ゆってぃこないだ、小学校に提出するために次女(9)の運動会の感想を書いていました。
赤黒の2色ボールペンの黒で書いていたんですけど、半分くらい書いてインクが切れたので、そこからは赤で書いたんです。そしたらそれを見ていた奥さんに「えっ? 自由過ぎない?」と驚かれました。
別に小学校のプリントをいい加減に考えているつもりはないんですよ。でも正式書類ってわけじゃないし赤でも良いよね。
それより黒がなくなったからって別の黒いボールペンをわざわざ探して持ってくる方がめんどっこくてヤダ。だって手元に赤で書けるボールペンがあるんだから。
黒で書かなきゃっていうのは固定観念であって。そういうのに囚われ過ぎたくない気持ちが常にどこかにあります。だから『それホントにダメなのかな?』って疑う習性がわたしにはあるのです。
子どもに関することとかもそうで、子どもに「やっちゃダメ」って言うことの中に、本当にダメなことはそんなにないんじゃないかな、とか思っています。
例えば水たまりに飛び込むこと。これの何がダメなのか。飛び込んだら靴と靴下が水で濡れてグチャグチャになっちゃう。それは知ってる。でもそれだけ。大した問題じゃない。
飛び込んだ時に見知らぬ人に水を掛けてしまったり、これから大切な用事があるというのなら話は別だけど、そうじゃなければ別にいいじゃんと思う。
だから娘たちが小さい頃から、水たまりに入ることを止めたことはほとんどありません。ただし「水たまりに入ったら靴が乾くまでは他のお店には入れないよ」とは言いますね。お店や他のお客さんに迷惑ですから。そこは娘たちに選択を委ねます。
そして水たまりに飛び込むとなったら、わたしも一緒に飛び込む。そういう時に傍観者でいたくない。娘たちに「楽しかった?」と聞くのではなく「楽しかったねぇ」と言いたい。
夏の暑い日。川とかジャブジャブ池的な水場に行くと、飛び込んで遊びたくなります。でも水着も着替えも用意していない。そういう時はもう服のまま入ります。
とある水遊び場。打ち上げられてしまったクジラのよう。
とある渓谷。足元がヌルヌルしているので娘たちの手をとって支えているところ。
着替えなどないですからね。そのまま車に乗るわけです。車のシートはシミだらけですよ。でも大した問題じゃない。むしろそこがいい。そういう風にして付いたシミや傷はいいんです。それは刻まれた歴史だから。
娘たちも最初は「入ってもいいのかな」って感じだったけど、今では普通に「服のまま入ってもいい!?」とか聞いてきたりします。いいぞいいぞ。いい感じに育っている。
ただ、こないだのピアノ発表会の時。出番までの数十分の待ち時間に「公園で遊んでいい!?」と聞かれた時はひるみました。いや君らいま着てるのドレスだぜ? あと少しで舞台に立つんだぜ? さすがにマズかないかい? そう言いました。
でもこういう時の娘たちは、なかなか諦めない。なぜならこういう時、わたしなら「いいよ」と言ってくれると信じているからだと思う。それが何だか嬉しくもある。
まぁいいや。汚れても破れても、それはそれで思い出にはなるでしょ。
うまくは言葉にできないんだけど、こういう感覚は大切なんじゃないかと何となく思っていて。
それが娘たちにどう影響しているか分からないけど、悪い影響は与えていない気がする。
この先、どんどん成長する娘たちだから、「楽しかった?」と聞く機会は増えるだろうけど「楽しかったね」と言い合える機会は減っていくんです。
だからこういう思い出をたくさん作って、結婚式で読む手紙に書いてもらう。そしたらわたしは泣くから。必ず泣くから。
あと、わたしのそういう振る舞いを受け入れてくれる奥さんの存在が大きい。
普通なら発表会の数十分前に公園で遊ばせていたらリモコンの角でガンガン殴られてもおかしくないじゃないですか。でも全然怒らない。むしろ笑って「出番まで○○分だからね」と言ってくれる。心の広い女性なんです。
あ、マジメですよ今回は。書きませんよ変なコト。
わたしだって四六時中シモばっかりじゃないですからね。いいトシなんだから、そんないつもいつもウンコだのゲロだの書いてられませんよ。