に所属することが求められ仏教僧侶の集団化が図られる。
同時に有力寺院には朱印地が与えられ、これを寺領として支配下の村・町から年貢や賦役を徴収する権限が与えられた。この結果、支配者層としての寺社領主が登場、その支配下としての寺社社会が成立する。
寺社社会は複雑に入り組んでいる。領主としての有力寺院が頂点にあり、寺院の管理運営を行う僧侶たち、被支配層としての百姓と町人、賤民たちがいる。江戸の場合、寺社領主たる寺院がその寺領の百姓・町人ら民衆を支配するが、寺院と僧侶たちと百姓たちは寺社奉行の、町人は町奉行の管轄下となり、さらに寺社領主が末寺であった場合には本末制度にのっとってその上位の本山がその寺社領主の統制を行う。
1、2のような寺領を持つ有力寺院は支配者層の一角であるが、一方で3、4のような地域共同体の旦那寺はむしろ被支配者層に近く、さらに本末制度下で組織化されない多数の無所属僧侶や宗教者が存在して、賤視され身分的周縁を構成する。
また、寺院ではなく神社も村や町に存在して信仰を集めた。神仏習合の言葉通り寺院でもあり神社でもあるということが多い。寺社同様に有力神社になると幕府から社領地を与えられて領主となるが、多くは町や村などの地域共同体の中で神事を担っていた。神社の神職に関する身分編成は公家の吉田家・白川家が中心となり、有力神社の神職は堂上公家が担ったが、大半の神社の神職は吉田・白川家を通して官位叙任されるか装束の許状を受けることで神職身分を得て神事を行い、氏子の村々の費用負担によって運営される。神社の神職を管轄する部署として寺社奉行下に神道方が設けられた。吉田家によって編成されなかった、あるいは敢えて編成を求めなかった神職=神道者も多く、彼らもまた賤視される身分的周縁を構成する。
分厚い平人社会~村と町
寛文期までに、主に寛政の飢饉を契機とした農政転換を背景として戦時動員体制の根幹であった役負担は米や銀など代銭納制に置き換えられつつも、その役の動員を目的とした戸籍制度の成立によって、被支配者層としての平人社会が姿を現してくる。百姓からなる「村方」=在地社会と町人からなる「町方」=都市社会である。彼らは移動と職業変更の自由を禁じられ、地縁的・血縁的共同体を生活基盤として三身分の中の中間層を形成した。
村方~在地社会
「村は、百姓の家屋敷から構成される集落を中心に、田畑などの耕地や野・山・浜を包摂する広い領域を持つ小社会である。その中心には、百姓の小経営と生活を支える自治組織=村中があった。村は農業生産を軸とする農村が大半であるが、漁村・山村・在郷町など多様であった。」(吉田伸之 2009 P33)
「職業に関わりなく、村の帳に登録されたものが『百姓』であ」ったから、若干トートロジーじみているかもしれないが、つまり百姓が住んでいたのが村である。いうまでもなく、百姓は農民もいれば漁師もいるし、木こりや猟師もいる。さらにいうと村には商人や職人も住んでいて、彼らは百姓として登録されるわけだ。百姓身分の商人・職人という存在は「士農工商」というくくりだと見えなくなる。
とはいえ、兵農分離に続いて商農分離と呼ばれる商人職人層の大規模な都市移動が進んだことも事実で、「惣村から非農業的・都市的要素が分離・剥奪された」(渡辺尚志 2004 P179)。村と町の分離が近世社会の特徴の一つをなしており、各々独自の自立的な地縁的共同体を構成することになった。
村は一村あたり約四百人の構成員からなり、名主・庄屋と村役人によって運営され、村法・村掟をもち、山野や浜は共有地として共同利用され、高度な自治機能を有していた。このような村の生産物と労働力を権威と武力を背景として取り立てることにより幕府・藩は存立していて、十八世紀初めの時点で、日本全国で約六万三千の村があった。
ただし、百姓身分だけが村を構成したわけではない。豊臣・徳川両政権はともに、職業・身分と居住地を一致させようという志向が非常に強く、賤民とされた人々も集住して村を構成させられた。かわた村などが代表的である。
町方~都市社会
「町は、城下町や宗教都市、鉱山町、門前町、港町、宿などの都市域において、その基礎に存在する地縁的な共同組織であり、在地社会の村とともに近世社会の土台を構成した。そして、居住者で商人や手工業者の小経営主体のうち家屋敷を持つもの(家持)が本来の町人身分であり、町人が自主的に運営する自治団体が町であった。」(吉田伸之2009 P34)
村と同様に町も一町あたり三百~四百人前後で構成され、名主・年寄・肝煎らによって運営され、町法をもち、道路や近接地域は共有地として共同利用され、高度な自治機能を有していた。「江戸八百八町」などと言われるように(実際はもっと多く、1745年時点で1678町)、このような町が複数集まって近世都市が形成され、全国で約一万程度の町が存在していた。
仲間と組合
家に代表される血縁的共同体、町や村の地縁的共同体とともに、近世の平人社会において大きな影響力を持ったのが、そのような地縁的血縁的共同体の枠を超えて、職業や社会的機能などに基づいた「仲間」「組合」などの共同組織による社会的結合であった。
町方にあっては商人や職人の小経営者が職業別の共同組織を結成し、享保の改革以後その動きには拍車がかかり田沼期の株仲間など、社会的に大きな影響力を行使するようになる。村方でも酒屋や質屋など多様な職種の共同組織が登場し、十八世紀に幕府へ公認の動きを強めていく。職業別だけでなく、村同士、町同士の結合も数多く見られ、単純な身分制社会ならざる多様性・多層性を近世社会が持つことになった。
様々な社会的結合と組織化の動きがその身分集団の力関係にも大きな作用を及ぼし、身分序列の高低を単純に判断できない状況を作り出す。実際、百姓と町人の間に身分の高低はないが、その平人社会の中で、強力に組織化された集団とそうでない者たちの間での力関係がはっきりと現れてくるようになるのである。これは後述する身分的周縁を考えるうえで大きな要素となる。
では支配者層としての武士・朝廷・寺社、中間層としての平人とみてきたが、賤民身分はどうか、それを考えるために身分的周縁のアウトラインを見ていこう。
近世身分制社会の社会的権力と身分的中間層
「重層と複合」、「分節構造」
江戸の身分制社会を解き明かす上で、その分析方法として注目されるのが身分的周縁論をリードする塚田孝氏の「重層と複合」論である。同氏は近世社会が「武士の家、百姓の村、町人の町、職人の共同組織、賤民の共同組織など」(吉田伸之2009 P12)の重層と複合から構成されているとする。「重層」とは「村々が組合村を形成したり、町々が組合町をつくったりという基礎的な社会集団が二次的三次的に集団を形成して行くような関係」であり、「複合」とは武士と町人、町人と賤民などの「異種の社会集団間の交流・関係」のことである。「近世の社会は、支配者から賤民までに及ぶ多数の社会集団が、相互に取り結ぶ無数の関係構造として全体の社会が形成される」(吉田伸之2009 P13)
