コラムというのかエッセイというのかわからないが、ちょっと長いのでエッセイと言うべきか。
文才のない俺の文章で読みづらいかもしれないが、暇なときにでも読んで頂きたい。
今から12年前の2005年。
これは実際に俺が体験した話だ。
俺は長くダーティーな仕事をしていた。
俺の活動拠点はフィリピンだったが、ある時ある人物からの依頼でインドネシアのジャカルタへ行くことになった。
それまでインドネシアへは行ったこともなく、インドネシアに対しての知識といえば「世界最大のイスラム国家」というくらいだった。
インドネシアについてはこの人物。ということで、広島では「顔利き」と言われる人物(仮にA氏としておく)に、インドネシアでの現地の仕事の手配を依頼した。
A氏は先にインドネシアに立ち、ジャカルタの空港へ迎えの者をやるということだった。
関西空港からガルーダ航空でバリ島のデンパサール空港へ飛び、そこでトランジット、そこからジャカルタへ飛んだ。
ジャカルタの空港内で、これから入国手続きという時に、ひとりの男が俺に声をかけた。
「〇〇(俺のこと)さんですか?」
日本語の上手なインドネシア人の男だった。
「A社長からの依頼で迎えにきました」
この男は俺にパスポートを貸してくれと言って、ここから出てくださいと通路を案内してくれた。
通路を抜けるともう空港の外だった。
俺はジャカルタ空港のイミグレーションで、入国審査も受けずに空港の外へ出た。
A氏が「〇〇(俺のこと)さん、フィリピンも何でもアリの国ですけど、インドネシアも何でもアリの国ですよ」と言っていたのを思い出し、「なるほど、何でもアリやな」と苦笑した。
ほどなく先ほどの男がやってきて「入国審査はしておきました」と言って俺にパスポートを返してくれた。
もちろん入国スタンプとビザのシールが貼ってあった。
このインドネシア人の男はA氏のインドネシア側のスタッフで、高級車を運転して俺をジャカルタ市内まで運んでくれた。
ジャカルタ市内まで案外遠く、随分長い間車に乗っていたように記憶している。
男が「A社長が待っています」という店に案内された。
そこは天井の高い大きなディスコだった。
店内は若者でごった返していた。
お立ち台では数人のタイ人女性がミニスカートで踊っていた。
イスラム教の国ということで、若干の堅苦しさを覚悟してい俺は、そのギャップに驚いた。
店内の壁際にある長い階段を上っていくと、VIPルームに案内された。
部屋は広く、畳でいえば30畳くらいはあったろうか。
バカでかいソファーにA氏と、A氏のスタッフ数人が座って待っていた。
お疲れ様、乾杯のあとA氏が「女の子に躍らせましょか」との合図で4人のインドネシア女性が素裸で入ってきて、部屋の中で踊りだす。
俺がイスラム教国の認識を変えた瞬間だった。
同席していたA氏の知り合いで、インドネシア人の女社長によると「インドネシアでイスラムの教えをちゃんと守っているのは20%くらい」とのことだった。
そこがお開きになり、ホテルまで送ってもらった。
ジャカルタのホテル日航だった。
大きな道路を挟んで斜め向かいに日本大使館があった。
余談だらけになるが、このJALホテルの地下の日本料理店は、入店と同時に着物を着た若いインドネシア女性を一人指名し、その女性が終始お酒の酌をしてくれる、なんともうれしい店だった。
翌日の夜もA氏は俺をジャカルタ市内へ飲みに連れて行ってくれた。
場所はブロックMという地区。
現地在住の日本人達が集まる地区ということで、居酒屋、焼き鳥屋、カラオケスナック、ナイトクラブなどが100軒ほどが集中している飲み屋街だった。
一軒のナイトクラブに入った。
ここのホステスは全員お持ち帰りOKの店。
しかし深夜12時前ということで、早々に店は閉店となった。
聞くと、インドネシアではイスラムの法律によって、このような飲食店は12時を越えての営業はできないそうだ。
A氏は「次行きましょう」ということで、ブロックMとは別の場所へ車で向かった。
そこはとにかくバカでかいビルで、ビル全体が一軒のナイトクラブであり、ソープランドでもあった。
A氏曰く、ここは中国人の経営で、24時間営業なのだという。
中国人は政府や役人への賄賂で、この手の店は法律など関係なく営業してるという。
俺はこの時に思った。
日本人はその国の法律を忠実に守り、摩擦も起こさず、波風立てずに生きるように努力する。
12時閉店という法律もきっちりと守る。
しかし中国人は、その国の法律さえもカネでなんとかする。
「こりゃあ日本人は中国人には勝てへんな….」
