都内から電車で1時間ほどのところにある埼玉県三郷(みさと)市は、「日本一の読書のまち」として知られています。
今回お話を伺った三郷市立彦郷(ひこさと)小学校では、全校児童が去年1年間で読んだ本の平均冊数は1人あたり142冊にも上るのだそうで、小学生の平均的な1年間の読書量が約37冊だということを考慮すれば、142冊という数字がいかに突出しているかがよく分かります。
三郷市でここまで読書文化が浸透したのは三郷市に文学的なバックボーンがあったからなのかもしれません。
と言うのは、一般的に読書文化が浸透している国や地域には独自の文学が根付いていると言われていて、例えば、北欧ではカレワラやアンデルセンといった文学が根付いているようなのです。(1)
興味深いことに、万葉集の中に三郷市を舞台とした「葛飾早稲」という恋歌があり、万葉集で詠われたことを示す記念碑が三郷市にある丹後神社の鳥居近くに建っています。
このように文学と関わりの深い三郷市で読書活動が浸透したという事実は非常に興味深いものの、それ以上に注目すべきは三郷市の取り組みでしょう。
データベース化によって児童一人ひとりの読書傾向を先生が理解する
三郷市は平成20年に読書活動を教育重点施策に掲げると、翌年には学校図書館のデータベース化を行い、平成22年には三郷市にある全ての学校でコンピュータ管理システムを整備しました。
前述の三郷市立彦郷小学校の鈴木勉校長によると、データベース化を行うことによって、児童ごとの読書傾向を学校側が把握できるようになり、今どんな本を読んでいるのか、あるいは1ヶ月で何冊の本を読んでいるかなどを的確に把握できると言います。
そしてそれらのデータ資料を担任の先生に配布することで、個別指導を行ったり、時にはオススメの本を推薦することもできるのだそうで、このことに関して鈴木校長は次のように述べていました。
「『本を読みましょう』とクラス全員に向かって訴えても、なかなか効果は期待できません。それよりも、一人ひとりの読書傾向を先生が理解した上で指導すれば、児童の読書意欲も随分と上がってくるんじゃないでしょうか。」
こうしたデータベースの活用だけに留まらず、三郷市の小学校では図書館への導線づくりにも取り組んでいます。
一般的に図書館は広いスペースを必要とするため校舎の端っこに設置される傾向にあり、それは三郷市の小学校も例外ではありません。
校舎の端っこに図書館が設置されているということは、児童たちの学校生活の動線に図書館がないことを意味し、普通に過ごしていたら図書館に足を運ぶ機会がほとんどないと言います。
そこで三郷市が各学校の廊下に本棚やオススメの本を紹介する「ブックストリート」を設置するなどして図書館への導線を作ったことで、休み時間にも図書館を利用する児童が増えたのです。
一方で、彦郷小学校では児童の読書量が増えるに従って、自分が好きな本ばかりを読むなど、児童たちの読書傾向が偏るようになったため、その対策として「読書ビンゴ」を導入しました。
この読書ビンゴと言うのは、読んだ本のジャンルごとにビンゴを埋めていくというもので、児童たちはこのビンゴを埋める過程で、児童が本来ならば自ら手を伸ばさなかったであろう未知のジャンルの本を読むことになるのだそうです。
さらに、彦郷小学校では他の児童に本を紹介する「ビブリオバトル」も導入していて、これは自分が読んだ本を3分間でプレゼンし、誰の本を一番読みたくなったかを投票し、チャンプ本を決めるものだと言います。
本を他の児童に紹介するには、まず自分がしっかりと本を読み込み、どのように本を紹介するかといった思考を巡らすことになるため、より質の高い読書体験になると鈴木校長は語っていました。
本を読む一番の理由は言葉を知ること「知っている言葉が増えれば、自分のことも相手のこともよく分かる」
三郷市が行う読書活動は非常に注目を浴びているものの、これは裏を返せば、本を読むという行為がそれだけ現代社会で廃れてきていることを意味します。
事実、ある調査によれば、日本人の平均読書量は1ヶ月あたり2冊程度、さらに全体の約4割の人は1ヶ月あたりの読書量が0冊であり、三郷市とは対照的に全国的な読書量は減少傾向にあるようです。
しかし、そんな日本もかつては世界屈指の読書大国だったと言われていました。
実際に明治期に日本に滞在していたロシアの革命家・メーチニコフは、「日本の人力車夫や茶屋の娘は暇を見つけては本を読んでいる」と回想記に記していたと言われています。(2)
日本人がよく本を読んでいたのは、江戸後期に出版が全国で盛んになったことに加えて、読み書きを中心に教える寺子屋が普及したことによって識字率が大きく向上したことが背景にあるのでしょう。
また明治大学文学部の齋藤孝教授は、日本には聖書のような絶対的な一冊がなかったことも多読の要因に挙げていて、聖書のような本があればそれだけを読んでいれば良いものの、そういった本がなかった日本では可能な限りたくさんの本を読んで、価値観や倫理観を吸収する必要があったと分析しています。(3)
そういった意味では、日本人は本を読むことで養った倫理観や価値観をもとに社会活動を営んできたということになるのですから、読書活動が失われることで社会に歪みが生まれると考えることができるのではないでしょうか。
三郷市立北部図書館の深掘敬治館長にお話をお聞きしたところ、本を読まなくなることによる最も大きな損失は語彙力を広げることができないことだとして次のように述べていました。
「豊富な語彙力が無ければ自分の感情を適切に言語化できません。言葉を知らなければ『ムカつく』といった単純な言葉でしか自分の感情を説明することができず、それが結果的にフラストレーションになるのかもしれませんね。」
前述した三郷市立彦郷小学校の鈴木校長も同様に、本を読まなくなることでコミュニケーションの質が低下してきていると指摘しており、イジメや引きこもりなど、現代の社会問題と読書不足は決して無関係ではないと述べていました。
と言うのも、人は言葉で思考する生き物であるため、知っている言葉が多ければ多いほどより正確に自分の感情を言語化して自身を納得させたり、あるいは相手に自分の考えを的確に伝達することができるでしょう。
そう考えれば、読書が人間関係を円滑にするという考え方は理にかなっているように感じます。
三郷市の読書推進計画の中に「読書活動を通して人と人とを結ぶ」と記されていますが、その成果を実際に学校の中で目にすることができます。
彦郷小学校の校舎を案内して頂いた際に、校舎の至るところに手作りの装飾が施されており、鈴木校長によると、これらの装飾はすべて児童の保護者や、本の著者が小学校に寄与したものなのだそうです。
こうした様子を見ていると、三郷市の中で本を通して人と人とが繋がっていく様子を感じずにはいられません。
人口約14万人の読書のまち、埼玉県三郷市。イジメから家庭問題まで、あらゆる社会問題の解決策はもしかするとこの街に秘められているのかもしれません。
【取材協力】