「はあっ、はあっ、はあっ!」
エンリは走っていた。
彼女の手は、妹のネムの小さい手を掴んでいる。
哀れな2人の姉妹はその後ろより迫ってくる死から逃れようと必死であった。
だが、彼女たちの背後からは金属の甲冑がたてる騒がしい音が追ってくる。
もう二人は息が詰まり、心臓が爆発しそうなほどなのに、追い立てる者の足音は止まる様子もない。
不意にネムが転んだ。幼い彼女の足はもう限界だったのだ。
だが、ここで止まるわけにはいかない。
エンリは、彼女自身もすでに疲労によって震えている身体にむち打ち、妹を助け起こす。
その際、振り向いた彼女の目に、手にした
「無駄な抵抗はするな」
もはや2人の少女がこれ以上逃げられないのは目に見えている。恐怖におびえる少女たちを追い廻すのは楽しかったが、鬼ごっこは終わりだ。後はその身を蹂躙してやろう。
男は兜の下で舌なめずりをした。
だが、エンリは恐怖に震える妹を抱きしめ、男を睨みつける。
彼女はまだ諦めていない。生への希望を捨てていない。
最後まで運命に抗うつもりである。
それが、無為に終わるであろうことは頭ではわかっていたが。
ネムを助け起こすほんの数秒立ち止まることが出来たが、それで乱れた呼吸は整いはしない。かえって、ほんのわずか足を止めたことでその身に溜まった疲労が彼女に意思に反して、その足を釘付けにしてしまっていた。
しかし、それでも彼女は休みたいとストライキを起こす身体をねじ伏せ、さらなる逃亡を試みる。
大きく息を吸うと、ネムを抱きかかえたまま、身をひるがえした。
男はにやにや笑いながら一息に距離をつめると、哀れな少女たちに刺し貫こうと剣を振り上げ――。
――道の向こうに立っている者達を目撃することになった。
そこに2つの人影があった。
その身体には何も身に着けていない。
腕と足に金属の輪をつけ、腰には申し訳程度のブーメランパンツをはいた二人の男。
その男たちはアブドミラルアンドサイとサイドトライセプスのポーズを取り、己がはちきれんばかりの筋肉を惜しげもなく見せつけていた。
たくましい上腕三頭筋。むしゃぶりつきたくなるほど見事に6つに割れた腹直筋。
その様はまさに美の神が作り出した至宝と呼んでも過言ではない美しさである。
惨劇に襲われた農村へと続く田舎道に突如現れた、2人のたくましい筋肉の持ち主。
彼らはその名をアドンとサムソンという。
この2人は、彼らが兄貴と呼び慕うイダテンとともに究極にして無敵、銀河にして最強である究極無敵銀河最強男との戦いの後、たまたま近くを通りかかったうみにんによって、なんだかよく分からないことに巻き込まれ、なんだかよく分からないことになり、なんだかよく分からないまま、この地に来たのである。
とりあえず状況が分からずにいたところ、道の向こうから数人に人影がこちらに向かってきたのが見えたため、初対面の人間に対する最も基本的な挨拶として、ポージングで自らの筋肉を見せたのだ。
そんな彼らを前にした3者――エンリとネム、それに彼女たちを追ってきた騎士である――は凍りついていた。
なぜ、こんなところに裸の男たちがいて、そしてさらに筋肉を見せつけているのか全く理解が出来なかったためである。
突然の出来事に正常な判断は出来なかったが、とりあえずエンリは2人に声をかけた。
「あ、あの……助けてください……」
その声にポーズをとっていた男2人はぎょろりとした目を向けた。
思わずエンリは腕の中のネムを掻き抱き、身をすくませる。
次の瞬間、彼らが動いた。
それを見て取った、鎧兜の返り血もまだ乾ききらぬ騎士は思わず、その手に下げていた剣を構える。
アドンとサムソンは3人が見ている前で、アブドミラルアンドサイとサイドトライセプスから、サイドチェストとフロントダブルバイセップスへとポージングを変えた。
なんと神々しい上腕二頭筋と胸筋、それに大殿筋なのであろうか。
そのまま、再び時がとまる。
やがて、焦れた様に騎士が口を開いた。
「……なんだ、お前ら? そんな変な身体見せやがって」
瞬間、男が吹き飛んだ。
一瞬で間合いを詰めたサムソンのパンチを受け、鎧に包まれた身体が10メートルは宙を舞う。
そして力ない身体が大地へと落ちる音に、エンリはその身を震わせた。
「やれやれ、美というものが分からぬ
「うむ。未開の地とは思っていたが、まさかこれほどまでだとはな、サムソン」