この塚田の「重層と複合」論を社会集団の関係構造を理解する基礎とし、吉田伸之はそこにもう一つの視点として権力秩序の「分節構造」の存在を見出す。「重層と複合」によって生み出された中間的な集団によるネットワークの網の目は、「これらを束ね、統合しようとする権力の作用によって、一つの構造が形成される」(吉田伸之「都市 江戸に生きる」2015 はじめに)。
「つまり、社会集団同士の『重層と複合』関係を基礎に見て、これに権力や社会的権力などによる支配・従属関係、あるいは矛盾・対抗関係をも含んだ、秩序構造として、銀河のような立体的な構造物を想定して復元し、その結果見いだされたものを分節構造とよんでいるのである。」(吉田伸之2009 P361-362)
君臨する社会的権力
吉田伸之はその分節構造としての近世身分制社会の秩序構造に大きな影響を及ぼした存在として「それぞれの時代の支配権力とは独自に、生産や流通の手段、武力や知識などを独占することで、周辺の地域社会に対して私的な支配力を及ぼす社会層」(吉田伸之2009 P61)を「社会的権力」と名付け、その江戸時代における代表的存在として「在地社会における村方地主と、都市域の有力商人=大店層」を挙げている。村方地主については次の身分的中間層の項で取り上げるとして、まずは豪商・大店と呼ばれた大商人についてみてみよう。
社会的権力としての大商人~「豪商」と「大店」
町人として都市社会の分厚い中間層の主流となった商人たちの中から十七世紀~十八世紀にかけて日本全土にすら影響力を行使しうる巨大資本家「大店」が登場してくる。代表的なのが時代劇でよくあるセリフ「越後屋、お主も悪よのう」でお馴染みの三井越後屋である。
近世商人は問屋・仲買・小売という三つの性格に分類できる。そして大店化に至る商人の急成長は問屋のヘゲモニー獲得の過程として描かれる。
先に仲買と小売について。「仲買」は産地の生産者から商品を購入、問屋が管理する売場=市場に輸送して問屋や小売に販売する商人で、遠隔地間の商品流通の活発化とともに彼らの活動が市場社会を成立させるようになる。やがて彼らは産地と消費地とで機能分化していった。「小売」は商品を消費者に販売する商人である。交易の古い形態をさかのぼれば、生産者が直接消費者に販売するというシンプルな形態として始まるわけだが、ここから市場規模の拡大とともに仲買が誕生、仲買から消費者への販売という機能が分化して「小売」が登場する。しかし、その分化の過程は必ずしも定説があるわけではなく、一つには市場参加の特権化により、市場に参加できなかった商人が仲買から小売機能を委譲されたともいわれる。
「問屋」は元々は「流通の中で、交通の拠点において物資の保管・管理、あるいは中継を本来の業とした」(吉田伸之 2009 P246)が、十七世紀末の東西両廻り海運の開拓を契機とする全国物流網の登場とともに、「とくに城下町など大きな消費地をひかえた都市域においては、遠隔地の生産地における商品所有者=荷主から商品を預かり、自らが所有する売り場を提供して、これを消費地での商人層へ販売」することで手数料を得るようになる。さらにこれによって蓄積された自己資本を荷主や生産者、運輸業者に貸し付ける金融機能を持つようになり、おのずと仲買と小売を従属させ市場と金融とを支配して巨大な力を持つようになる。
その「問屋」の中から登場してくる「大店」の影響力は近世身分制社会において、事実上の支配者とでもいえるほど強力である。「大店」の特徴として町屋敷一か所以上を店舗用の敷地とするほか、全国の都市域に多数の抱え屋敷を持ち、手代や丁稚などの奉公人と、近隣地域の小商人、諸職人、日用などを従属下においた。
特筆されるべきは、大店による多数の町屋敷の集積である。三井越後屋が本拠を置いた京都冷泉町の場合、十六世紀は小経営の職人層が中心であったのが、十七世紀後半にかけて、豪商たちが町屋敷を集積するようになって町人が三分の二に減少、1673年、三井越後屋が拠点を築き始め、冷泉町の町屋敷集積を開始、豪商たちが次々と没落していく中で冷泉町の町屋敷はほぼ三井越後屋が独占することになる。
「近世初期の冷泉町は、商・手工未分離の小経営主体である『職人=町人』が構成する、比較的フラットな町共同体であった。これが、十七世紀半ば以降、呉服屋や両替商を代表とする『新しい町人』=新興の有力商人層によって急激に没落せしめられ、大半が町から退転せざるを得なくなり、『職人=町人』は十八世紀初めまでにほぼ全滅するに至ったのである。」(吉田伸之 2009 P133)
町人の全滅、とはどういうことか。前述の引用部分をあらためて引いておこう。「居住者で商人や手工業者の小経営主体のうち家屋敷を持つもの(家持)が本来の町人身分」であった。つまり、家屋敷の喪失は町人身分の喪失につながる。「町人地の最小単位である町屋敷の売買に際して作成される土地売却証文」(吉田伸之2015 P70)を「沽券」と呼んだ。町屋敷の売買は町人としての身分を左右する、つまり「沽券にかかわる」のだ。
このような豪商・大店による町屋敷の集積は十八世紀から十九世紀にかけて全国で急速に進んだ。その結果、かつて町人であった多数の人々が身分を喪失して町を追われ「身分的周縁」を構成する乞食や日用(日雇い労働者)へと落ちていく。問屋がヘゲモニーを獲得し豪商・大店化して社会的権力として君臨する過程で都市社会に生まれたのは一部の大商人と彼らに従属する零細経営者、多数の貧困層という分化であり、近世身分制社会を変質させ、幕藩体制を大きく揺るがすことになる。
江戸幕府の植民地支配と商人の請負
社会的権力と商人という関係の関連として、身分制社会の埒外、江戸幕府によるアイヌ支配に深くかかわった商人についても簡単に触れておこう。近世にも請負制がある。近世の「請負制とは、一定の運上金などの納入と引き替えに、たとえば山野河海の利用権・専売権を得る制度であり、とくに領主側から見ると、特殊な技能や技術を必要とする生業活動に関わって、そのような能力を備えた労働力を、請負人を通して調達・編成させるシステム」(「身分的周縁を考える」収録町田哲論文2008 P32)だとされ、集荷請負、山の請負、場所請負の三つに分類される。
取り上げるのは三番目の場所請負である。場所請負は「『商人の身』である場所請負人が『場所土地人民』を『請負支配』するものと認識され」(町田哲2008 P37)ていた。蝦夷地支配も、この場所請負制が敷かれていた。蝦夷地場所三役は幕府から請負った「場所請負人が場所経営拠点に派遣した雇い人」(町田哲2008 P36)で、「アイヌ社会や場所に入域する出稼和人漁民(浜中)を差配し、場所差配の面では村役人に擬された存在で、アイヌ支配の最前線や儀礼の場においては、武家に準ずる座次で、アイヌ語能力・文化的素養を家職としていた」(町田哲2008 P36-37)。商業資本家が武士(国家)の権威と権力を背景に本国以外の地域に支配権を行使するという、例えばイギリス東インド会社によるインド統治を彷彿とさせるような植民地支配的な体制があった点で非常に興味深いのではないだろうか。江戸幕府による蝦夷地への帝国主義的・植民地拡大的な進出についてはアイヌ研究でも多くの論考がある。
