2018年06月30日

渡部直己氏の問題と教育と批評

渡部直己氏のセクハラ問題の推移を見て、思うところがいろいろと出てきた。他にすべきことがたくさんあるが、頭がすっきりしないので書こうと思う。数年前に群像新人文学賞(評論部門)の優秀作をもらったものの、ろくに第1作も発表できずにいる僕は、自分としては「文壇」のプレイヤーとはほど遠いと思っているが、その一方で、「新人小説月評」を担当したり、定期的に書評を書かせてもらったりしているので、はたから見たら「文壇」のプレイヤーなのかもしれない。渡部氏とは面識があって、一緒に呑んだこともある(向こうは覚えているかわからない。名前くらいは認識していると思うけど)。あとは、『すばる』(2016年2月号)の批評特集内記事「近代日本の文芸批評を知るための40冊」で『不敬文学論序説』を紹介したことがある。文芸批評に携わる者としてはそのような立場から、加えて、中等教育の現場で働く教育関係者の立場から、自分の考えを表明しておきたい。

1、渡部直己氏は「教育者」なのか

まず一般論として、権力の非対称性を利用した渡部氏の行為は明らかにセクハラだと、僕も思う。そして、セクハラは許してはいけない。本人も認め、辞表願いを出しているし、謝罪含め、被害者のかたが少しでも納得するかたちで事が進むことを願う。「文学」とか「文壇」とかいう話とは別に、「非対称的な関係性を利用したセクハラ案件」として、粛々と対応すべきだ(しかし、報道されている早稲田大学側の対応は現状ひどい)。ちなみに、渡部氏のセクハラ行為が有名だったかそうでないか、という議論があるけど、僕は初めて聞いた。

さて、今回の件で個人的に腹立たしく、また、ぬるいと思ってしまうのは、例えば、渡部氏の教え子の倉数茂氏のnoteの文章に出てくる、このような一節。

私の知っている渡部直己は、傲慢な怪物でも、鈍感な権威主義者でもない。いや、威張りんぼではあるけれど、他者の痛みにも敏感で、学生の資質に惚れ込む献身的な教育者でもあったというべきか。その教育スタイルと今回のセクハラが結びついているのが悩ましいところなのだが。

渡部直己は学生に入れ込む教師だった。(…)これぞ、と思った学生にのめり込み、時間を割き、力を伸ばすために努力を惜しまない。そういう教師だった。そもそも学生と一緒にいるのが好きだった。私たち大学院生は、毎週のように彼と飲みに行き、カラオケに付き合わされ、時には野球で汗を流した。今、そういうタイプの教員がどれほどいるだろうか。

「学生の資質に惚れ込む献身的」な姿を、そのまま「教育者」(の鑑)として扱ってしまう点がぬるい。あるいは、社会との接点を見失っている。現在の「教育者」に求められているのは、昔ながらの濃密な人間関係だけではない。いや、濃密な人間関係を求めること自体は良いだろう。でも、例えば「それは教え子への無理強いとなっていないか」「教え子の保護者はどう考えるのか」「お気に入り以外の学生はどう思うのか」などなど、現在(いや、昔からか)の「教育者」には、当然のことながら考えるべきことがたくさんある。それを無批判に甘美な思い出とともに語ってしまう点がぬるい。

中学校・高校の教育現場で働いているからなのか、過剰に反応してしまう。中等教育の現場において、授業にしても部活にしても、生徒のために「時間を割き、力を伸ばすために努力を惜しまない」という態度は、良くも悪くもわりとよくある光景である。そして、そのうえで、同時に、保護者対応、相性の合わない生徒へのケア、もちろん授業準備や雑務などをおこなっている。「学生の資質」があろうがなかろうが「献身的」であらざるをえない。それが「教育者」の通常的なモードではないか。というか、基本的には「献身的」な性格の仕事だ(もちろん、ここにブラック労働という問題も潜んでいる)。だから、「学生の資質」から判断して「献身的」「のめり込み」の度合いを変えてしまう点が、僕の基準からすると、すでに「教育者」としてはダメなのだ。ましてや、今回のセクハラは、他ならぬその「献身的」「のめり込み」の過剰さが生んだものに他ならないではないか。

