読書人紙面掲載 特集
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――あなたは『なぜ世界は存在しないのか』の冒頭で、この書物で語られている哲学の二つの基本思想として、〈世界は存在しない〉という〈無世界観〉と〈新しい実在論〉である〈意味の場の存在論〉とを挙げています。私自身の理解では、この二つの基本思想は本書の二つの柱というだけではなく、内容からみても相補的なもので、どちらか一方だけに注目し、どちらか一方を考慮しないことは、あなたの思想を誤解することに繋がるのではないかと思われます。
ところがこの点が日本ではまだ十分に理解されていないところがあって、どちらか一方のみが論じられる傾向があるようです。そこであらためて著者であるあなたご自身から、この二つの基本思想がどのような関係にあるのかご説明いただけませんでしょうか。
M・G 最初に、これは非常に正しい観察だと私も思っています。私の著書の中には二つの主張のラインがあって、両方とも同じ目的に向かっています。
第一は事実性に基づく論証です。これが示すのは、実在論とは一般的に真であるにちがいないということです。考えうる対象のすべてが誤謬の対象にもなりうるということです。従って一般的な実在論というものが成り立ちます。これは中立的な実在論とも言うことができます。
もう一つのテーゼは、存在論的多元論で、これは存在の定義からの帰結です。世界は存在しないということは論理的な必然性から成り立っていて、これ自体は間違っているかもしれないテーゼとして提起されています。つまり、世界は存在しないということには論理的な必然性があるのですが、すべての人間がそれを知っているということには論理的な必然性はない。このテーゼ自体が実在論的なテーゼなのです。〈新しい実在論〉というのは、ただ単に世界についての一つのテーゼではなく、現実というものについて思考しうるということについてのテーゼです。従って、その〈無世界観〉と〈新しい実在論〉とは繋がっているということです。多くの人々はそれをちゃんと理解していません。マウリツィオ・フェラーリス(伊、一九五六年~)はその一例です。カンタン・メイヤスー(仏、一九六七年~)も、ポール・ボゴシアン(米、一九五七年~)もまたそうです。彼らはみな自身を実在論者だと思っているのですが、そのさい同時に世界概念そのものを切り捨てないでいられると考えているようです。
東京に来るまえにミュンヘンで会議があったのですが、そこにフェラーリスやボゴシアン、ほかにもさまざまな研究者の方々が参加されていました。そのときに直接ボゴシアンに、世界が存在しているということをいかに論証できるのか、とたずねたのですが、彼はそのテーゼを成り立たせるための論拠は持っていませんでした。ただの盲目的な主張に過ぎなかったのです。私は気づいたのですが、日本においては〈無世界観〉がポストモダン思想と両立するというふうに思われている方々がいらっしゃるようです。でもそれは間違っています。なぜならその〈無世界観〉がそもそも提起されている論拠として実在論というものがあるからです。
――今あなたが述べられた二つの基本思想ですが、それぞれが批判的機能を持っていて、〈無世界観〉の方は自然科学的世界像に対する批判の、もう一つの〈意味の場の存在論〉は〈構築主義〉に対する批判の役割を担っています。ここでは後者の〈構築主義〉について質問したいと思います。あなたの意見では、ポストモダンは伝統的な西洋の形而上学を批判しようとしたが、結局構築主義に陥ったとされています。私が注目したいのは、あなたが〈構築主義〉を一種の形而上学だと考えている点です。つまり、ポストモダンは形而上学を批判しようとしながら、自分自身が形而上学になってしまっている。しかしなぜポストモダンは形而上学の批判者であろうとしながら、自らが形而上学に陥ってしまったのでしょうか。一体ポストモダンの何が問題だったのか、何が間違っていたのか、それについてご意見をお聞かせ下さい。