これと比較すると興味深いのが薩摩藩による琉球王国支配であろう。その窓口となったのが、琉球に薩摩藩が設置した薩摩問屋である。琉球から日本への輸入品を一手に引き受けただけでなく、清国沿海商人との密貿易も積極的に行い、藩益を追求する機関であった。”武士的な権威を背景とした商人”による対アイヌ関係と、”商人的な機能を備えた武士”による対琉球関係という構図は近世日本の対外関係を考える上で非常に重要な論点を含んでいる。
支配を支える人々~身分的中間層
近世身分制社会の基本原理は兵農分離である。しかし、実は武士身分の表装であるはずの苗字帯刀を許された百姓・町人が非常に多く存在して、旗本・御家人などの家政を取り仕切ったり、代官所などで下級役人として政務についたり、参勤交代の行列に百姓が武士として参加するなどの例が多くみられている。武士とそれ以外を峻別したはずの近世身分制社会において、武士身分ではないが武士と平人との間に立って支配を支える人々がいた。これを朝尾直弘、久留島浩らは「身分的中間層」と呼んでいる。
「シリーズ近世の身分的周縁5 支配を支える人々」(久留島浩編 2000年)では、第一に在地社会の中の権力的・権威的存在としてa)庄屋(名主)・郡中惣代b)町人代官・在地代官、第二に武士の中の周縁的身分としてかa) 職務の間だけ武士身分となる牧士と土着させられた武士身分である八王子千人同心b)武士出身ではないが行政・家政を担当する代官手代・用人、第三に行政機能・職務を金銭で請け負うかわりに武士身分を獲得する御用宿に分類がされている。これに幕領の鉱山技術者や治水技術者、長崎の貿易事務担当者なども「御用」に際して武士身分が与えられており、身分的中間層に加えることができる。また学者や医師、富裕百姓町人の知識人層を「中間的知識層」として広く身分的中間層の一つとすることもある。
身分的中間層に共通する特徴は「武士身分の標識としては苗字帯刀から乗馬・槍の携行・供連れまで、さらに扶持の量や質をも含めて、幅があるものの、「御用」を分掌したり代行したりする限りにおいては、武士あるいは武士に準じられる処遇を受けるべき身分であると認められた存在」(久留島浩2000 P17)ということである。
このような支配を支える人々の必要性はまさに徳川幕府が全国的な支配体制を築こうとしたがゆえに求められることになった。年貢の安定的収取と再分配、生産基盤の整備と、統治に必要な膨大な行政文書の作成など、支配体制の確立と運営に際しては専門的知識と技能、被支配の人々や社会的慣習に対する深い理解とコネクションを持つ人材が行政機構の末端に必要不可欠で、それは「家」として継続性を持つ集団であることが求められた。「町人・百姓から抜擢された彼らは、このような在地性と専門性とによって勤める職務が『御用』として認定され、『御用』を勤める限りにおいての武士身分として認められたのである。」(久留島浩2000 P18)
そして、この身分的中間層の中からやがて幕末から維新へと至る一連の変革を主導する多くの人材が輩出されることになる。特に江戸時代後期から幕末にかけて、行政機構の弱体化によって多くの百姓・町人の抜擢は必要不可欠な要因となり、地域社会の混乱を抑えるため在地社会に治安維持のための軍事力の行使も頼るようになる傾向が強まり、町人・百姓も武芸に励むようになる。もはや兵農分離自体が形式的なものとなるわけだが、その一連の変化の中に登場するのが例えば新撰組のような百姓・町人層ながら軍事の「御用」を受け持つ人々であった。
在地社会の村役人と豪農
ここでは在地社会の権力的・権威的存在としての庄屋・名主に代表される村役人層と豪農台頭の流れを押さえておくことにしよう。
村役人層は戦国時代の地侍・土豪層が多くを占めていた。本来、武士であった彼らはその多くが兵農分離に際して武士身分となるのではなく在地に残って百姓となる道を選ぶ。なぜか?吉田ゆり子は「日本史講座第5巻近世の形成」(2004)所収「兵農分離と身分」で、信濃国下伊那郡坂部村の土豪熊谷氏に伝わる史料「熊谷家伝記」を参照しつつ、戦国時代の地侍・土豪などの郷主層百姓化の流れをまとめている。
中世、各地に移り住んだ土豪は開発領主「郷主」となるが戦乱の中で領地を守るため互いに協力して連合を組み、さらにその中からより上位の「太守」へと被官化していく。しかし、信濃であれば武田信玄のような強力な戦国大名の登場によってその支配下に組み込まれると、自分の領地を離れた遠隔地での戦争に駆り出されるようになる。これは彼らの望むところではない。自領「郷中」の保護と家の存続が最優先なのであり、また多額の戦費も負担として重くのしかかる。彼らの多くは領地の一部割譲をしても軍役の忌避をするようになる(一方で一族の意思は尊重しており、多くが己の意思で武士となるなど、土豪・地侍層は武士の供給源でもある)。このような背景で、兵農分離に際しても軍役の負担や家の存続を犠牲にするより武士化を拒む傾向が強くなる。兵農分離によって、彼ら百姓化土豪層は、領主権は失うことになるが、水利権・入会権など様々な用益権を確保し身分差表象、地位、かつて支配下にあった百姓たちへの影響力は認められることになった。
こうして江戸時代に登場してくるのが庄屋・名主と呼ばれる村役人層である。幕府による村支配の実務を担い、百姓たちへの支配権を行使し、のちに差がなくなるが江戸時代初頭においては一般の百姓は布木綿しか着ることができなかったが、絹袖を切ることが認められるなど衣服で身分差を示すことが認められた。
吉田伸之は佐々木潤之介の論をまとめる形で、このような地侍・土豪由来の村方地主から豪農の台頭へ至る過程を第一次名田地主(旧来の地侍・土豪出身者層)、質地地主、豪農の三段階に整理している。
(a)第一次名田地主とは、家族と下人を用いる地主手作経営を中心都市、その外の集積した耕地(手余り地)を下人小作にゆだねるものである。この下人小作は、単婚の小家族経営で、これらは一般の本百姓へと急速に自立してゆく。
(b)質地地主は、貨幣経済の浸透によって第一次名田地主が高利貸的経営者としての性格をあわせ持つに至った形態である。この中で村内や近隣の小百姓たちから、債務の担保としての土地を質地のかたちで多く集積し、また手作地の経営は年雇の雇用労働力に依存してゆく。
(c)豪農とは、商人化した質地地主である。彼らは一般の本百姓を商品生産や流通面で支配し、町方の商人と連携し、権力との共生関係をも結ぶに至る。(吉田伸之 2009 P62-63)
庄屋・名主層は支配を支える身分的中間層であり、在地社会に君臨する社会的権力として成長するが、一方で旧来の地侍・土豪層の多くが没落して新興在地地主層と入れ替わってもいる。このような中で、都市社会と同様に、在地社会でも村役人として幕府の権威を背景にして富を集積する在地地主層と彼らに従属する小百姓との二極分化が進み、その対立が十八世紀末から十九世紀にかけて表面化する。それが歴史上「村方騒動」と呼ばれる現象で、この対立が村統治の民主化と身分秩序の崩壊とを同時にもたらしながら、幕末的情勢を作っていくことになる。
