今、支部総会が各地域で行われています。わが支部でも様々、内容を考え、工夫をこらし、支部一丸で取り組んでいます。私も裏方で会場設営に当たる他、このカテゴリでおなじみの「土星人さん」の寸劇を拝借してお芝居も演じます。「もう一つの5月3日」と題して、先生、奥様のなれ初めのお話です。(笑)
今朝も新聞配達の途中で、荘厳な朝日を眺めることができました。それに合わせて、我が心にも太陽を昇らせることができる・・・それが日蓮仏法です。太陽は遍く世の中を照らします。たとえそれが極悪人、犯罪者であろうと、一寸の虫けらであろうと平等に照らします。
大地はすべての人畜草木を乗せ、雨風は人を潤します。そうした働きに宇宙の広大無辺なる慈愛を感じるものです。地は体の肉に、水は血液や水分に、火は熱に、風は呼吸の流れに、そして空は心にと、大宇宙の地水火風空は生命と一体となって、休むことなく成住壊空(じょうじゅうえくう)を展開している・・・その根本の法こそ妙法と説かれます。
その妙法を受持し、一切の苦悩を歓喜に転換しながら生きていける・・・それこそ私たちが宇宙からいただいた最高のプレゼントだと思います。
大聖人様は、自らを大難にあわせた平左衛門尉や北条時頼を一番先に救ってあげたいと申されました。我々でいえば、日顕を一番先に救ってやりたいと・・・(そんなこと嫌だという声も聞こえそうですが(笑)) しかし、これが仏様の不可思議な境地なのかもしれません。
大聖人様が出世の本懐を遂げられるためには、平左衛門尉や東条景信、極楽寺良観らは欠かすことのできない登場人物でした。御書には「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信法師には良観道隆道阿弥陀仏と平左衛門尉守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(種種御振舞御書)とあります。いつの時代も法華経の行者、信者を迫害するものがいて、正法正義を顕すことができる。善と悪はまさに表裏一体であると言えます。
日顕が極悪を現し、悪鬼入其身の姿を演じて、学会を迫害してくれたから、私たちはその呪縛から解かれ、宗教団体として自由を勝ち取ることができました。また不純な学会員はふるいにかけられ去っていきました。 善悪を峻別し、悪を責めることにより、善や正義もより確かな形で浮き彫りになる・・・日顕という大悪によって学会の正義はより一層、鮮明になったと言えます。
極悪の人間がいつどのように救われるものか、どれほどの無間地獄に住むものか、それとも永遠に地獄なのか、それは凡夫にはわかりません。 しかし、提婆達多の成仏を説く法華経ですので、いつかは必ず仏になるということが示されます。順逆ともに救う法華経の偉大さ、スケールの大きさに驚くほかありませんが、それは万人に仏性があるということにほかなりません。大悪、極悪さえも、法華経は見捨てることはない・・・そこに私は仏の大慈大悲を思うものです。それと同時に学会の後世を思い、この大悪を呼び起こされた、池田先生の深き一念というものがどれほどすごいものであったか、私はあらためて強く感じます。
提婆達多は過去世の釈尊の姿だという話が法華経には出てきます。これは非常に意味の深い、不思議なお話です。そこに法華経の善悪不二ともいうべき深い法理があると思います。(このことについては、これからもよく考えてみたいと思います。)
ともあれ、太陽のように一切衆生を愛しゆく大きな人間になりたいものですね。この人は仲間として認めるけど、この人は許さない・・・これでは偏狭な自己中心主義であり、いわば小乗教に近い考えかたです。大乗経は十界の衆生、すべてを乗せて成仏へと向かう大船であり、法の下では皆が平等です。
アンチであろうと、外部であろうと、その人達の反対のおかげで、仏になれると感謝しつつ、今度はその人たちを、真っ先に救っていこうとする・・・その心こそ、折伏精神であり、内も外も、仏の眼から見れば、愛すべき衆生に変わりないと思います。
学会をかく乱させる、師子身中の虫が、これから出てくることも考えられます。しかし、それがまた法華経の宿命でもあります。魔が競うゆえに正法であり、それによって大善も来るのです。その時こそ、我ら、信心あるものが仏になるチャンスととらえ、仏敵を責めて行かねばと思います。
戸田先生は佐渡御書講義で「運が良ければもう一遍、牢屋に入れますが、運が悪ければ、このまま幸福になって死ぬだけです・・・それでは困る」と言われました。本当にすごい境涯ですね。
私たちも師子身中の虫を冥伏させていてはならない・・・あぶりださねばなりません。創価学会が新たに発迹顕本し、学会員が大きく境涯を開くためにも、大悪を呼び顕し、打ち破っていく気迫をもちたいと思います。難が来るかと思えば、心踊るのが日蓮門下です。私もその心で新時代の先駆けとなって、やらんかなの決意に今、あふれております。
