12月5日、合意のない性行為で精神的苦痛を受けたとして、ジャーナリストの伊藤詩織氏が元TBSワシントン支局長である山口敬之氏を相手に、1100万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こした。
この問題については当初、警視庁が山口氏を準強姦容疑で捜査していたが、東京地検により嫌疑不十分で不起訴処分となっていた。
一方で、筆者のもとにはこれと同時に、アメリカでジャーナリストを目指している友人からこんな依頼が舞い込んだ。
「アメリカのジャーナリストビザを取得したいので、手を貸してほしい」
筆者が契約先として机をおく出版社に、自分が所属していることを示す書類を発行してほしいとの依頼であった。
いわく、ビザ取得のための書類として、契約書、推薦書、そして所属先が発行した、顔写真入りIDカードが必須であること。「ジャーナリスト」は自称すれば誰でもなれてしまう上、出版社や放送局に所属していないのにも関わらず、口利きをしてもらいビザ必要書類を得るケースが後を絶たない。アメリカ移民局もそれを知っているため、IDカードがあれば万全だというのだ。
こうしたジャーナリストビザ取得の方法や手順は、日本から取材やロケで渡米するフリーランスには一般的なもので特段稀なケースではないというが、友人の場合、所属はもちろん、契約実態もない状態から依頼してきたため、さすがに驚きを隠せなかったのだ(これについて書くことは、本人にも承諾を得ている)。
そこで、冒頭の事件が思い出されたのである。
妻子ある身で、しかも酩酊している女性に性行為を行ったのは明らかに山口氏側に落ち度がある。だが、その他の点で違和感をおぼえている人が少なくないのも事実である。そもそも、「なぜ二人で会わなければならなかったのか?」という点が明確になっていないからだ。
日本では、就活生が仕事の斡旋をしてもらうために人事権を持つ上層部と二人きりで会うなど、縁故採用以外ありえない。SNSやニュースコメント欄でも多くの人が、その点を指摘していた。
筆者も同様であった。取材対象に正規のルート以外から接近し、懐に入ることはマスコミ人として非常に重要なスキルであるが、それを就職そのものに使うとは、同じ業界で働く女性として好ましからざる印象しかなかったのだ。
しかし今回、筆者自身がある意味で山口氏と同じ立場になり、“伊藤さん事件”がいまいち腑に落ちない背景にはアメリカビザの取得の難しさも少なからず作用していたのではと、認識を若干、改めるようになったのである。
◆食い違う両者の主張で唯一、ブラックボックスになっていない点
そこで、伊藤氏の著書「Black Box」、山口氏が「月刊Hanada」に掲載した手記「私を訴えた伊藤詩織さんへ」を読み比べてみた。
その中では、事件に対する両者の言い分は真っ向から対立している。
《両者の主張》
●性行為に関する合意
伊藤氏:なかった
山口氏:あった
●デートレイプドラッグ
伊藤氏:入れられた。ドラッグを入れられたのと同じ症状が出た
山口氏:席の構造や当時の状況から、入れることは不可能で、店主も証言済み。警察に提出したパソコンからもドラッグ購入歴は出ず
●ホテルに入った経緯
伊藤氏:帰りたいと言ったが、酩酊しているところを担ぎ込まれた
山口氏:防犯カメラの映像では、自分で歩いて部屋までついてきたことが確認
●ノートパソコンで盗撮
伊藤氏:していた
山口氏:そのような機能はなく、警察に提出したパソコンから盗撮映像は出ず
●部屋の中での意識
伊藤氏:なかった
山口氏:終始あった
その他、仔細な食い違いは多いものの、ただひとつ両者の主張で一致し、“ブラックボックス”になっていない部分が伊藤氏が山口氏に就職相談をし、アメリカの就労ビザについて相談しあった点だ。
たとえば、ジャーナリストビザ(「Iビザ」)取得に必要な条件について、駐日アメリカ大使館では以下のように解説している(抜粋)。
・申請者は外国に本社がある報道機関で、ビザ資格に適した活動に従事していること
・また、その費用の出所および配給が米国外であること
・専門的な報道組織が発行する身分証と、有効な雇用契約書
フリーランスの場合も上記とほぼ同様の条件が適用されるが、フリーランスの場合は一層厳しく、中には10年かけて準備してトライしてもダメな例もある。しかも一度却下されると取得のハードルが上がる。だが、一度取得してしまえば5年ごとに日本で更新することで、ずっとアメリカに居続けることができる。そのビザが生きている間は所属先との契約が切れても、その事実がアメリカにばれることはないため、問われることはない。
だからこそ、ビザ取得希望者は冒頭のようにコネをフル活用して頼み込むか、必死になってポジションを得ようとするのである。
さらにトランプ政権となり、ビザ取得は難しさを増した。ロイターでは、2017年1~8月に申請された米就労ビザのうち、8万5000件が突き返され、「追加書類要求(RFE)」が出されていることが米市民権・移民業務局のデータで明らかになったと報じている。
◆事件に横たわる“両者の悲しい誤解”
筆者は、アメリカのジャーナリストビザを取得したことがある報道関係者A氏に、この事件について考察してもらった。
「山口氏クラスのメディア人で、もし採用試験をすっ飛ばせるくらいの権力があればビザは難関でもなんでもない。TBSであれば記者クラブも絡んでくるだろうし、ポジションを確保できればビザはおそらく簡単に取れます。