士分化と売禄
近世身分制社会の身分はここまで見てきたように決して固定的なものではない。百姓・町人身分ながら武士的な役を与えられ一定の特権が認められた身分的中間層の存在とともに、百姓・町人身分から武士への上昇の機会も少なくないし、江戸時代全般を通して人々は強力な上昇志向「身上がり」願望を持っていた。可能ならより上の身分へ、もし身上りが無理でも自身が置かれた身分集団の中でより上位へ、あるいは地位の上昇はできなくとも実利を獲得したい、というある種の利権獲得競争社会の様相がある。渡辺尚志が指摘するように、この利権獲得競争社会的な側面が江戸時代を訴訟社会たらしめていた。負ければ財産を失ったり拷問や死罪といったリスクがあるにも関わらず、誰もが権益を求めて係争を起こし、その解決のために積極的に訴訟を行う、とてもギラギラした社会である。そういう点で戦国時代の下剋上の気風は江戸時代にも受け継がれていたといえる。
その身上がり願望をかなえるルートとしての士分化についてである。深谷克己「江戸時代の身分願望」(2006)によると、三つのルートがある。一つには上記で見た地侍・土豪が士分化するルートである。在地領主、村役人として差別化されていた彼らも新興地主や既存秩序に団結して異議申し立てする百姓たちの突き上げにあうと、より明確な身分として武士になろうとする。そのとき、領主側も統治の必要性から在地の有力者である彼らを武士に取り立てる例が少なくない。
第二に、優秀な百姓・町人の抜擢というルートがある。前述のとおり、複雑化した行政機構の運営上、専門性やコネクションを持った優秀な人材を士分に取り立てて統治機構に取り込みたいというニーズがあった。これが活発化するのが江戸時代後期、既存の統治構造が機能不全を起こした十九世紀初頭からで、支配者と被支配者という関係性は次第に流動化していかざるを得ない。
第三に、禄の売買である。十八世紀、石高制の行き詰まりから全国で藩財政が悪化、各藩とも自領内の有力百姓・町人に対して禄(知行や地位)の売り出しを始める。例えば仙台藩では1770年代、百姓は五十両で帯刀、百両で苗字が与えられ、二百五十両で百姓人別除外、つまり武士になれた。さらにその上も五百五十両で郷士格、千両で大番組、と金額次第で地位を次々獲得できる(深谷克己P137-139)。
コネとカネとスキルの二つ以上ーーといってもコネとカネは必須だがーーがあれば百姓から武士というのも可能だったのである。一方で賤民から百姓・町人となると例がないわけではないが限りなく不可能に近くなる。生まれの格差からくる可能性の閉塞感というのは、身分制社会の特徴である。
近世社会で「株」はもともと「世襲的に認められた権利の意味で用いられた」が、金融経済の発展は権利としての「株」を貨幣と交換できるようにした。貨幣が身分を突き崩し始めるようになるのである。町人身分が家屋とともに売り飛ばされ、百姓身分が借金のカタに奪われたように、武士身分も禄を通じて購入できるようになる。家や村・町などの地縁的血縁的共同体ごとに職能と権利がセットで与えられ、受け継がれていたものが、株と貨幣の交換によって切り離されることになる。十八世紀後半、「職能が家から離れて人につこうとしていた」(浅尾直弘1992 P40)。このように身分的中間層を媒介とした士分化の流れの中で「士農工商」が取り戻すべき理想論として身分序列の意味を持つようになった背景がようやく理解できるようになるのではないか。
賤民制と身分的周縁を構成する社会集団
支配者層としての武士、庶民層としての町人・百姓、その両者の間で支配体制の実務を担った身分的中間層・近世社会に事実上大きな影響力を行使しした社会的権力とみてきたが、彼らから排除され、あるいは賤視された多くの人々も、近世身分制社会に存在していた。それが賤民身分を含む、身分的周縁である。
塚田孝は身分的周縁を構成する社会集団を以下の三つに分類している。
(1) 賤民制にかかわるえた身分・非人身分や、猿飼・ささら(説教)・茶筅・おんぼう・鉢開きなど
(2) 公家家職とつながる宗教者・芸能者や職人、具体的には修験・神職・陰陽師・相撲取・座頭・鋳物師など、あるいは家康権威をかつぐ虚無僧
(3) 都市下層民衆、具体的には鳶・髪結・人宿・日用座・武家奉公人・町用人・家守・目明し・遊女(屋)・願人など(塚田孝2000 P84)
一方、吉田伸之は以下の四つに分類する。
(1) 「商人」生産を重視する近世社会の異端的存在として扱われた。
(2) 「日用(日雇い労働者)」農業日用や武家奉公人、鳶・車力・飛脚などの運輸・交通にかかわる肉体労働者や人足などの都市インフラにかかわる単純労働者
(3) 「乞食=勧進層」他者の施しによってしか生活できない人々。身体障碍者や非人身分、下層宗教者を含む
(4) 「芸能者」乞食=勧進層から派生して歌舞音曲を提供する者たち。また特定の商品を売るために芸能を特徴とするようになった香具師や飴屋など小売商人の一部。(吉田伸之2009 P144-149)
賤民制のアウトライン~えた、かわた、非人
江戸時代の近世身分制社会において賤民として差別される、えた・非人身分は近世政治権力による上からの編成(近世政治起源説)ではなく中世社会の地縁的血縁的共同体の関係性の中で誕生してきた(中世社会起源説)。その登場の過程について現在主流になっているのが黒田俊雄らによる中世非人論である。
「中世非人身分の基本的性格は、体制的な諸社会集団から、種々の理由で疎外(脱落・排除・離脱など)された存在であること」(塚田孝「賤民身分論」1994 P131-132、黒田俊雄1983からの孫引き)。
犯罪などの刑罰や病気、飢饉や領主層からの収奪による生活破綻など多様な要因で既存共同体からの疎外を余儀なくされた人々が乞食=勧進化して相互に助け合う集団を形成、これが非人宿と呼ばれるようになった。同時に、平安末期から登場する触穢思想の一般社会への浸透の過程で、穢れとみなされた様々な職業を彼ら中世非人や乞食=勧進が担うようになり、中世非人から派生してえた、非人、きよめ、かわたなどそれぞれの集団が負う役に応じて職業的分化を遂げ、地縁的・血縁的共同体化して体制的諸社会集団から排除・差別されるようになった、とするものである。細部でいろいろと諸説あるが、大きな流れとしては主流の説として受け入れられている。
前述のとおり、宗旨改めに基づく近世戸籍制度の確立の過程で、えた(かわた)・非人は百姓・町人と別帳化された。その背景はキリシタン弾圧である。宗旨改めにおいてキリシタンも六代の孫まで類族とする類族帳が作られ、平人身分と区別された。「キリシタンの思想が血筋で伝えられるという見方」(横田冬彦 1992 P76)を前提としており、同様の措置が社会的に賤視されていたえた(かわた)・非人層にも拡大され身分制度の底辺とされることで賤民制度は登場してくる。「賤民はまさに『盗賊同類』、すなわち反社会的犯罪の潜在的温床として位置づけられ、各村で賤民とその種が隔離・監視されるべきだとされ」(横田冬彦 1992 P77)た。明暦二年(1656年)のことである。