怒りに打ち震えるサムソンの前に、物音を聞きつけた別の騎士が家の影から顔をのぞかせた。
そして、その場の光景に目を丸くする。
「な、なんだ!? いったい何なんだ? おい、そこの変な身体のお前ら。お前らどこから来た?」
その言葉に、再び2人の怒りが燃え上がった。
「ぬうぅ! 貴様もか! 貴様もこの完璧なまでに鍛え上げた筋肉の素晴らしさが分からんのか!? ええい、貴様の仲間を全員集めるがいい。俺たちが筋肉について一から教育し直してやろう!」
そう言うと、その騎士の首根っこをひっつかみ、猫の子のように軽々と持ち上げる。慌てた騎士が手にした剣を振り回そうとするが、それより早くその体を壁に叩きつける。民家の土壁に一撃で穴が空いた。そうして幾度か叩きつけ、壁の穴を増やしていくと、騎士はやがて抵抗を止めた。
そして、その騎士をひっつかんだまま、アドンとサムソンは村の中へと走って行った。
そして、その場には呆気にとられるエンリとネムだけが残された。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ガゼフは目の前の人物に困惑していた。
彼はこの辺りを荒らしまわっているという、帝国の騎士を討伐する為にこの地にやって来たのである。
これまでいくつかの村を回ったが、そこはすでに襲われた後だった。
彼はそこで見つけたわずかな生存者たちを助けるため、部隊を割いて、彼らを安全なエ・ランテルまで護送させた。
村を回れば回るほど、生存者の護衛の為に、ガゼフが率いる部下の数が減っていくことになる。
それは必然的に、自分たちの戦力が低下することを意味する。
だが、彼はそれでも、民草を助けることを選択した。
そして、この蛮行を行っている者達との、苛烈となるであろう戦いを予期していた。
そうして、このカルネ村にやって来たのであるが、幸いにもこの村はまだ無事のようであった。
しかし、遠目にみると、いくつかの家に損傷の跡が見られた。
これまでの村と同様に、火でもかけられたような跡が。
その為、警戒をしつつも村へと近づいていったのであるが、村の入り口で彼を出迎えたのは村長らしき年配の男と、まるで双子のような、鍛え上げられた筋肉を持つ大男達であった。
――いったいこの2人は何者なんだろう? 他国からの逃亡奴隷だろうか?
2人の素性に頭を悩ませながらも、とにかく声をかける。
「私はリ・エスティーゼ王国、王国戦士長ガゼフ・ストロノーフ。この近隣を荒らしまわっている帝国の騎士を討伐するために、王命により各地を回っている者である」
そして、彼は村長に話しかけた。
「あなたは村長とお見受けするが、その横にいる2人は何者か?」
「はい。この方たちはアドン様とサムソン様という方々で……たまたま旅の途中、この近辺に立ち寄ったところ村が襲われているのを見て助けに来てくださったのです」
「ほう」
彼は改めて、2人の大男に目を向ける。
アドンとサムソンは自分が見られていることに気がつき、2人でリラックスのポーズをとった。ちなみにリラックスという名前だが、本当にリラックスしているわけではなく、全身の筋肉に力を入れている状態である。
そして、村長の口から、村を襲っていた帝国の騎士達はこの2人によって全員捕らえられ、縛って小屋に閉じ込めてあるという事が語られた。
「なるほど。この村を救っていただき、感謝の言葉もない。」
ガゼフは馬から降り立ち、頭を下げた。
王国戦士長という地位にあるものが、素性のしれない男たちに頭を下げるという行為に、部下たちの間に動揺が走った。
その空気を読んでか読まずか、アドンとサムソンは満足した様子で気にすることは無いと答え、たくましい胸筋をビクンビクンと上下させた。
そう、彼らは満足していた。
見ず知らずの彼らにも頭を下げるガゼフの分け隔てのない態度に対してではない。ガゼフのその筋肉に対してである。
彼らはそれまで失望していたのだ。
この地に来てからというもの、会う人間は皆、筋肉をろくに鍛えていないような者ばかりであった。
先ほど村を襲っていた男たちの中にも、見るべき筋肉の持ち主はおらず、あまつさえ彼らを指揮していたベリュースという男などは、隊長という地位にありながらその体の脂肪によって腹筋すら見えない有様であった。
もしや、ここはこの世の地獄、筋肉不毛の地なのだろうか?
