“あれ”が発売されていれば、僕の人生は変わっていた――“Palmの神様”として知られている、山田達司氏がくやしそうに話していた、幻の“あのモバイル端末”。
それは、現在のスマートフォンとほぼ同じデザインの通信機能付きPDAだった。実は、iPhoneが生まれる数年前にほぼ完成していたが、“とある事情”により、発売前に破棄されることになったという。
今回連載に登場するのは、Palm社で当時、この通信機能付きPDAの開発に携わっていた、久保芳之氏。これまでタブーとされていた“あの端末”について率直に聞いてみたところ、「もう時効でしょうから」と笑顔で応じてくれた。今だから話せる真実とは?(※聞き手=PDA博物館初代館長 マイカ・井上真花)。
久保芳之氏。15歳のときに留学目的で渡米し、アメリカ・シアトルで高校、大学を卒業。Aludsに就職し、現在の「Adobe PageMaker」などを日本語にローカライズした。1999年には、コンサルタントとしてPalm社に入社。日本でのPalm普及活動として、デベロッパーコミュニティーを立ち上げ、2001年にPalmSourceへ移籍。「Palm OS」のライセンス販売やアライアンス・マネージメントを担当した
――久保さんは以前、Palm社でお仕事なさっていたとか。
はい。2000年12月に通信機能付きPalmの担当になり、開発に携わっていました。その後、2001年にPalm社が分社化し、ライセンス管理部門がPalmSourceとして独立。僕もそちらに移籍し、ソニー担当になりました。
ソニーが目指していたのは、最先端技術。Palmは当時、低消費電力のDragonBallプロセッサーを使っていましたが、ソニーが希望していたのは、最先端であるARMベースのプロセッサー。そこで、ソニーの方針にしたがって、ARMプロセッサーを導入しようという動きになりました。
PDA業界に活気があった時代、Palmブームに乗って、「CLIE(クリエ)」の新製品が2、3か月おきに発売されていました。実は、CLIEには2つのチームがあって、それぞれのチームが半年おきに新製品を発表していたと聞いています。だから、Palmユーザーは、お財布の紐がゆるみっぱなしという事態になった(笑)。
そんな調子だから、進化にはスピードが求められていて、ARMプロセッサーの導入にも時間をかけられなかった。そこで、アメリカと日本、フランスという3か国の時差を利用し、24時間体制で開発していました。
――それほどアクティブに新機種を投入していたCLIEも、2005年には撤退することになりました。
そうですね。CLIEに限らず、PDA市場全般がシュリンクしていきました。その理由のひとつに、PDAのワイヤレス移行がスムーズに進まなかったことがあると思います。
海外では、通信機能を備えたPDA「Treo(トレオ)」のように、ワイヤレスへの移行が比較的うまくいっていた例もある。成功要因として、もちろん技術的なことはいろいろあると思いますが、“海外は、キャリアとメーカーとの役割分担が明確だった”ということは大きかったと思います。
そのいっぽう、日本国内の状況は特殊でした。キャリアは、ネットワークのみならずハードウェアも扱っていた。そのため、ハードウェアメーカーとキャリアとの関係は、パートナーというより、競合に近いものだったんですね。こういった事情から、PDAにワイヤレス機能を追加する動きがうまく進んでいかなかった。これが、PDA市場の衰退の大きな要因になったことは間違いありません。
――以前、この連載に登場した“Palmの神様”山田達司さんから、日本でも、通信機能を備えたPalmが発売される直前だったという話がありましたが、それはどうだったのでしょうか。
はい。もう時効でしょうから、そのあたりのこともお話ししましょう。
実は2001年、日本でも通信機能を備えたPalmが作られていたんです。「i700」という名称で、NTTドコモと共同開発していました。これが、その製品です。ご覧いただければおわかりかと思いますが、ほぼ9割は完成していました。あと1か月あれば、製品化できたはず。
ところが、Palm社側の事情で開発を継続できなくなり、「開発をストップせよ」という命が下った。ドコモはどうしても、あきらめることができず、かなり交渉を続けたようですが、最終的には中止せざるを得なかったんです。
当時、このあたりの事情は伏せられていましたから、あたかもドコモがi700プロジェクトを潰したかのように見えて、たいへん気の毒でした。
NTTドコモと共同開発したという「i700」。通信機能を備えている
Graffiti(グラフィティ)エリアを見ると、日本語対応であることがわかる
右側に見えるのがアンテナ。通信機能を備えている証だ。ただし通話はできず、データ通信のみだった
裏ぶたを開けると、SIMカードを挿し込めるスロットもあった
ちゃんと、技適も取っていたようだ
こちらもプロトタイプの「TUNGSTEN i710」。通信機能を備え、キーボードも搭載した
i700と同様に、背面にSIMスロットを備えている
――i700が発売されていたら、日本のスマートフォン市場は、現在とはまったく違ったものになっていたでしょうね。
iPhoneが誕生したのは、CLIEが撤退を決めてからわずか2年後の2007年。あっという間に市場を制覇しました。それまでiモードの天下でしたが、この時期から失速し始め、その代わりにスマートフォンの普及がどんどん広がっていった。もちろん、PDAは消えてしまいました。
ワイヤレスへの求心力は、PDA全盛期からじわじわと高まっていましたから、これは必然の流れであり、誰かがどうにかできるものではなかった。仕方なかったと思います。