したがって、腹立たしいのは、倉数氏の文章が「教育者」としての立場の延長としてセクハラ行為を位置付けている点にある。そうではなく、渡部氏は端的に「教育者」的ではない、と言うべきなのだ。もちろん、学問にしても部活にしても、個別の才能に期待をかけることはあるだろう。しかし、その才能を伸ばすために「のめり込」むというのは、単なる前近代的な徒弟制度でしかない。近代的な「教育」の制度に乗っかっているのだから、社会との接点を保ちつつ、個々の才能を伸ばすことを考えるべきである。くり返すが、渡部氏が抱くような学生への期待や「献身的」な態度は、ごく普通にありうる情熱である。その情熱自体は否定されるべきものではない。しかし、例えば中等教育で問われるのは、その情熱をどのようなかたちで発揮するかである。自分や信頼すべき同業者がそういう地点で日々試行錯誤しているときに、渡部氏のような、特定学生に対する「のめり込み」や周囲を無視した安易な囲い込みを「教育者」の姿としてしまうことが、とても腹立たさしい。むしろ、「教育者」としてのスキルがないことのあらわれではないか。あるいは、お気に入り以外の学生に対する情熱がないことのあらわれではないか。倉数氏は「その(渡部氏の)教育スタイルと今回のセクハラが結びついているのが悩ましい」と書いているが、「悩まし」くなんてない。真っ当な教員は、普通にハラスメントなしで情熱的に向き合っている。

たいした学問的業績もないので説得力はないが、僕が大学の教員を目指さなかった(中等教育の現場で踏ん張ろうと思った)のは、そういう「大学的なぬるさ」(「大学的」という偏見まじりの雑な言いかた、申し訳ないです)によるところもあった。いや、もちろん、見聞きする限りでは、ほとんどの大学と大学教員は試行錯誤をくり返しているし、全然ぬるくない。逆に、中等教育の現場にだって異常なことはたくさんあるだろう。それらは個別の問題としてつねにある。しかし、ろくにカリキュラムへの意識もなく、年間授業予定の提出ひとつで文句を言い(面倒な作業であることはよくわかる)、自分の関心のみを言い連ねるような一部の「大学的な」光景を目にするにつけ、「大学的なぬるさ」を感じる。教養主義的なツッパリかたかもしれないし、実際、正しく教養主義的な態度というのもありうるだろう。ただ、僕自身は反教養主義者なので、モチヴェーションに欠ける子どもたちに対して、エンタメ的に学問や批評的営為を実践することのほうが「教育」の意義を感じる。端的に、難しい用語を自己満足的に使う感じが好きではない、というのもある。ポピュラー文化が好きなので。

これは、批評家としての僕の態度表明でもある。ネット上で「渡部氏は批評家か、教育者か」という問いかけを見かけたが、僕自身は、批評的な実践として教育者であり続ける、という自己意識がある。「資質」のある、もともと批評的なセンスのある人と批評の話をするのは、楽しいかもしれないが、閉鎖的だと感じる。そうではなくて、批評のことなんかこれっぽちも知らない、興味のない相手に対して批評を開いていくことのほうが、批評的で教育的で刺激的だと感じる。だから、日々、必ずしも関心の高くない中高生に対してあれこれと話をするのだ(とは言え、自分が関わる生徒はいわゆる頭のいい生徒ではある。テストという装置ももちろんある)。エンタテイメントとしての批評を披露するのだ。それが、かつて聴く耳をもたなかった白人に対して黒人の歴史を訴えた、敬愛するKRSワン流「Edu-tainment」である。はなから聴く耳のない者に届かせる言葉はいかなるものか。日々そういう言葉の錬磨をしている、という実感がある。例えば、ネトウヨっぽいやつもいる教室で、どのようにエスニック・マイノリティの話をデリバリーしよう。そういう言葉の強度を探っているつもりである。ろくに文芸誌に文章も発表できていないのでえらそうに言う気はなかったが、この機会に言うと、そういう意味で、日々、自分は批評を生きているというつもりでいる。そのとき、いわゆる肩書きとしての「文芸批評家」にどのくらい意味があるのだろう、とか考える。文芸誌に掲載することにどういう意味があるだろう、とか考える。