M・G ポストモダンのいわば原罪、一番基本的な過ちはひと言で言えば、マルティン・ハイデガー(独、一八八九年~一九七六年)です。ハイデガー、そしてジャック・デリダ(仏、一九三〇年~二〇〇四年)は、西洋形而上学からの抜け道を探っていた。彼らのアイデアは人間の活動性の分析によって、形而上学からの抜け道が見つけられるのではないかということでした。すなわち現前性の代わりに活動性が登場してきます。これはつまり人間による営みが現実に代わって中心になってくるということです。こうして気づかぬうちに自ら現実を構築するということになります。このような構築された現実は、構築主義そのものです。ハイデガーそしてデリダは、〈見出すこと〉と〈作ること〉の差異を一応は認めているのです。しかし、形而上学というのはすべてのものを見出すのだという、そういう考え方が彼らの立場だった。そのような主張をいわば逆転させるかのように彼らは、私たちはすべてのものを作っているのだと言っているわけです。これはつまり、アメリカのプラグマティズムとも対応しているのではないか。そのために、リチャード・ローティー(米、一九三一年~二〇〇七年)とデリダがいわばポストモダンの頂点になっている。そしてドイツでは、ユルゲン・ハーバーマス(独、一九二九年~)がそうで、彼も同じ理論に基づいています。
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2018年6月29日
マルクス・ガブリエル来日インタビュー
入門マルクス・ガブリエル
『なぜ世界は存在しないのか』(講談社)(聞き手・解説=浅沼光樹)
この六月、ドイツの俊英なる哲学者・マルクス・ガブリエル氏が来日した。弱冠二十九歳でドイツの名門・ボン大学の哲学科教授に就任、ポストモダン以降の「新しい実在論」の旗手として世界中から注目される哲学者が二〇一三年に刊行した、『なぜ世界は存在しないのか(Warum es die Welt nicht gibt)』は哲学書として異例のベストセラーとなった。日本でも二〇一八年一月に待望の邦訳が刊行され、読者の幅を広げながら好評を博している。来日を機に、マルクス・ガブリエル氏にインタビューを行なった<聞き手=浅沼光樹氏、通訳=セバスチャン・ブロイ氏(東京大学博士課程在籍)>。また、浅沼氏にはマルクス・ガブリエルの著作を読み解くための解説もご寄稿いただいた。 (編集部)
マルクス・ガブリエル氏は、今回の来日で東京・京都の全行程六会場で講演を敢行。インタビューは、講演中盤の六月十四日、東洋大学講演前の控え室で行なわれた。インタビュアーの浅沼光樹氏は、京都大学で研究員と非常勤講師を務めるドイツ観念論(シェリング)の研究者である(『週刊読書人』(二月二日号)で、『『なぜ世界は存在しないのか』の書評を寄稿)。ガブリエル氏は連日の疲れも見せず、終始穏やかな態度で、明晰に力強く取材者の質問に答えた。
マルクス・ガブリエル氏は、今回の来日で東京・京都の全行程六会場で講演を敢行。インタビューは、講演中盤の六月十四日、東洋大学講演前の控え室で行なわれた。インタビュアーの浅沼光樹氏は、京都大学で研究員と非常勤講師を務めるドイツ観念論(シェリング)の研究者である(『週刊読書人』(二月二日号)で、『『なぜ世界は存在しないのか』の書評を寄稿)。ガブリエル氏は連日の疲れも見せず、終始穏やかな態度で、明晰に力強く取材者の質問に答えた。
目 次
第1回
(1)「無世界観」と「新しい実在論」/(2)ポストモダンの原罪/形而上学批判
2018年6月29日
第2回
(3)「近代」についての再評価/(4)精神の哲学と二つの基本思想
2018年6月30日
第3回
(5)西田幾多郎とマルクス・ガブリエル/(6)シェリングの思想とマルクス・ガブリエルの哲学
2018年7月1日
第4回
マルクス・ガブリエルを読むために 解説=浅沼 光樹
2018年7月2日
第1回
(1)「無世界観」と「新しい実在論」
マルクス・ガブリエル氏
――あなたは『なぜ世界は存在しないのか』の冒頭で、この書物で語られている哲学の二つの基本思想として、〈世界は存在しない〉という〈無世界観〉と〈新しい実在論〉である〈意味の場の存在論〉とを挙げています。私自身の理解では、この二つの基本思想は本書の二つの柱というだけではなく、内容からみても相補的なもので、どちらか一方だけに注目し、どちらか一方を考慮しないことは、あなたの思想を誤解することに繋がるのではないかと思われます。
ところがこの点が日本ではまだ十分に理解されていないところがあって、どちらか一方のみが論じられる傾向があるようです。そこであらためて著者であるあなたご自身から、この二つの基本思想がどのような関係にあるのかご説明いただけませんでしょうか。
M・G 最初に、これは非常に正しい観察だと私も思っています。私の著書の中には二つの主張のラインがあって、両方とも同じ目的に向かっています。