、皆さん、時が来れば共々に戦おうではありませんか!(どこかの幹部さんみたいですが(笑))
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コメント
ENG様
折伏に挑戦されていること自体、素晴らしいですね。私も人と比べて自分を卑下するところがあって、自信が持てなくて、嫌な性分だと思っていました。でも信心で変毒為薬できました。人と比べるのは相対的幸福です。あなたはかけがえのない一人ですよ。世界に一人だけの最高のあなたです。その自分が輝けばいい。それができる信心です。変毒為薬して自分を大好きになってください。先生を求めて、先生と一つになろうとする生き方をめざせば、どんどんよくなりますよ。
折伏に挑戦されていること自体、素晴らしいですね。私も人と比べて自分を卑下するところがあって、自信が持てなくて、嫌な性分だと思っていました。でも信心で変毒為薬できました。人と比べるのは相対的幸福です。あなたはかけがえのない一人ですよ。世界に一人だけの最高のあなたです。その自分が輝けばいい。それができる信心です。変毒為薬して自分を大好きになってください。先生を求めて、先生と一つになろうとする生き方をめざせば、どんどんよくなりますよ。
王者の剣
2014.10.18 23:09 | 編集
【真理と自然観】
《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』
然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)
【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互してこれを成し遂げようとする生命の在り方。
《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』
然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)
【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互してこれを成し遂げようとする生命の在り方。
阿頼耶
2014.10.22 00:38 | 編集
阿頼耶様
長文のコメントありがとうございます。当方の理解を越えた部分もありますので、返信は的確にできませんが・・・
私自身は生命の根本的な実在を仏の生命(日蓮大聖人の南無妙法蓮華経)であると信じており、それが絶対的真理であり、善、美でもあります。そして自他供の幸福を志向し、人間的な成長を遂げながら、一生成仏、絶対的幸福の獲得を目標に信仰に励むことが、最高の利、善、美(価値創造)だと信じています。
観念の思考や思索は、そのための足場にはなりますが、実際の生命の悟りは御本尊への信と、唱題行、折伏行の実践によって体得できるものと説かれます。そのため大聖人様は有智無智を問うことなく、一切衆生の幸福の道を御本尊の顕示とそれに対する信心という形でご教示下さいました。
その教えを実践し、自身の生命を正しく悟り、今世も来世も自受法楽しながら、生きていける・・・それこそが人としての最高の生命活動と信じています。
もうお読みかもしれませんが、仏法の生命観、宇宙観につきましては、戸田先生、池田先生の著作がたくさんありますので、そちらを読まれることをおすすめいたします。
長文のコメントありがとうございます。当方の理解を越えた部分もありますので、返信は的確にできませんが・・・
私自身は生命の根本的な実在を仏の生命(日蓮大聖人の南無妙法蓮華経)であると信じており、それが絶対的真理であり、善、美でもあります。そして自他供の幸福を志向し、人間的な成長を遂げながら、一生成仏、絶対的幸福の獲得を目標に信仰に励むことが、最高の利、善、美(価値創造)だと信じています。
観念の思考や思索は、そのための足場にはなりますが、実際の生命の悟りは御本尊への信と、唱題行、折伏行の実践によって体得できるものと説かれます。そのため大聖人様は有智無智を問うことなく、一切衆生の幸福の道を御本尊の顕示とそれに対する信心という形でご教示下さいました。
その教えを実践し、自身の生命を正しく悟り、今世も来世も自受法楽しながら、生きていける・・・それこそが人としての最高の生命活動と信じています。
もうお読みかもしれませんが、仏法の生命観、宇宙観につきましては、戸田先生、池田先生の著作がたくさんありますので、そちらを読まれることをおすすめいたします。
王者の剣
2014.10.22 12:07 | 編集