近世身分制社会の要は「種姓」イデオロギーの存在である。天皇・公家のように生まれついての貴種がある、というのは共通の認識であった。では、武家政権成立に際していかにして統治の正当性をもたせるか、支配者としての武士の種姓を作り上げるためには、生まれついての賤民という存在が必要であった。この「種姓」イデオロギーが身分制社会の背骨であり、やがて、その「種姓」イデオロギーの衰退が身分制社会の変質と同時に進行する。
賤民は屠殺・皮革業や刑吏としての役を負うかわりに乞食=勧進権を認められて独自の村を構成するが、差別と排除という点では共通していたものの、そのありようは地域や時代によって多種多様であった。孤立させられて苛烈な差別の中で苦しい生活を余儀なくされた地域もあれば、関東のようにえた頭弾左衛門に率いられて非人を従え、関八州に強い影響力を行使した例もある。また、必ずしもえた身分が上で非人身分が下というわけでもなく、非人身分がえた身分を従える地域もあった。
集団化の波
このような違いがなぜ生まれるのか、それが「仲間と組合」の項でみた社会的結合と組織化の進展度の差である。十七世紀半ば以降、三身分が確立して近世身分制社会が登場すると、それに続けて諸身分内でそれぞれの役に基づく身分、職分、共同体ごとに集団化の動きが起こる。塚田孝はこれを「集団化の波」と呼び、十七世紀後半から十八世紀初めと十八世紀半ば過ぎの二度の波があったとする。この諸身分の集団化とネットワーク化が幕藩体制を支える秩序構造を作りあげる一方で、この時期に弱い編成しか作れなかった身分集団は自ずと相対的に低い力しか発揮できなくなり、身分集団に収斂しきれないネットワークとしての周縁的な人々がアウトロー集団化することになった。
そのような背景で、関東の場合、えた頭弾左衛門による勧進=乞食権の独占を背景として早くも慶安五年(1652)までに、えた身分だけでなく非人集団にも支配権を拡大して強い影響力を誇った。諸身分に先駆けての賤民身分内での集団化の動きで勧進権という権益の確保を行った格好だが、十八世紀初頭の集団化の波の中であらためてその勧進権の範囲が大幅に制限され、相対的に地位が低下していくことになる。関東の非人身分集団がえた身分集団に従属を余儀なくされたのは「“えた身分による勧進権分割の体制に組み込まれる形でしか非人の組織化が不可能だった”関東の特質」(塚田孝1994「賤民身分論」P91)であった。
賤民身分は前述のとおり生まれに基づいて職業選択や他身分間の婚姻、居住地の制限等が設けられることで被差別身分に置かれた集団であるが、それゆえに、かろうじて認められた勧進権をいかに駆使して実利を得るかが非常に大きな課題となる。そのために彼らは文字通り命がけで戦っていた。
一方、その身分ゆえに課される役からいかにして実利を得るかという模索もまたあった。畿内近国のえた身分は「かわた」と呼ばれ、通常の百姓村に従属する独自の「かわた村」を構成していた。彼らは通常の百姓身分からは婚姻関係も居住地も隔絶しており差別的な扱いを受けているが、唯々諾々とその立場に甘んじていたわけではない。身分は変えられないが、その差別的環境の中で、生活を変えることはできる。
かわた村の代表的な存在として和泉国泉郡南王子村がある。彼らに課されていたのは雪駄製造であった。雪駄製造は斃牛馬処理に付随して課される役だが、同時に独占製造・販売権ともいえる。江戸時代を通して差別と排除の中長く苦しい時代を送ったが、十九世紀になると、南王子村では団結して原材料の竹皮値下げ交渉を行ったり、販路の拡大を行ったりと様々な営業努力を行い、経済力を蓄えて急成長をする。幕末には御用金調達で地域の高額納付者十三人のうち十人が南王子村の者であったといい、また南王子村の属する泉州一橋領の村方騒動にも介入するなど、賤民身分として変わらず被差別的環境におかれたが、経済的には平人百姓たちをはるかに凌駕するほどに成長した。百姓から南王子村に移って自ら賤民身分となった者もいたという。
集団化の進展度による格差は、他の被差別的な扱いを受けていた身分的周縁の人々も同様である。
多様な身分的周縁
あらためて、支配者層としての武士・公家・寺社、平人層としての百姓・町人、賤民としてのえた(かわた)・非人という政治的に編成された三つの身分に入りきれない多くの周縁的な人々がいた。しかし、身分制社会秩序の埒外にあった彼ら身分的周縁と政治的編成を受けた中核の三身分との間に明確に線引きができるわけではない。「一個の身分・職分の内に『政治社会』レベルの側面と『周縁社会』レベルの側面」(渡辺恒一2000 P5)がある。その違いはその職分の所有と経営の質および社会的分業の位置であり、上からの編成と集団化の深度の差異であり、地域社会の社会関係における相対的なパワーバランスの中にあらわれてくる。
前述のとおり政治的編成に基づいて武士・平人身分から隔絶した地位におかれた賤民身分はその生まれと血統(種姓)に基づいて役の負担と所有・関係性の制限がなされて社会的に賤視されたが、そのおかれた非差別的身分の中で強い集団化を成し遂げる者たちも一部にあったことはすでに述べた通りである。では、社会関係の中で身分的周縁とされた人々はどうだったか。
身分的周縁の宗教者たち
身分的周縁を構成する宗教者の多くに共通するのは祈祷と物乞いを主な職分として行っていることである。
修験者
修験者は天台・真言密教を持つ古代からの神仏習合的山岳信仰者だが、両宗派は「修験者は僧侶ではない」(高埜利彦2000 P22)として排除。修験道本山派と修験道当山派に編成されるが、編成されない修験者も多く存在して独自の修行と祈祷活動を行っていた。
神祇奉仕者
神職が身分的周縁だったというと意外に思う人も多いだろうが、江戸時代、「神職」は賤視される職業の一つだった。近世以前からの神社は公家(堂上公家)が神社伝奏として存在する伊勢・石清水・賀茂など古代以来の二十二社をはじめとした主要神社と、神祇信仰が民間に浸透するなかで郷や村の鎮守として勧請された多数の氏神社がある。公家の世襲によって統制され、時の権力者とも近く、高い権威を保ち、社領地を与えられて寺社領主層の一角を占めた前者に対し、後者の氏神社は在地土豪層が経営を行い、神事を担う神主は神道家のほか氏子の百姓たち、僧侶、修験者、陰陽師といった民間の人々が分担し、必ずしも一つの氏子社に一人が専属するわけではなく複数の神社を兼ねるのが常であった。
井上智勝は江戸時代の「神職」と現代の神職との意味の混同を避けるため、一般的な神職を「神祇奉仕者」と呼んで、以下の三つに分類した。
(1) 「神主」:専属の奉仕神社を持ち、主体となって祭神への奉仕や神社の運営に関与する人々。
(2) 「社人」:専属の奉仕神社は持つが、①に従属的な位置にあり、補助的な仕事に携わる人々。