そんな不安まで脳裏をよぎった。
だが、ついにたくましい筋肉の持ち主に出会えたのだ。
この王国戦士長という男は、その身に纏う鎧によって隠されてはいるが、その下に鍛え上げられた筋肉を隠し持っているという事は容易に見て取れた。
ようやく立派な筋肉を持つ者に巡りあえたという思いが、今、2人の胸の内を満たしていた。
だから、そのすぐ後、何者かがこの村の周囲を取り囲んでいると報告があり、ガゼフから助力を求められた時、彼らは何の躊躇もしなかった。
「アドン殿、サムソン殿……手を貸してくれないか?」
その言葉に2人は逡巡すらなく首肯した。
「おお、いいとも」
「かたじけない。報酬はいかほど……」
「いや、金などいらん。その代わり……」
「その代わり?」
言葉の続きを待つ。
「その代わり、これからお前の事を兄貴と呼ばせてもらうぞ」
ガゼフは盛大に顔をひきつらせた。
何故、突然そんなことを言われなくてはならないのだ。
だが、これは考えてみれば、実にいい取引だ。ただガゼフ個人がそう呼ばれればいいだけの話だ。金や地位を要求された場合、内容によっては国に掛け合わなくてはならない。その際、貴族派閥の者達が騒ぎを起こすことは目に見えている。だが、ガゼフが兄貴と呼ばれるだけなら、そんなことを気にする必要もない。
その表情は硬いままだったが、ガゼフは首を縦に振った。
「あ、ああ…………いい……とも」
「おう、では早速呼んでみてもいいか?」
「う、うむ……」
「おおう、ではゆくぞ。兄貴―!」
「兄貴―!」
アドンとサムソンが同時に叫び、ガゼフにしっかと抱きついた。
彼らをして不安であったのだ。この見知らぬ地において、信用できる筋肉を持つ者すらいない状況に。だが、彼らはここでついに信頼のおける筋肉の持ち主と巡り合えたのである。
この地においても兄貴と呼ぶ事の出来る人物と邂逅できたことに、彼らは運命の男神に感謝し、男泣きに泣いた。
だが、たくましい男二人にしがみつかれている、当のガゼフは気色の悪さに身を固くしていた。
ガゼフは長年戦士として暮らしてきた。戦士たちの中にはそういう趣味の者もたまにいる。だが、あいにくとガゼフはそういう趣味など持ち合わせていない。未だ独身ではあるが、それは色々と巡り合わせが悪かっただけで、普通に女性が好きである。男に抱きつかれても、まったく嬉しくはない。
だが、彼らを
ガゼフの見立てによれば、彼らはその外見通り、かなりの強さを持っているようだ。彼らの力を借りることが出来れば、この難局を乗り切れるかもしれない。
その為には、ここは我慢せねば……。
――俺は王の剣。俺の忠誠は王にささげた。陛下の為になると思えば、男に抱きつかれるなど、どうという事は……。
必死の思いで嫌悪感を抑え込むガゼフの姿を、彼の部下やカルネ村の村人たちは生暖かい目で見つめていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「各員傾聴。獲物は檻に入った。後はゆっくりと絞め殺せば良い。作戦を開始せよ」
ガゼフを追ってきた陽光聖典の隊長ニグンは部下たちに指示を出した。
ついに、ついに王国戦士長ガゼフ・ストロノーフを仕留める機会がやって来た。
あの者を誘い出す、ただそれだけの為にいかほどの村を壊滅させなければならなかったか。そして、その間、ずっと誰にも気づかれぬよう隠密行動をしつつ機会をうかがい続けることが、表立って戦い敵を殲滅することが主任務である陽光聖典として、どれほど困難であったか。
だが、ついに苦労は報われる時が来た。
ガゼフとその部下たちはあの村の中だ。
周囲はすでに囲んであり、この網を抜けて逃げ出すことは不可能。
それにガゼフが、いかに剣の腕がたつとも、あくまで戦士でしかない。用意周到に準備された
今回の任務には
疲労を無くす効果のある、王国の秘宝を装備していたら問題であったが、そちらに関しては王国貴族に手を廻してある。今回の派遣に関しては、王国の秘宝の持ち出しは許可されず、取り上げられた状態で出陣していることは確認済みである。
もはや、何ら恐れることは無い。
ニグンは作戦の成功を予期し、笑みを浮かべて、上空に待機する
その時、奇妙なものが目に入った。
「ん? なんだ?」
