戦慄(せんりつ)すべき事故が、沖縄で、同じ年の同じ月に相次いで起こっていた。驚愕(きょうがく)の事実と言うべきかもしれない。

 1959年6月19日、当時米軍が使用していた那覇基地で、訓練の最中、核弾頭を装着したナイキミサイルのブースターが突然点火し、水平に発射され、海に落ちた。

 兵士1人が事故に巻き込まれ死亡したという。

 本紙も事故の翌日、「ミサイル発射寸前に発火」と報じているが、核弾頭搭載には一切触れていない。

 その事実が明らかになったのは、昨年9月に放送されたNHKスペシャル「スクープドキュメント 沖縄と核」によって、である。

 59年6月30日、旧石川市(現うるま市石川)の宮森小学校に嘉手納基地所属のF100Dジェット戦闘機が墜落したのは、那覇基地でのナイキ事故から12日目のことである。

 児童12人(うち1人は後遺症で死亡)、住民6人の計18人が死亡し、210人が重軽傷を負った。

 パイロットは墜落直前にパラシュートで脱出し、無事だった。事故は米軍統治下の住民に計り知れない衝撃を与えた。事故がきっかけになって、その後の人生が変わったという人が少なくない。

 事故からわずか2年後の61年12月7日には、米軍機が旧具志川村川崎(現うるま市川崎)に墜落し、住民2人が死亡、6人が負傷している。

 宮森小米軍機墜落事故から今年で59年。あれから何が変わったのだろうか。

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 過ぎ去った過去を振り返るのは、米軍事故が決して過去の話にとどまらないからである。施政権返還から46年経っても住民は今なお、変わらない現実に直面している。それが問題だ。

 県基地対策課のまとめによると、復帰後の米軍航空機関連事故は738件に達する。 固定翼機の墜落29件、ヘリコプター等の墜落18件。部品などの落下事故は固定翼機とヘリを合わせ68件にのぼる(2017年12月末現在)。

 普天間第二小学校は昨年12月13日、CH53E大型ヘリの窓(重さ7・7キロ)が運動場に落下するという「あわや」の事故に見舞われた。

 運動場使用を再開した2月から6月までの間に体育の授業などを中断して避難した回数は優に500回を超える。

 いくら何でも、この現実はあんまりだ。事態が改善されていないとすれば、これまでの取り組みが日米両政府を動かすまでに至っていないからではないのか。

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 米軍がらみの事件事故が発生するたびに県や市町村、自治体議会は、何度も抗議決議を可決し、政府や米軍に要請を繰り返してきた。

 これまでの対応がパターン化しているのは否めない。抗議決議や要請が一過性だと、政府の対応もその場しのぎになりがちだ。

 沖縄の「いびつな現実」は、全国で共有されることなく沖縄に押し込められつつある。実効性のある新たな質を備えた取り組みが欠かせない。自治体や議会、政党のいっそうの奮起を促したい。