もちろんこれは俺がよく知っているフィリピンにも当てはまるのだが。
さて、このバカでかいビルだが、入ってエスカレーターを上っていくと、そこに大きなフロアーがあり、ロシア人女性のグループ、中国人女性のグループ、タイ人女性のグループなどが屯していた。
またこれも広いVIPルームに案内され、ソファーにつくと、まずはロシア人女性のグループ10数人が入ってくる。
これが日本のロシアンパブで働くホステスとは比べものにならないほどの、まるでモデルのような美人ぞろい。
もちろん次に入ってきた10数人の中国人女性もタイ人女性のグループも美人ぞろいだった。
客はこの中から一人、別に二人でも三人でも構わないが指名して、横に座らせる。
この瞬間からこの後の別室でもサービスも付いているという。
ま、この後のことは書かないが…
次の日、俺はA氏とは別行動で自分の依頼の仕事に向かった。
その事務所はジャカルタ市内の静かな住宅地の中にあった。
先方では、インドネシア語のできない俺のために、男性の通訳を用意してくれていた。
通訳の仕事を専門にしているのではなく、彼はこの会社のスタッフということだった。
彼の身長は160センチくらいだろうか、小柄で色黒、丸顔、目がクリッと大きな、なんとも愛嬌のある顔だった。
「名前は?」と俺が聞くと。
「イシマルであります」
「歳は?」
「25歳であります」
彼は日本語が本当に上手で、アクセントもなんら違和感がなかった。
但し、何を尋ねても「〇〇〇〇であります!」と、まるで軍隊コントのように背筋を伸ばして答えるのだ。
これが可笑しくてて堪らなかった。
「日本へ行ったことがあるの?」
「いえ、行ったことはありません」
「日本語がむちゃくちゃ上手いけど、誰に教わったの?」
「私の祖父は日本軍人であります!」
俺はこの時、はっとなった。
多くの方はご存知だと思うが、ご存知ない方のために説明する。
インドネシアは大東亜戦争まではオランダの植民地だった。
戦争で日本は、インドネシアからオランダを追い出した。
しかし敗戦により、インドネシアでも日本軍兵士は日本への帰還を命じられた。
日本軍がいなくなった後、オランダがもう一度占領するために戻ってくることは容易に想像できる。
多くの日本軍人は、インドネシア人のために武器を置いて日本へ戻った。
それだけではなく、約2000人の日本人兵士が日本に帰還せず、やがて戻ってくるであろうオランダと戦うためにインドネシアに残った。
案の定、戻ってきたオランダ軍との戦いで、多くのインドネシア人兵士も亡くなったが、義勇兵として残った日本人兵士も2000人中1000人が亡くなったと言われている。
この義勇兵として戦死した日本人兵士たちは、インドネシア国立墓地の「英雄の墓」に奉られている。
※参考画像
西村幸祐氏のツイートから引用
※参考動画
インドネシアの独立記念日に日本の軍歌を歌ってパレードするインドネシアの老人たち。
知られざる日本・インドネシア交流秘話~独立のために戦った日本人 Part2[桜H26/9/18]
この義勇兵として残った日本兵士の中で、幸い命を落とさず、そのままインドネシアで余生を過ごした方たちがいると聞いていた。
このイシマル君の祖父もその一人だったのだ。
「イシマル」はたぶん「石丸」だろうと俺は推測している。
インドネシアに残った日本人兵士の中で「石丸」という方がいたかを調べる術は俺にはないが、俺の記憶でははっきりと「イシマル」と聞いた。
彼のお爺さんは、この石丸君に、小さいときから日本語を教えていたのだろう。
それはちょっと悪戯心なのか、それともそれが正しい日本語として教えたのかはわからないが、軍隊での受け答えをそのまま教えこまれていたようだ。
と同時に、いかにこの石丸君を可愛がって育てのかが、彼の言葉遣いや所作によって伺い知れた。
俺は少ししんみりとして彼を見た。
そして「君のおじいさんは、俺たち日本人にとっての英雄だ」と彼に言った。
すると石丸君は、これほどの嬉しそうな顔はあるのか、というくらいの顔で喜んだ。
「君のおじいさんはまだご健在?」
「いえ、亡くなりました」
この時、何年前に亡くなったと言ったと思うが、よく覚えていない。
今でも思い出すとき、なぜあの時、石丸君の祖父の墓にお参りしなかったのかを悔やまれてしかたがない。
今から12年前のことだから、石丸君は、今は37歳か38歳だろう。
彼は今もインドネシアで日本語を喋る時は軍人言葉を使っているのだろうか。
そう思うとき、いつも顔がほころんでしまう。
アノニマス ポスト 管理人