まるでたくましい肉体の男が。
「そんなこと、ある訳が……」
つぶやきつつ、遠くに目を凝らすニグン。
次の瞬間、空から放たれた光線が、彼の身体を吹き飛ばした。
胸元にしまい込んでいた切り札を使う機会すらもなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
いま降り注いだ光線。
それははるか上空から、アドンとサムソンが放ったメンズビームである。
彼らは宇宙空間だろうが大気圏内だろうが自在に飛行でき、その頭頂部に空いた穴からビームを放つことが出来るのである。
なぜ、そのような芸当が出来るかというと、通常ボディビルダーのような筋肉を鍛える際には、激しいトレーニングでその部位を追い込んだのち1、2日程度休息した方がいいとされている。筋肉というものは激しいトレーニングで一度壊れ、それをおよそ48~72時間かけて修復する。そして、その際に筋肉が増量していくのだ。その為、一つの箇所の筋トレは一度やったら2、3日は空けるローテーションを組むのが良い。
つまり、そういう事である。
そうして、アドンとサムソンが放つビームによって、法国の特殊部隊である陽光聖典達が瞬く間に壊滅していった。
その様子を家の中から見ていた面々の心の中には、何とも言えないものが生まれていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そして、ガゼフ・ストロノーフ率いる戦士団は一人の欠員も出さずに王都に帰還することが出来た。
しかも、アドンとサムソンが捕まえた、帝国騎士に扮していた法国兵たちを生きたまま連れてである。
王都に帰る際にアドンとサムソンもついてくるかと思ったが、予想に反し、彼らは一旦この村に留まると決めた。
この村の人間はあまりにも筋肉が足りない。彼らが少しでも鍛え上げる方法を教えてからと思ったためだ。
ガゼフは彼らに王都に来たら歓迎する旨を告げた。
実際、彼らのおかげで部下たちに被害も出さずに、任務を完了することが出来たのだから。
アドンとサムソンは後で王都に行くことを約束し、その際にはガゼフの家にお泊りするということにたいそう喜んだ。
不用意な発言だったと頬を引きつらせながらもガゼフは村を後にした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なんなんだ、こいつら……」
一部始終をナザリック地下大墳墓から〈
〈
『誰かが困っていたら、助けるのは当たり前』
その言葉を胸に、とりあえず騎士に襲われていた少女2人の下に行こうとしたところ、突然、彼女らの前に奇妙な筋肉男が2人現れたのだ。
それには骸骨の顎が外れそうなほど驚いた。
呆気にとられた。
そして、モモンガが助けに入る前に、瞬く間に騎士たちを退治してしまったのである。
その後、一体どうなるんだろうと見守っていたところ、何やら騎兵みたいなのが村にやって来たかと思うと、今度は魔法使いのような連中が村を包囲するように現れた。そして、そいつらを空へと舞い上がったボディビルダー2人の頭から放たれたビームがあっという間に薙ぎ払ったのである。
正直、展開の不思議さについていけなかった。
自分が見ていた光景を上手くかみ砕くことが出来ずにいたモモンガは、ふと傍らで一緒にその光景を目にしていたセバスに意見を求めてみた。
「セバスよ。こいつらをどう思う?」
「はい。そうですな。筋肉の量ではさすがに負けますが、質では負けている気はございません」
セバスの答えに、思わず「えっ……」という言葉を漏らして、その姿を見返す。
その老人の肉体は執事服に包まれてはいるが、確かにその内は引き締まっているのが見て取れる。
脱いでも凄そうである。
普段の服を脱ぎ捨て、ブーメランパンツ一丁を身に着けて、その引き締まった体でポージングをするセバスとデミウルゴスの姿がモモンガの脳裏に浮かび、慌てて頭を振るって、その想像を追い払う。
「ま、まあ、あんなのがうろついていたのでは、あまり外に活動を広げるのも危険か。隠密方向での情報収集をメインにして、どこかに万が一の際に使えるナザリックの偽装拠点を作ることを最優先にしておくか」