さきほど、大学を悪者かのように書いてしまったけど、多くの大学だって同じように日々学生たちに直面しているだろう。だから現在、大学職には、エンタメもできて危機管理もできる中等教育の経験者が重宝されるとも聞く。そんな時代にあって、渡部氏的な、普通に「教育者」としてダメな振る舞いが見過ごされていたのはなぜか。本当に「文壇」的な力学が渡部氏的な振る舞いを容認にしていたのか。大学の人事を掌握するほどのわかりやすい権力が「文壇」にあるとは考えにくい。しかし、「文芸誌などのメディアで活躍している有名批評家だから、教育者としてはダメでもそんなものだ。むしろ個性的じゃないか」という雰囲気はありそうな気がする。その雰囲気がずるずるとセクハラ容認の雰囲気を醸成していた可能性もある。以上は推測だが、個人的にはリアリティを感じる。それがぬるいし、腹立たしい。大学と中高は異なるとは言え、また、活躍の規模も異なるとは言え、こちとらメディアで活動しながら、同時に教育者であることに心血を注いでいるつもりなのだ。

2、口止めをした「教授」と「男性教員」について

ネットの情報を総合すると、「教授」=水谷八也氏、「男性教員」=市川真人氏だろうと推測されるが、なにが確定情報かわからない状況ではある。以下、「教授」と「男性教員」とする。被害者にあたる女性が目の前で相談している状況において、目の前の彼女より体裁を優先する、という「教授」の行為がすごく嫌だし、おおいに問題だと思う。ここで組織を優先するというインセンティヴが働いている時点で、組織として歪みも感じられる(ただし、内部で真っ当に動いている人がいるのだとも思う)。そして、「男性教員」のほう。口止めにまわるとか、本当にこそこそしていて嫌だ。また、記事で告発されている授業のありかたもひどく、もし事実だとすると、やはり「教育をなめてくれるな」である。ごくごく一般的な意味で、学生のほうを向くこと。それができないのであれば、「教育者」にあたいしない。別に「毎回90分みっちり授業しろ」とか「祝日も授業やれ」とか、融通のきかないことを言うつもりはない。良い感じに力を抜いてやればいいと思う。ただ、大学の文系学部で語られがちな「授業を真面目にやらない」系エピソードは、昔から好きではない(これも「大学的なぬるさ」として捉えている)。ましてや、学生が問題視していたにもかかわらず(実際に別の教員に報告もしている)、「男性教員」の振る舞いが野放し状態だったとすれば、それは、「男性教員」の大学教員というポストへの執着と大学側の「文芸誌などメディアで活躍している人」へのひいきが、両側から絡み合った結果ではないか。くり返すが、そういう全体の雰囲気がずるずると今回のようなセクハラに発展した、という感触がある。

ちなみに、市川真人氏については個人的に印象に残っていることがある。というのも、かなり昔、前田塁の文章がわりと好きで、講演会かなんかに行った。でもそのとき、「僕は3か月働いたらひと月くらい休まないとダメなので(3か月以上働けないので、だっけか)教員業しかできないんだよね」みたいな発言をうっとりとしていて、「休みたくても休めない人もいるだろうに、大学教員なんていう立場からそういうことを言うとは、なんか鈍感な人だな」と良くない印象をもった。2回ほど一瞬話したことがあるけど、向こうは覚えていないだろう。『早稲田文学』周辺に独特な閉鎖的サークル性を感じていたのはたしかだが、それは、どんな集団も少なからずそういう部分があるだろうとも思う。