(3) 「神職」:専属の神社を持たず、しかし神祇に奉仕することで活計を立てている人々。(「民間に生きる宗教者」収録井上智勝論文2000 P28)
身分制の成立にともない神事担当者の百姓身分での兼任が禁じられて専門化が進められ、寛文五年(1655)の「諸社禰宜神主法度」を契機として十八世紀半ばまでに公家の吉田家・白川家によって大規模な編成がされ専門家としての神主・社人層が登場するが、多額の費用を払えないとか専門家になれないなど様々な理由で編成されない、あるいは編成を望まない人々が百姓身分からもはずれた身分的周縁として、身分制社会の埒外に置かれて非差別的な視線を受けた。江戸時代の「神職」という言葉は金銭をねだる神道乞食という侮蔑的な意味合いが強い。彼らは民間社会の宗教ニーズにこたえて祈祷や物乞いを通じて生活をしていた。
「明治五年(1872)、神道国教化を推進する新政府によって『神職』廃止が通達」(井上智勝P48)、身分的周縁としての神職とそれまでの多様な神祇信仰は切り捨てられ、以後明治国家によって神社の大規模な統廃合を経て再編成されて神道は国家神道へと生まれ変わっていく。周縁から中心へ、近世身分制社会下で始まった周縁的な神職の組織化は近代天皇制国家のイデオロギーに結実するのである。
陰陽師
陰陽師は古代律令制国家を支える官僚として政権の中枢にあり、鎌倉・室町の武家政権成立後も陰陽道の専門家として重用されたが、応仁の乱を契機とした室町政権の失墜とその後の戦乱、賀茂家の断絶と秀次事件に連座しての土御門家の財産没収・追放など時代の変化のなかで宮廷陰陽師は没落する。
一方で、室町時代までに庶民社会にも陰陽道は広く浸透し、竈神信仰や庚申信仰、七福神信仰などの民間信仰や陰陽祭、吉日・禁忌日などの大衆文化を形作る。民間にも陰陽師や陰陽師から派生した唱聞師や宿曜師が誕生して、庶民の生活に身近な存在として広まった。近世の陰陽師はかつての宮廷陰陽師のような公家や権力者相手の卜占ではなく、民間社会で町人・百姓相手に占い・祈祷を行って生計を立てるものがほとんどで、神職同様に物乞いや詐欺まがいのインチキな陰陽師も多く、陰陽師はおのずと賤視されるようになる。
このような陰陽師の身分編成は天和三年(1683)、土御門家に命じられるが同家の権力基盤の弱さとともに、このころ陰陽師の編成権を巡って幸徳井氏、唱聞師系の大黒氏と熾烈な主導権争いが展開されており、この内紛は長く尾を引いてまともに陰陽師の編成に乗り出せないまま、十八世紀初頭の第一の集団化の波にも出遅れ、土御門家による本格的な陰陽師の編成は寛政三年(1791)以降のことになる。結局陰陽師は身分制社会で重要な組織力とネットワークを構築出来ないまま幕末を迎え明治維新によって陰陽師職と土御門家の家職が廃止、かつてのエリート職業は身分的周縁に甘んじ続けて消滅する。
しかし、民間社会に広く根付いた陰陽師たちは占い師や方位鑑定士など陰陽師に類似的な職業を新たに見出し、やがてその支持者とともに明治時代の新宗教ブームの担い手となっていくのである。国家神道の成立に至る神仏分離へのオルタナティブとして次々と誕生する新宗教はやがて弾圧と国家的容認の中で、挙国一致体制を信仰レベルで下支えし、戦後、国家神道のくびきから放たれてオカルトブームや新新宗教ブームなど大衆信仰の中に脈々と息づいていく。中心から周縁へ、没落した陰陽師たちは厳しい差別の中で生き延びながら、日本の大衆文化・宗教観を確かに形作るのであった。
虚無僧
時代劇でおなじみ深編笠と尺八の虚無僧もまた身分的周縁を構成する宗教者の一つである。これについては保坂裕興(2000)の説明を引用しておく。
「虚無僧は、中世末期に尺八を吹く乞食芸人であった『薦僧』を前身とし、中世から近世への移行期に、『明暗』思想のもとに芸人・浪人らを集めて開宗し、新天地たる関東農村に寺院を開いていった。この普化宗は、近世の前半期まで百姓・町人をはじめ誰もが参加し、修行できる宗教であったが、十八世紀半ばを転機として、武家浪人を匿い救済するものに変化し、日本往来自由や不入守護(治外法権)などの特権を偽造しながら、増長の道を歩んだ。」(保坂裕興2000 P198)
背景は幕藩体制の社会問題である牢人(浪人)問題である。牢人問題については以前簡単にまとめたのでここでは割愛するが、その幕府の牢人救済方針を踏まえて、普化宗はだれでも虚無僧になれるという教義から、牢人救済を大義名分に虚無僧として組織化することに方針転換、徳川家康の関東移封時に牢人の虚無僧組織化や治外法権を認められたとする偽文書を創作して編成を推し進めた。
虚無僧の修行の場として各村々と契約を結んで修行場「留場」の提供を受けていくが、その際に所属不明の不法虚無僧が村々で暴れ金銭を要求するなどの行為が発生、その取り締まりを行う名目で留場契約が結ばれることが多い。暴力と抑止力を背景とした契約によって急速に勢力を拡大する虚無僧だが、村側も次第に協力して対抗のために普化宗の末寺ではなく虚無僧を統括する二つの本山と直接留場契約を結ぶようになり、普化宗は末端組織の弱体化を招き影響力を失って社会から排除されていく。強力な集団化を推し進めたが、その行き過ぎゆえに百姓たちの共同組織化による対抗を招き自壊した。その過程は近世身分制社会のダイナミズムを象徴している。
神子(巫女)
神子とは、「神社で神楽を舞うなどの神事奉仕をしたり、人々の求めに応じて祈祷や祓をしたり、死者や遠方の人の霊を呼び出す口寄せをしたりする宗教者である」(西田かほる 2000 P52)。女性が多いが男性の神子もおり、神道、修験、陰陽道など様々な系統がある。中世まで、神子は多くの神社に存在していたが戦国時代を境に江戸時代に入ると減少の一途をたどる。中世まで専属の神子や神楽集団が神事における神楽を担当していたが、近世以降の神主の専業化によって専門の神主が直接神事を行うようになる。これまでの様々な宗教者同様、中世まで神事にかかわっていた多様な宗教者が周縁化されていったのが近世であった。
しかし、他の宗教者が公家や寺社を本所として編成されて身分制社会の中に位置づけられたのに対して、神子は神子独自の本所が認められなかった。それは神子の多くが女性だったからである。近世身分制社会はイエという父系の血縁的共同体を基準に編成されるので女性は男性より低い身分におかれた。男女の間の身分差もまた、近世身分制社会を支える制度として存在している。そんな女性ゆえの差別関係の中で、神子たちは多くの場合、夫や父など血縁関係のある男性が所属する宗教各派、修験者の妻であれば修験各派、神主・社人の妻であれば吉田家・白川家、陰陽師の妻であれば土御門家などの編成を受ける。また、各本所とも神子を妻とすることを忌避する傾向が強く、このような女性ゆえの近世身分制社会における弱さが、神子が身分的周縁へとおかれ、集団化を成し遂げられず減少していく要因となった。
近世の障害者差別と盲人社会