出来るだけあいつらと関わり合いになりたくないなと考え、モモンガは今後のナザリックの活動方針をそう定めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
さて、カルネ村に残されたのはアドンとサムソン、そして村人達である。
翌日から早速、村人たちの筋肉を鍛えるための様々な器具を作成することにした。
ほどなくして即席ながらも、各種器具を作り上げ、彼らは村人たちに使い方を説明する。
村人たちもまた二度と先のような蹂躙はさせまいと、真剣になって取り組んでいる。ふざけた気持ちでのぞんでいる者はいない。
そんな彼らの様子を満足そうに眺めつつも、アドンとサムソンは渋い顔をした。
「それにしても困ったものだな、アドン」
「うむ、サムソンよ。まさかプロテインすらないとはな」
彼らの目下の悩みは、この村にプロテインがない事である。
たまに勘違いしている者もいるが、プロテインとはたんぱく質の事であり、一般に言うプロテインとは消化吸収がしやすいよう調整された栄養補助のサプリメントである。飲んだらそれだけでムキムキになる筋肉増強剤などではない。筋肉がたんぱく質を欲しがっているときにスムーズに栄養を届けることが出来るため、筋肉を育てるのに効果的なのである。トレーニングの前後、特にトレーニング直後の30分の間に摂取するのが最良とされている。
だが、それがこの村には存在しない。
なら、大きな町に行けばあるのかと思ったが、近隣の大都市に行ったことのある者の話でも、そんなものは聞いたこともないという。
「未開の地だと思ってはいたが、これほどまでとはな……」
彼らの基準で言えば、文明が起こってまずやる事は良質の筋肉を育てるためのプロテインづくりである。だが、この地においてはなぜだかプロテイン作成は置き去りのまま、文明が進んでしまったようだ。なぜそんなに文明がゆがんでしまったのかと考えてみると、魔法とかいう不可思議なものがあるせいかと思い当たった。
しかし、とにかく無いものは無いのである。
2人は気を切り替えた。
ことわざにも『筋肉がないことを嘆いている時間があったら、一回でもトレーニングせよ』とあるではないか。
そこで、2人は別のアプローチに思考を巡らせた。
やはり、一番に改善しなければいけないのは食である。
カルネ村の住人達の食事を見た場合、全般的にたんぱく質が足りない。カロリーすらもギリギリである。摂取カロリーが少ないと、栄養が筋肉まで十分に回らないのだ。『カロリー足りて、筋肉を知る』のことわざ通り、まずは十分な食料の確保を図るべきだろう。
そこで、付近の森での狩猟を提案してみたのであるが――。
「それはちょっと難しいです」
尋ねられたエンリはそう答えた。
なんでも彼女の話によると、カルネ村近郊の森は『森の賢王』という強大な魔獣の縄張りであり、あまり深くまで行くとその魔獣に攻撃される恐れがある。その為、狩猟や薬草採取は森の端のみでこっそりと行うのだとか。
「それだな、アドン」
「うむ、サムソン。つまりは『森の賢王』さえ倒してしまえば、自由に森で狩りが出来るという事ではないか」
そう判断した2人は、『森の賢王』が死んだら森から
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
すぴゃー、すぴゃーと鼻息をたてながら、トブの大森林の主『森の賢王』は自分のねぐらで眠りについていた。
この付近には自分に
それゆえ、誰
「むにゃむにゃ、もう食べられないでござるよ」
とてもベタな寝言を言うくらい、彼――彼女は気を抜いていた。
その時、轟音が響いた。
まるで火山でも噴火したかの如く、地の底が、そして空気が震えた。
「な、なんでござるかー!」
『森の賢王』は慌てて飛び起き、混乱したまま、森の中を走り抜けた。
すると、その前方に空から2人の人間が舞い降りた。
突然現れた闖入者に、駆けていたその足を止める。
「一つ聞くが、お前が『森の賢王』か?」
「む? そうでござるが、お主らは何者でござるか?」
問われた2人は見事なまでのポージングとともに名乗った。
『森の賢王』を探しに出かけた二人であったが、上空からではそれらしき獣は見つからなかった。
そこで、2人は策を講じた。