3、(女性)批評家という存在について

今回、「文壇」関係者が渡部氏を追及しない点、市川真人氏の名前がなかなか出てこない点に、「文壇」の「隠蔽」体質が指摘されている。この「隠蔽」批判が、もし、「渡部氏や市川氏に対してヘタに言及すると「文壇」で干される」みたいなことをイメージしてのことだったら、それはさすがにないと思う。渡部氏や市川氏が「文壇」を牛耳っているわけはない(ただし、両氏に気に入られたい小説家・批評家志望者はいたと思う)。だから、沈黙=隠蔽というのは良くない決めつけだと感じるし、応答責任がどこまで発生しているのかも、正直よくわからない(名前の出ている『早稲田文学』および市川氏、水谷氏はあるだろう)。もし、今回、渡部氏や市川氏を批判することによって「あいつの仕事を無くしてやろう」みたいな動きが起こるのだとすれば(さすがにないと思うが)、そんなのはしょぼ過ぎるので、勝手にすればいい(さすがにないと思うが)。しがみつく理由もない。いわゆる肩書きとしての「文芸批評家」にこだわっているわけではないので、もともと多くない自分の仕事がなくなったところで、日々、一生懸命、自分なりの批評を実践するまでである。

ただ、今回の件で考えてしまうのは、そんな僕自身、良くない権力に加担している可能性がある、ということだ。思い出すのは、同業界の女性と雑談程度に「批評」の話をしていたときに、僕の「批評」に対する考えを聞いた女性が、ふと「ああはいはい、男の子的な批評ね」と言っていたことだ。その言葉はすごく心に残っている。今回、ネットで「文芸界隈自体がホモソーシャル」とか「女性の批評家がおらず書評家やライターばかり」といった話題を目にした。今回の件が起こる以前から、「女性の批評家がいない」という問題はずっと考えていて、何人かの知人や編集者とも話題にしたことがある。ブログに書こうとしたこともあったけど、考えがまとまらないので辞めていた。なぜ、女性の「批評家」は少ないのだろうか。

例えば、「批評」(「評論」でなく「解説」でなく)という響きに込められた、作品から自立するのだ、という態度。実作者である小説家をも押しのけて「この作品はこうなのだ!」と言い張る「批評」の態度そのものが、もしかしたら、ホモソーシャルな文芸業界に生きる女性にとっては、かなり現実的にしんどいものなのではないか。作品や作家に対抗するように「批評」するなんてただでさえしんどいことなのに、女性はそこにさらにしんどさが上乗せされているのではないか。女性の論者が「批評」を避けるとき、そこには男性中心的な文芸業界に対するうっとうしさがあるのではないか。「批評」業界という実体があって、それが「女人禁制」を敷いている、というそんなわかりやすく悪い話はありえない。しかし、微細な力学が女性を「批評家」という肩書きから遠ざけている、という可能性はある(だから、故・田中弥生氏はやはり重要だった)。だとすれば、男性である僕が無邪気に批評の自立性を謳うこと自体が、ある種の特権としてあるのではないか。「文壇」の権力になど加担した覚えはない。だけど、権力と無縁でいられないのもまたたしかだ。群像新人文学賞の優秀作を受賞し、「批評」の自立性を基本態度とし、あれこれ評してきた。ときには偉そうに。それ自体は誠実なことだと信じてやっているし、それ自体が否定されるべきことではないと思う。だけど、その「否定されるべきことではない」行為が、すでに男性の既得権としてある気が、「男の子的な批評」という言葉を聞いて以降、していた。『批評空間』周辺の言説から「批評」に触れ始め、その歴史性を意識しながら「批評とはこういうもの」というイメージを抱き、あれこれ書いたり考えたりしていたが、それ自体がすごく男性中心的なパラダイムにいる気がしてくる。「文壇」プレイヤーとはほど遠いと思っている僕もまた、男性中心的な「文壇」をずるずると延命させているひとりではないか。考えすぎ、あるいは、余計なお世話かもしれないが、けっこう悩んでしまう。この「ずるずる」が、自分の気がつかないところで、誰かの声を抑圧する雰囲気に加担していそうで心が暗くなる。渡部氏のセクハラ問題がそうだが、権力から無縁であるかのような、あるいは、権力に対して反発しているかのような振る舞いこそ、別の権力や抑圧に支えているという凡庸な構造がある。見ようによっては「別にお前は関係ねーよ」かもしれないが(そういう気持ちもなくはない)、とにかくいろんなことをあらためて問い直したい。

自分のことばかり書いてしまいましたが、あらためて、被害者が少しでも納得できるようなかたちを望みます。


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