【芸能・社会】桂歌丸さん死去、81歳 生涯現役貫いて「笑点」半世紀出演続ける2018年7月3日 紙面から
半世紀にわたって名物番組「笑点」(日本テレビ系)に出演、軽妙な語り口で親しまれた落語家の桂歌丸(かつら・うたまる、本名椎名巌=しいな・いわお)さんが2日午前11時43分、慢性閉塞性肺疾患のため、横浜市内の病院で亡くなった。81歳だった。落語芸術協会の会長として若手の育成、落語の普及に尽力、自身も晩年まで高座にあがる執念をみせていた。 落語家として生涯現役を貫いた歌丸さんの晩年は、度重なる病との壮絶な闘いでもあった。 20年ほど前から、腰痛を訴え、2006年に腰部脊椎管狭窄(きょうさく)症で手術を受けた。2009年になると肺気腫に伴う感染増悪で入院した。14年には慢性閉塞(へいそく)性肺疾患が悪化し入院。15年には床擦れや腸閉塞を起こすなどして入退院を繰り返した。 体重は30キロ台にまで落ち込むなどした。それでも酸素吸入のチューブをつけた状態で舞台にあがるなど、高座を務めることに強い意欲を見せた。 「歩くことがいま、大変苦しい。肺気腫を患ったため、息切れしてしまう」。16年5月、長くレギュラー出演した日本テレビ系「笑点」を勇退するにあたって、歌丸さんは体力的な問題や健康面での不安を理由にあげた。 番組降板以後は、「大喜利の司会を辞めても、落語は続ける。まだまだ覚えたい噺(はなし)もある。落語で負けちゃいられない」と落語会を中心に活動を続けたが、肺炎や腸閉塞でたびたび入院した。 今年に入ってからは、体調不良で正月の寄席を休演したものの、2月の千葉での落語会で復帰。3月の仙台での高座を務め、4月19日の国立演芸場が最後の高座に。4月7日には日本テレビ系のミニ番組「もう笑点」の収録にも参加。7月1日に放送された同番組で元気な姿を見せていた。 しかし、5月になって再び体調不良を訴え、自宅がある横浜市内の病院に入院。一時は回復のようすも見られたが、再び高座に姿を見せることなく、家族に見守られ旅立った。なお、葬儀・告別式は近親者で行う。
◆「笑点」50年…シンボルとして活躍2日に死去した歌丸さんは、日本テレビ系の演芸番組「笑点」に、二つ目時代だった初回から50年にわたって出演した。高度成長期の1966年に番組が産声を上げ、2016年5月に司会を降板するまで、まさに「笑点」のシンボルとして活躍。歴代の共演者たちと共に、お茶の間に笑いを届け続けた。 生前に歌丸さんが恩人と慕ったのは、初代司会の立川談志さんだ。初期は二つ目の出演者が多い“若い番組”。真打ちの談志さんからの推薦で出演が決まったという。11年に談志さんが死去した時は「前身番組から私を引っ張り出し、世に出してくださった大恩人です」と感謝を述べた。 同志であり、良き相談相手でもあったのは4代目司会の五代目三遊亭円楽さんだった。 歌丸さんは円楽さんの司会ぶりを「下手でね…」と振り返りつつも、「その不器用さがあの人の面白み。お客さんがどっと笑った」と称賛していた。 歌丸さんは06年に5代目司会に就任。とぼけた林家木久扇への鋭いツッコミや、円楽さんのまな弟子、六代目円楽との軽妙な言い合いなど、りんとした司会ぶりで好評を博した。 司会のバトンは春風亭昇太に託した。発表の際には「昇太さんなりの司会を」と、緊張気味の昇太へ温かなエールを送った。 歌丸さんが司会として最後に出演した16年5月22日の放送回の平均視聴率は、関東地区で27・1%(名古屋地区27・6%)を記録。降板後も“終身名誉司会”として、視聴者に愛され続けた。 ◆闘病さえもネタに変えた執念<悼む> 病状悪化で苦しむ桂歌丸さんを心配した家族が声をかけた。「何かほしいものはある?」「カ、カネ(お金)が欲しい」-。入退院を繰り返しながらも高座へ挑み続けた歌丸さんがよく披露していた“闘病ネタ”の一つ。厳しい病気との闘いさえも次々と笑いに変え、生涯現役の落語家人生へ執念を見せ続けた。 落語家・桂歌丸の強烈な自負を感じたのは昨年6月17日に行われた「もう笑点」収録取材の時だった。落語の魅力を問われた歌丸さんは「日本の文化である日本語を一番使っているのが噺家(落語家)」「日本の言葉を使って笑いを取るのが芸人であり、われわれ噺家だと思う」と力説。「いま、失礼ですけど、日本語を使わないで笑いをとっている芸能人の方が大勢いらっしゃる。裸でお盆を持って出てきたり。ああいうのを見て、面白いな、うまいなと言われちゃ困るんです」と訴え、和やかだった会場の雰囲気が一変した。 当時36キロまで体重が落ちていたがよく通る声で「これで声が出なきゃミイラと同じ」と笑わせた。医師との約束で体重の増加にも努力していたが食べ物の好き嫌いが激しいことも明かし「80年間やってきたことを急に変えられない」と漏らしていた。落語ひと筋の人生も重なる言葉だった。 (関龍市朗) ◆お別れ会11日午後2時から横浜市港北区菊名2の1の5、妙蓮寺で。喪主は妻の椎名冨士子(しいな・ふじこ)さん。 <桂歌丸> 1936(昭和11)年8月14日生まれ。横浜市中区真金町(現南区真金町)出身。中学2年の時、当時あった遊郭の診療所であった慰労会で春風亭柳昇の落語を見て、落語家になる決心をする。15歳で祖母の知り合いだった古今亭今輔に入門し、後に桂米丸の門下に。二つ目時代の66年に放送が始まった「笑点」で大喜利レギュラーとして頭角を現し、若手のホープとして注目された。68年に真打ちに昇進した。 テレビの人気者として落語ファン以外にも親しまれる一方で、寄席での評判も高く、埋もれていた古典落語を高座にかけ、特に「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」など名人三遊亭円朝ものに取り組んだ。年とともに芸も深みを増し、89年に芸術祭賞を受賞した。 横浜市の自宅近くの「三吉演芸場」での独演会は70年代から続き、建て替えにあたっては募金活動に奔走。寄席「横浜にぎわい座」の館長も務めた。 2004年に落語芸術協会会長に就任し、若手の育成に力を注いだほか、各地で公演を開くなど落語の普及に尽力。06年には五代目三遊亭円楽の後を継いで「笑点」の司会を務め、16年5月に退くまで大喜利コーナーで笑いをリードした。05年芸術選奨文部科学大臣賞、07年旭日小綬章。16年には文部科学大臣表彰を受けた。
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