俗にガッチン漁法とよばれる狩猟方法がある。川の中で魚が潜んでいそうな石の上に、別の石を叩きつけ、水を伝わる衝撃で魚を気絶させるというやり方である。彼らはそれを真似た。数十メートルはあるであろう巨大な岩を上空まで抱え上げ、それを大地めがけて叩きつけたのである。その衝撃は森の中、広範囲に伝わり、こうして『森の賢王』を巣穴から飛び出させることに成功させた。そして、明らかに他とは異なる外見の獣に当たりをつけ、こうして目の前に姿を現したのだ。
ちなみに彼らがやったその行為によって、森の一部では洞窟が崩れ、中にいたトロール達が生き埋めになって死んだのであるが、それはとりあえず関係ない。
森の中で対峙する二組。
すると、ふいに人間2人が腰を折り頭を下げた。
人間たちは謝罪するときにそのような姿勢をとるという事は、『森の賢王』も知っている。
さては自分の勇ましい姿を見て、騒がせたことを詫びる気になったのだろうかと考えていると、2人の頭頂部から発せられたメンズビームが『森の賢王』の身体を直撃した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「うむ、獲って来たぞ」
そう言い、手にした巨獣を地に放るアドン。エンリには二人の見分けがつかないため、もしかしたらサムソンの方だったかもしれない。
とにかく、エンリは目を丸くした。
目の前には見たこともない恐ろしい巨大な獣の死体。これが『森の賢王』なのだろうか? もし、そうだとすると、『森の賢王』がいなくなった今、トブの大森林から現れる
エンリは小さなその身に震えを覚えた。
だが、そんなエンリの胸中など知る由もなく、アドンとサムソンは声をかけた。
「エンリよ、では
「えっ! 私がですか?」
「うむ。このままでは食べられぬであろう。さすがに火を通さなくてはな」
エンリはごくりと喉を鳴らし、家から持ってきた大振りの刃物を手に滑らかな、しかし想像以上に固い毛並みを持つ魔獣の前で立ち尽くしていた。
彼女は戸惑いを隠せなかった。
これまで、たまたま捕まえた兎程度なら捌いたことがあったが、こんな巨大なものを捌くなど初めての行為である。
ちらりと視線を巡らせる彼女の後ろには2人の大男、アドンとサムソン、そしてネムがいる。
その妹の顔を見て、エンリは決意を固めた。
父も母も先の襲撃で命を落とした。
家族はもうエンリとネム、2人だけである。これからは2人で生きていかなくてはならない。男手はなくても、村の畑仕事は自分たちの手でこなさなくてはならない。
これは、その為の試練なのだ。
巨獣を捌く経験は、狩猟で獲れた獲物の解体に役に立つ。これまで、そのような事はレンジャーのラッチモンしか出来なかったが、エンリもまた出来る様になれば、村に対して大きな貢献となるし、村人たちも彼女たち姉妹を
やせ我慢ながら、しっかりと地面を踏み死骸に近寄る。
地面に横たえられた巨獣、その腹側の首筋に刃先をあて、大きく深呼吸すると――一息に突き立てた。
死んだとはいえ、その体毛は固く、またその下の肉も筋があり、容易に刃が通らない。だが、エンリは全身に力を込めてゆっくりと、奥へ奥へと刃先をねじ込んでいく。
瞬間――。
――世界が変わった。
突然霧が晴れた様に、エンリの視界がクリアになった。
全身に力がみなぎった。
何かが彼女の身体の奥から湧き上がって来た。
手にした刃を引き抜く。それは刺し貫いた時とは異なり、実に呆気なく取り出すことが出来た。
そして、再びその死体に刃を振るう。
先ほどまでとは異なり、まるでバターを切り裂くかの如く、簡単にその身に刃が通る。
自分の身体に起こった突然の変調に驚きながらも、エンリは瞬く間に巨大な雄牛をもはるかに超える巨獣の死骸を解体していった。
なぜ、突然エンリの力が増したかというと、それはレベルアップしたためである。
実はここに運び込まれたとき、まだ『森の賢王』はかろうじて息があったのだ。だが、瀕死の状態であり、その身をわずかに動かすことも出来なかった。そして、死んでいると思ったエンリがその首筋に
はるか高レベルの
その夜、村では宴が開かれた。
『森の賢王』を倒してしまった事に関しては、これからどうなるのかという心配の気持ちもあったが、そもそも村を救ってくれた恩人の2人を責められるはずもない。