そして、『海外支局に便宜を図ってやる』という旨を言った以上、申請者のビザスポンサーになる義務も発生します。そのため、口約束であってもビザ発給は必ずセットになります。それは、ワシントン支局長だった山口氏も当然知っていたはず。そもそも就職(派遣先のポジション)が決まってもないのにビザの話なんてしませんしね。
そのため、山口氏が『最大の難関はビザだね』といって伊藤氏を誘ったのであれば、最初から下心があったと思われても仕方ないでしょう」
当時、ニューヨークで苦学していた伊藤氏にとっては山口氏の誘い文句を、千載一遇のチャンスと思ってしまったことは想像に難くない。
「彼女自身も彼に会うことで、将来のプラスになると思ったのは間違いないでしょう。ただ、正規の就職ルートではない以上、グレーであるのは確か。著書で『彼と2人きりで会うことになるとは思わなかった』などと書いているようですが、そんなきわどい話を山口さんのような立場の人が酒場で複数人でするとは考えにくい。その点に関しては伊藤さんも浅慮だった印象を否めません」
「『パンツくらいお土産にさせてよ』
山口氏はなだめるような口調の日本語で、
『君のことが本当に好きになっちゃった』
『早くワシントンに連れて行きたい。君は合格だよ』などと答えた。
私はさらに英語で言った。
『それなら、これから一緒に仕事をしようという人間に、なぜこんなことをするのか』」
(伊藤詩織『Black Box』より)
「これから一緒に仕事をしようという人間に、なぜこんなことをするのか」、このやり取りから見ても、伊藤氏は会うだけですでにTBSワシントン支局への内定を得たと思い込んでいたことがわかる。
一方、山口氏は手記で、「ワシントンでの仕事への強い執着」とし、次のように書いている。 山口氏と伊藤氏の最初の出会いは、伊藤氏が働いていたニューヨークのピアノバー(※女性による接待付きのバー)であることが明らかになっているが、
「私がTBSのワシントン支局長であることを知ると、あなたは途端に、『ジャーナリズムの仕事がしたい』と非常に熱心に訴えました。そして、ニューヨークの日本のテレビ局を紹介してほしいと何度も繰り返しました。」
「その後も、あなたは自分の願望を実現するため、私に繰り返しメールを送りつけています。(中略、複数のメール文例示)『現在絶賛就活中なのですが、もしも現在空いているポジションなどがあったら教えていただきたいです。宜しくお願いします! 東京にお戻りの際はぜひお会いできたらうれしいです』」
(「月刊Hanada」P268~P269より)
大学を卒業したばかりの伊藤氏がテレビ局の大物とコネクションを得て舞い上がってしまったことは十分考えられるし、一方で山口氏は就職斡旋するはずの女性と性行為に及んだ上「パンツくらいお土産にさせてよ」「君のことが好きになっちゃったから合格」などと「オヤジのカン違い」をいかんなく発揮している。
いずれにしろ、多くの人が指摘するように、こうした“両者の悲しいカン違い”が事件の出発点だと言えるのではないか。
◆アメリカビザ取得の困難さが生むインターン地獄
そのほか、日米の就活への認識の違いも、この事件には大きく関わっている。日米の労働事情に詳しいジャーナリストの橋本愛喜氏は次のように話す。
「アメリカの大学生は就活する時間がないほど勉強しているので、卒業見込みとなった時点でようやく就活を始めます。そんな彼らの就活方法の一つが、『コネクション作り』。アメリカではむしろ、コネの広さや深さは、その人の能力だと評価されているんです」
若者がコネクションを最大限に駆使してポジションを得たり渡り歩くのはアメリカでは珍しいことではなく、終身雇用もない分、アメリカではむしろ奨励されるという。だが、橋本氏はこのようにも指摘する。
「ただし、万が一何事もなくテレビの海外支局に入れたとしても、むしろそこからが彼女の試練になった気がします。インターンしか経験のない人がエリートだらけの海外支局にポンと入れるのは異例中の異例なので、おそらく現地支局の直接採用という形になるかと思いますが、周囲から『裏口の人』という目で見られるのは避けられなかったでしょう」(橋本氏)
アメリカにおいて、何の後ろ盾もないところからポジションを得て、さらにビザを獲得するには、こうした「肉を切らせて骨を断つ」荒技が不可欠なのだろう。筆者自身も、友人の要請を受けなければ事件についてこのように深く考察することはなかったかもしれない。
そして、前出のA氏はこうした事情を悪用する日系企業も多いと話す。
「アメリカには多くの日系新聞社があり、当然といえば当然なのですが彼らはビザを持っていないライターは使いません。ビザスポンサーには、日本に本社があることが条件なので原則的になれない。で、人手不足にどう対処するかというと、『最先端の街ニューヨークでライティングや編集を学べる!』といったことを誘い文句に、日本から無給のインターンを募集するんです。それで、ただニューヨークに憧れるだけの新卒の若者が大金を携えて渡米しては、使い捨てられていくんです」
若者の夢に立ちはだかる“罠”には、十分気をつけてもらいたいところだ。
【安宿緑】
編集者、ライター。心理学的ニュース分析プロジェクト「Newsophia」(現在プレスタート)メンバーとして、主に朝鮮半島セクションを担当。個人ブログ