第一は事実性に基づく論証です。これが示すのは、実在論とは一般的に真であるにちがいないということです。考えうる対象のすべてが誤謬の対象にもなりうるということです。従って一般的な実在論というものが成り立ちます。これは中立的な実在論とも言うことができます。
もう一つのテーゼは、存在論的多元論で、これは存在の定義からの帰結です。世界は存在しないということは論理的な必然性から成り立っていて、これ自体は間違っているかもしれないテーゼとして提起されています。つまり、世界は存在しないということには論理的な必然性があるのですが、すべての人間がそれを知っているということには論理的な必然性はない。このテーゼ自体が実在論的なテーゼなのです。〈新しい実在論〉というのは、ただ単に世界についての一つのテーゼではなく、現実というものについて思考しうるということについてのテーゼです。従って、その〈無世界観〉と〈新しい実在論〉とは繋がっているということです。多くの人々はそれをちゃんと理解していません。マウリツィオ・フェラーリス(伊、一九五六年~)はその一例です。カンタン・メイヤスー(仏、一九六七年~)も、ポール・ボゴシアン(米、一九五七年~)もまたそうです。彼らはみな自身を実在論者だと思っているのですが、そのさい同時に世界概念そのものを切り捨てないでいられると考えているようです。
東京に来るまえにミュンヘンで会議があったのですが、そこにフェラーリスやボゴシアン、ほかにもさまざまな研究者の方々が参加されていました。そのときに直接ボゴシアンに、世界が存在しているということをいかに論証できるのか、とたずねたのですが、彼はそのテーゼを成り立たせるための論拠は持っていませんでした。ただの盲目的な主張に過ぎなかったのです。私は気づいたのですが、日本においては〈無世界観〉がポストモダン思想と両立するというふうに思われている方々がいらっしゃるようです。でもそれは間違っています。なぜならその〈無世界観〉がそもそも提起されている論拠として実在論というものがあるからです。
(2)ポストモダンの原罪/形而上学批判
――今あなたが述べられた二つの基本思想ですが、それぞれが批判的機能を持っていて、〈無世界観〉の方は自然科学的世界像に対する批判の、もう一つの〈意味の場の存在論〉は〈構築主義〉に対する批判の役割を担っています。ここでは後者の〈構築主義〉について質問したいと思います。あなたの意見では、ポストモダンは伝統的な西洋の形而上学を批判しようとしたが、結局構築主義に陥ったとされています。私が注目したいのは、あなたが〈構築主義〉を一種の形而上学だと考えている点です。つまり、ポストモダンは形而上学を批判しようとしながら、自分自身が形而上学になってしまっている。しかしなぜポストモダンは形而上学の批判者であろうとしながら、自らが形而上学に陥ってしまったのでしょうか。一体ポストモダンの何が問題だったのか、何が間違っていたのか、それについてご意見をお聞かせ下さい。
M・G ポストモダンのいわば原罪、一番基本的な過ちはひと言で言えば、マルティン・ハイデガー(独、一八八九年~一九七六年)です。ハイデガー、そしてジャック・デリダ(仏、一九三〇年~二〇〇四年)は、西洋形而上学からの抜け道を探っていた。彼らのアイデアは人間の活動性の分析によって、形而上学からの抜け道が見つけられるのではないかということでした。すなわち現前性の代わりに活動性が登場してきます。これはつまり人間による営みが現実に代わって中心になってくるということです。こうして気づかぬうちに自ら現実を構築するということになります。このような構築された現実は、構築主義そのものです。ハイデガーそしてデリダは、〈見出すこと〉と〈作ること〉の差異を一応は認めているのです。しかし、形而上学というのはすべてのものを見出すのだという、そういう考え方が彼らの立場だった。そのような主張をいわば逆転させるかのように彼らは、私たちはすべてのものを作っているのだと言っているわけです。これはつまり、アメリカのプラグマティズムとも対応しているのではないか。そのために、リチャード・ローティー(米、一九三一年~二〇〇七年)とデリダがいわばポストモダンの頂点になっている。そしてドイツでは、ユルゲン・ハーバーマス(独、一九二九年~)がそうで、彼も同じ理論に基づいています。
この記事の中でご紹介した本
2018年6月29日 新聞掲載(第3245号)
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