それにもはや言っても詮のない事であるし、目の前にあるのはせっかくの肉である。
それも大量の。
カルネ村において肉は希少品である。彼らが口にできるのは、せいぜいが干し肉のかけらをスープに少し混ぜたものであり、たまに猟師が獲物を捕らえたときに少しおすそ分けをもらうくらいである。
こんなにも腹いっぱいの肉を食す機会など今までなかったことだ。
村人たちは不安を抱えながらも、とにかく今はこの肉を食べよう。明日の事は明日になってみなければ分からないという諦めなのか開き直りなのか分からない心持で、焼いた肉に齧りついていた。
そして、村人たちの中でも、
エンリである。
彼女は『森の賢王』に止めをさしたことによる急激なレベルアップ。そして、それによる肉体の変化に対応するために大量の食糧を必要としていた。
火が通ったばかりの巨大な肉塊を両手で掴み、その歯で齧りとる。
彼女の荒々しい食事の様子に他の村人たちは目を丸くしていたが、アドンとサムソンはよく食べることは良い筋肉の成長につながると、ほほえましく眺めていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
鮮やかな朝焼けのはえる朝。
森からは朝もやが流れ、朝露に濡れる新緑は、ワセリンを塗った筋肉のごとく輝いていた。
そんなカルネ村の郊外にアドンとサムソンは立っていた。
「では行くか、アドン」
サムソンはその頭につばのある中折帽をかぶる。
「うむ。準備万端だ、サムソン」
アドンは首のネクタイを締め直した。
彼らはカルネ村を出て行くことにした。
数日の滞在であったが、もうカルネ村の住民たちは彼らがいなくても、立派に筋肉を鍛えることができるだろう。
2人はこの地での新たな兄貴、ガゼフの待つ王都に行くつもりであった。
その為、旅装を整えていたのである。
実は先だって、王都に来る際はそのままの格好ではなく、ちゃんとした服装で来てほしいとガゼフから言われていた。
そこで頭には中折帽、首にはネクタイと紳士の身だしなみを整えたのである。
ちなみに帽子とネクタイの他は、普段通りパンツ一丁である。
彼らの基準からすると、たくましい肉体を隠すことは恥であり、罪なのだ。
そして、彼らはふわりと宙へ浮き上がった。
目指すは王都。
だが、2人とも王都の場所などは知らない。
まあ、その辺は道行く人を見つけるたびに聞きながら旅を続けるつもりである。兄貴であるガゼフの許に行くため王都を目指していると言えばいいだろう。
それに万が一の際にはガゼフに書いてもらった身元を保証する紹介状を示せばいい。それは落とさぬよう、しっかりとパンツの脇に差し込んでいる。
「うむ、では兄貴に会いにいくとしようか、アドン」
「おう、サムソン。そう言えば、兄貴が言っておったが、王都にいるアダマンタイト級冒険者にはものすごい筋肉の持ち主がいるそうだぞ」
「なんと! それは楽しみだな」
「ああ、一体どんな男なんだろうな」
「うむ。兄貴が言うくらいなのだから、実に男らしい者に違いない」
新たな出会いの予感に、大胸筋が一個の生き物であるかのように踊る。
そう語り合いながら、2人は空の彼方へと消えていった。
だが、彼らはまだ知らない。
ガゼフの語った筋肉の持ち主が男らしくはあっても男ではなく、女であることを。
その後、周辺諸国の間で、リ・エスティーゼ王国の王国戦士長ガゼフ・ストロノーフにはおかしな格好と性格の弟が二人いると噂になり、ガゼフはそれに頭を抱えることになる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ま、まさか……エンリなのかい……?」
久しぶりにカルネ村を訪れたンフィーレア。
そんな彼を出迎えたのは、変わり果てた姿となった幼馴染の女の子であった。
「やあ、久しぶりね、ンフィー」
にこやかな笑いと共にモストマスキュラーを決めるエンリ。
その見事なまでの筋肉。
美しく盛り上がった僧帽筋。
はちきれんばかりの上腕筋。
その姿を見た、誰もがほれぼれとする肉体美であった。
その後、エンリはボディビルコンテストで10年の長きにわたって頂点の座に君臨し続け、『覇王』の名をほしいままとする事となる。