近世身分制社会が役の動員を目的とした兵農分離から始まったことはすでに述べた。しかし、様々な理由で領主から課される役につけない者たちもいる。その理由の大半が生来のあるいは負傷によって負った様々な障害であった。彼らは人別張で役に立てない者=「役不立(やくたたず)」と呼ばれている。
江戸時代の農家はそれまでの複合大家族から単婚小家族への変化が起きていた。十七世紀の新田開発ラッシュが背景にある。複合大家族であれば、親族や小作農、奉公人を使って大規模な農業経営を行うため、障害者もなんらか可能な範囲での作業を担うことで家族の一員として扶助され得るが、単婚小家族が中心の社会になると、一人当たりの労働量は障害者が担うには困難なことが多い。年貢負担の大きさもあって障害者の自立は困難が多くなる。一方で幕府は障害者の扶養を家族や村に任せたから、家族負担は非常に大きくなる。障害者はまず親族縁故者が扶養を担い、それが困難な場合に村が救済措置を行う。しかし、共同体の扶助も凶作や飢饉が起きたり、十八世紀以降の水飲み百姓や潰れ百姓の増加といった貧富の差の拡大の中で機能不全を起こしていく。そうなると、障害者への視線は非常に厳しいものとなる。
中世から近世にかけて村々では解死人制度やその延長線上にある身代わり制度があった。
『日本の中世村落には、父=家の身代わりには肉親の子供・また庄屋=村の身代わりには乞食という、家と村とにそれぞれ対応する二つの身代わりの方式が存在した。後者の例としては、たとえば中世末の摂津の水争いに際して、「一村に壱人宛はりつけ」の処分が決まった時、村々では公然と「庄屋代に乞食」を犠牲としてさしだした、という。あるいは、十七世紀初頭の丹波の山争いのあとで、「村中の難儀に代り相果」てようと、すすんで相手方の村へ下手人に赴いた男は倅のために「苗字を下され、伊勢講・日待参会にも相加り候様」と願い、それを容れられて死についた、という。いわばこの男は苗字をもたず、講や日待などの正規の村の成員の集まりからも排除された、ごく下層の者だったのである。
村の身代りの要件は、村落共同体に扶養され、しかも村落の正規の成員から排除された存在、ということであった。日本の中世村落は、そうした身代り=犠牲となる乞食を村抱えで養っていたのである。』(赤坂憲雄P261-262)
このような村落共同体に扶養された下層の者には障害者も多く含まれている。共同体による扶助が機能しなくなると、困窮者や障害者は共同体からの離脱を余儀なくされ遍歴の民となっていった。その結果として中世に生まれたのが非人であったことはすでに述べた。では障害者はどうだったか。芸能者や呪術者として遍歴するか、乞食として物乞いを行うか、あるいは何等かの職を見出して同じ職分の健常者とともに身分的編成を受けるかである。何にしろ、役の負担を基準とする近世身分制社会において、労働力を担えない人々の立場は非常に低いものとなる。
そのような周縁の被差別者である障害者の中で、近世身分制社会において異例の身分的上昇を遂げた人々がいる。盲人の芸能者「琵琶法師」から発展した「座頭」である。
座頭~盲人の格式格差社会
中世、穢れ信仰から障害者やらい病患者は忌避され、差別されたが、その反面で穢れとともに聖性を持つ存在としても見られており、特に盲人の呪術者は広く信仰を集めるようになる。十一世紀ごろから盲人呪術者が琵琶法師として人気となり、琵琶だけでなくのちに三味線を使って平家物語や義経記を歌い、農耕儀礼や死者供養の呪術宗教の担い手となって、十五~六世紀ごろまでに宗教的芸能者として確固とした地位を築き始めていた。彼らは近世になると「座頭」と呼ばれて芸能者の代表的な層となる。
座頭の中から鍼術を学んで医師として活躍する人々が現れ、彼ら盲人鍼医が次第に武士層に重用されるようになると、その地位は非常に高まっていく。そのきっかけが三代将軍家光を治療した山川検校城管や五代将軍綱吉の侍医となった杉山和一の登場であった。杉山和一は元々藤堂藩士杉山重政の嫡男で失明して鍼術を学んだ人物で、身分的周縁というよりは、武士層に属するが、高い技術と巧みな政治力、そして盲人の鍼術教育にも力を入れ、座頭の地位を大きく引き上げた。
元禄五年(1692)、将軍綱吉は杉山和一を座頭仲間「当道」のトップである惣検校に任じると当道の基本法である「当道式目」を改定させその組織化を進めさせる。惣検校を頂点に、藩領ごとに支配役、その下に座元または組頭をおいて領内を数組に編成、さらに惣検校の下に十名の長老検校がおかれて最高支配機関となる「職十老制」が敷かれ、裁判権も認められるなど座頭に対する支配者層として君臨する。さらに、上から検校、別当、勾当、座頭の四官がそれぞれ四階級ずつ、全部で十六階級となる格式を整え、上位の座頭は武士層にも引けを取らない権威と権力を身に着ける。一方で、格式上昇にはコネとカネと家柄が非常に重要で、「過半数は一生かかっても、下から数きざみの座頭にとどまっていた」(加藤康昭1992 P159)。
強力に編成された盲人組織では上層階級の盲人が将軍家にも一目置かれるほど我が世の春を謳歌し君臨する一方で、下層の盲人は村落共同体の周縁で蔑視され、あるいは遍歴を余儀なくされながらささやかな芸能を披露しつつ物乞いで生計を立てる。残酷な格式格差社会が現出していた。
都市の貧困~日用(日雇い労働者)
「日用」とは何か、「日用は日雇とも書き、本来は一日を単位として、自らの労働力を販売することをいい、こうした日単位の労働を専業とし主な収入源として働く人々」(吉田伸之2009 P145)のことをいう。江戸時代、日用は村・町の別なく様々な局面で低賃金労働に従事して近世身分制社会を下支えした。
在地社会=村にあっては
(1) 貧しい百姓が地主に雇われて地主が所有する耕地で労働するような農業日用
(2) 百姓の二、三男が、領主の元に年季で雇用される武家奉公
(3) 交通・林業・漁業などが必要とする運搬や単純労働に雇用される日雇い
などがある。
都市社会=町にあっては
(1) 武家奉公人の不足を補う足軽・中間・小者などの下級奉公人
(2) 鳶・背負い、飛脚、仲仕・小揚などの港湾労働者、車力や軽子などの運搬労働者など、交通・物流インフラを維持するために不可欠な運輸・運搬・荷役に関わる肉体労働者
(3) 鳶と重なる火消人足、辻番・木戸番などの警備員からなる都市のインフラや治安・防災・警備システムを維持・管理するために必要とされる単純な諸雑業に携わる労働者
などがある。(吉田伸之2009 P145-147)
日用の多くはかつてはそうだったかもしれないが百姓・町人身分ではない。町人身分からなんらかの理由で没落した者、飢饉などで離散を余儀なくされた百姓とその家族、新田開発ラッシュが終わり食い扶持をみつけるためにまたは家計を支えるために出稼ぎとして村を離れた嫡子以外の若年男女、あるいはかつて武士身分だった牢人やその家族などで、彼らは人別張からも外れて身分を喪失した身分的周縁の存在である。