実は、Palmもあきらめてはいなかったんです。2009年には、スマートフォンやタブレットで使うOSとして「webOS」を開発。2009年には、初代webOS搭載端末である「Palm Pre」を発表しました。その翌年、Palm社はHPに買収されましたが、webOSの開発は継続され、ジェフ・ホーキンスのもと、webOS搭載のタブレットが生まれました。
ところが、同時期に発売されたiPadは、段違いに速かった。試しにiPadにwebOSを入れてみたところ、サクサク動いたそうです。これを見た開発部隊が「とても追いつけない」と実感し、2011年8月には、webOS事業が閉鎖されてしまいました。
「webOS」にトドメを刺したのは、iPadだった
――なるほど。Palmに最後のトドメを刺したのは、Appleだったんですね。
たしかにそうとも言えますが、もう少し深読みすると、不思議な縁が見えてきます。
「Palm V」が登場したころ、Palm社は「ビリオンダラーカンパニー」(年間売上1000億円以上の企業)に成長し、そのポテンシャルに惹かれ、世界中のすぐれた技術者が入社を希望。Palm社も彼らをどんどん受け入れ、豊富な人材が集まりました。会社自体がお金持ちだったから、モバイルの可能性を追求するための実験を行う余地もあった。そのことが幸いし、さまざまなアイデアや技術が生まれました。
その後、Palm社は失速し、会社を辞めた技術者たちは、それぞれAmazonやGoogle、Blackberry、Appleなどの企業に散っていきました。つまり、iPhoneやAndroidを生み出した開発部隊には、元Palmの社員が相当数、存在していたのです。
ということは、iPhoneやiPadが生まれた背景に、Palm社で生まれた技術やアイデアがあったということ。結局、そう考えると “Palmにトドメを刺したのは、元Palm”というようにも見えてきます。皮肉なものですね。
――それは皮肉な話ですね…。
はい。ただ、かつてPalm社で腕を磨いた技術者が、その後のスマートフォン市場を牽引するAppleやGoogleという企業で活躍しているということは事実であり、考えてみると、これはすごいことだと。
たとえば、スマートフォンの成功要因のひとつとして、「アプリストア」というエコシステムがあるということはすでに、みなさんご存じかと思います。ですが、その代表的なサービスである「iTunes Store」を作ったのも、元Palmの開発者なんです。
「今のスマートフォンには、PDAに関わった“人”というDNAが残っている」と久保氏は断言する
――この連載でも何度か、「スマホにPDAのDNAはあるのか?」という議論がありましたが、久保さんは、「DNAは残っている」と思われますか?
はい。DNAを“人”と考えると、確実にそれはある。Palmでモバイルの可能性を追求していた彼らは、場所こそ違えど、この20年間ずっと同じことをやってきています。その中で、かつてPalm社で生まれたアイデアや技術が、現在のスマートフォンに生かされている。これはもう、“事実”と言ってもよいのではないかと。
――ところで、久保さんが現在使っている端末は何ですか?
iPhoneですね。非常に満足して、使っています。昔は、海外に行く際、国ごとに通信環境が違うため、わざわざ周辺機器を用意する必要があった。しかし現在は、iPhoneひとつで世界を回り、国内で使っている環境のまま、メッセージも送れる。スマートフォンは、僕から見るとほぼ完璧。当時やりたいと思っていたことは、これ1台で、ほぼできていますから。
僕にとってPDAは、コミュニケーション方法を大きく変えるもので、最初にPalmを見たときに、そう感じました。
極端な例ですが、たとえば現在、僕が宇宙空間に浮いているとします。このことを、誰かに伝えたい。そんなとき、パソコンが起動するのを待っていられますか? この気持ちをすぐに伝えたいのであれば、持ち歩ける手のひらサイズの端末で、電源を入れてすぐにメールできなければダメ。そういう意味でも、現在のスマートフォンには満足しています。
――そんな久保さんが見た、スマホの先にある未来とは?
「これからは、企業の壁を越えた情報交換がカギになる」と久保氏
現在は眼鏡型の端末やスマートスピーカーなど、スマートフォン以外にも、さまざまな製品が登場していますよね。そのような製品と、そこで蓄積されている技術が統合されれば、未来ではなく、今すぐにでも、素晴らしいものが生まれるはず。
僕は最近、YouTubeでロボット関連の動画を見ています。今やYouTubeは誰でも見られるサービスとなっており、そこでは、さまざまな最新技術が公開されています。これらの技術を包括し、世界中のリソースを束ねるだけで、完成度の高いロボットを作ることができると思いました。
ただし、そのためには企業単位ではなく、企業の壁を越えた情報交換が必要ですが、インターネットがあれば、それも夢じゃない。スピーディーな進化が求められるシーンでは、きっとスマートフォンが活躍するでしょう。そのきっかけを作ったのが、PDAだったのだと思います。
15歳で渡米した久保さん。大学時代、ソニー創業者のひとりである盛田昭夫社長がアメリカで行った講演で「使う人が欲しいものを作る」という言葉を聞き、感銘を受けたそうです。実は、スティーブ・ジョブスも同じ講演を聞き、盛田哲学を携えてAppleに復帰したとのこと。とすると、現在のiPhoneを生み出すきっかけのひとつに、ソニーの存在があるのかもしれませんね。いろんな人の縁を感じる、とても印象的なインタビューでした。
編集プロダクション。「美味しいもの」と「小さいもの」が大好物。 好奇心の赴くまま、良いモノを求めてどこまでも!(ただし、国内限定)