十八世紀以降相次ぐ飢饉と社会的権力としての大店や豪農の台頭などで既存秩序が崩壊して格差が拡大するなか、彼らの多くが生活の糧を求め都市に流入して日用層を構成する。速水融・鬼頭宏らによって歴史人口学上「都市の蟻地獄」効果と呼ばれる近世江戸の陥穽――高い人口密度と劣悪な生活環境による短命での高い死亡率――にはまることになる人々だ。『死亡率の高い都市に農村から流入した人々が数多く死んでいく』(鬼頭宏「文明としての江戸システム」2008 P101)、『男子の半数は出稼ぎ先で死亡、または行方不明』、『女子の場合はそれほどでもないが、両者をあわせてほぼ三割』(鬼頭2008 P188)と高い死亡率であった。
彼ら日用層の増加に対応して十八世紀前半から都市では日用層の就業を斡旋する人宿と呼ばれる人材業者が登場、様々な共同組織を組織して求人に労働者を供給した。江戸の番組人宿、日用座、六組飛脚仲間、町火消組合などが代表的で、彼らと日用層との搾取的関係がある。
日用層は増加の一途をたどり、「その日稼ぎの者」は「十九世紀の前半にほぼ二十八万~四十万人にも達した。この数値は、当時の市中人口の六~八割にも相当する」(吉田伸之2009 P354)。なお、江戸はほぼ市中人口と同程度の武士がいたと考えられているので、江戸時代後期、江戸総人口の三~四割が日用層であったと推定される。この百姓でも町人でもない都市の低所得労働者問題は江戸時代を通じての重要政策課題の一つで、対策として史上名高い寛政の改革・天保の改革が断行され、そして十分な成果が残せず失敗。彼ら主要身分の埒外におかれた身分的周縁としての低賃金労働者に支えられた近世身分制社会は、まさに膨れ上がる彼らの存在によって内側から突き崩されていく。そして江戸時代の終わりを招来するのだ。
江戸幕府が倒れたところで、この日用層という社会問題が雲散霧消するわけでは全くない。近代化の波の中で職を失う自営職人層や零細商人層、士族に編成されなかった身分的中間層からの没落者等も含め、彼らは、肉体労働者として、新たに誕生した工場労働者として、あるいはスラム街の住人として差別と偏見に晒されつつ低所得労働者層を再生産し、日本の労働者の生活・就業様式などにも大きな影響を及ぼしつつ近代日本にくさびを打ち込み続けることになる。
柔らかい身分理解という日本社会史の新視点
以上、長々とみてきたように、「士農工商えた非人」の認識から大きくかけ離れた江戸時代の身分制社会像が明らかになってきている。これは身分的周縁研究の成果が大きいが、一方で身分的周縁研究が下からの積み上げゆえの、俯瞰的視点での全体像把握という点で弱さを持っている。様々な社会集団の重層と複合の上にある分節構造としての把握という視点では確かに同時代の個別関係が見えてくるが、では、江戸時代の身分制社会はどのような社会であったのか端的に説明することは難しい。また、男女の間でも明確な身分差があったが、身分的周縁をジェンダーの視点からとらえる点で研究が遅れている。
一方で、身分的周縁研究の深化の結果、中世から近世、近世から近代と日本社会史を連続でとらえる傾向が強まっており、近世社会の研究を通して中世社会、近代社会をとらえるパースペクティブを提供できる可能性も指摘されている。特に近世の身分的周縁が近代化の中でどう変化していったか、は今後精力的に研究が進むと考えられている分野である。
ゆえに、身分的周縁研究を土台として身分制社会の全体像理解に向け「多様な試みが分散的に取り組まれている時期」が現在の研究状況なのだ。
いずれにしても、「士農工商」に代わって教科書に「身分的周縁」という言葉が掲載される日もそれほど遠くないだろう。しかし、そのためにはほとんどマイナーなこの言葉の認知度上昇とともに、いかに近世身分制社会の全体像を端的に描けるかにかかっている。教科書に近世身分制社会研究の最新動向を盛り込むことの難しさを久留島浩がこう吐露している。
「高等学校の日本史の教科書を執筆して、どうしても『士農工商、えた、非人』という叙述からなかなか脱却することができないと痛感しており、それは、この『柔らかい身分理解』をどのように限られたスペースのなかで取り込むかという現実的な課題でもある。このことは、おそらく教科書を執筆した経験のある人なら誰でも考えていることだと思う。」(久留島浩 2000 P56-57)
研究者諸氏の日々の地道な努力が教科書にわかりやすい記述として結実する日を楽しみに待とう。大体、最新研究動向が教科書へ反映されるタイムラグが一〇~二〇年ぐらいかなと思うので、あと二十年ぐらいすると江戸時代の社会に関する一般的な認識が、がらっと変わっている・・・はずだ。
参考書籍
赤坂 憲雄著「境界の発生 (講談社学術文庫)」(2002)
朝尾 直弘編「日本の近世 (第7巻) 身分と格式」(1992)
朝尾 直弘「近世の身分とその変容」
横田 冬彦「近世身分制度の成立」
加藤 康昭「近世の障害者と身分制度」
塚田 孝「『かわた』身分とはなにか」
鬼頭 宏著「文明としての江戸システム 日本の歴史19 (講談社学術文庫)」(2010)
久留島 浩編「支配をささえる人々 (シリーズ近世の身分的周縁 5)」(2000)
久留島 浩「支配をささえる人々――支配する側とされる側とをつなぐ者たち――」
渡辺 尚志「庄屋」
久留島 浩 他編「身分を問い直す (シリーズ近世の身分的周縁 6)」(2000)
渡辺 恒一「近世前期の社会と『身分的周縁』論」
高埜 利彦「幕藩制社会の解体と身分的周縁」
久留島 浩「『身分的周縁』から武士身分を問う」
塚田 孝「身分的周縁と歴史社会の構造」
後藤 雅知 他編「身分的周縁を考える (身分的周縁と近世社会 9)」(2008)
町田 哲「請負制論」
斉藤 洋一・大石 慎三郎著「身分差別社会の真実 (講談社現代新書)」(1995)
高埜 利彦編「民間に生きる宗教者 (シリーズ近世の身分的周縁 1)」(2000)
高埜 利彦「民間に生きる宗教者」
井上 智勝「神道者」
西田 かほる「神子」
保坂 裕興「虚無僧――普化宗はどのように解体したか――」
梅田 千尋「陰陽師――京都洛中の陰陽師と本所土御門家――」
塚田 孝 他編「賎民身分論-中世から近世へ」(1994)
深谷 克己著「江戸時代の身分願望―身上りと上下無し (歴史文化ライブラリー) 」(2006)
藤木 久志著「刀狩り―武器を封印した民衆 (岩波新書 新赤版 (965))」(2005)
藤田 覚著「江戸時代の天皇 (天皇の歴史06)」(2011)
村山 修一著「日本陰陽道史話 (平凡社ライブラリー)」(2001)
吉田 伸之著「成熟する江戸 本の歴史17 (講談社学術文庫)」(2009)
吉田 伸之著「都市――江戸に生きる〈シリーズ 日本近世史 4〉 (岩波新書)」(2015)
歴史学研究会日本史研究会編「日本史講座〈5〉近世の形成」(2004)
吉田 ゆり子「兵農分離と身分」
渡辺 尚志「村の世界」
参考論文
大島 真理夫「士農工商論ノート」(1998)
吉田 勉「歴史/身分論から差別論・穢れ論・境界論・地域社会論へ―歴史学・民俗学・人類学・宗教学などの成果 前近代部落史研究の課題と展望」(2014)