2010年08月20日
●秀吉の朝鮮出兵の日本軍の約半数は、庶民であった。この時、数万の朝鮮人を拉致した
■農民(人夫・歩兵)、商人、職人(大工や土木技術者)、漁民(水夫)らも駆り出されていた。
源氏平家の戦いが一段落したと思ったら、それは束の間のことで、鎌倉時代の半ばの「元寇」以後から日本国内は乱れた。
続く、南北朝時代、京都を灰にした「応仁の乱」を含む室町時代、その後に信長・秀吉による全国統一が成ったとはいえ、その間にも内戦は続いた。
極めつけは、1590年に秀吉の全国統一が成ったと思ったら、1592~98年の7年間というもの、秀吉の朝鮮出兵であった。
さらに2年後の1600年には、関ヶ原の戦いがあった。
というわけで、朝鮮出兵のことについて、色々と調べてみた。
この時動員されたのは、なにも武士だけではない。
農民(人夫・歩兵)、商人、職人(大工や土木技術者)、漁民(水夫)らも駆り出されていた。
日本からの大軍団の半数は、彼ら庶民であった。
■「(朝鮮出兵は)罪なき朝鮮民衆の惨禍(さんか)、日本生民の憔悴(しょうすい)ここに極まる」
一方では、朝鮮での奴隷狩りが行われた。
一向宗安養寺の医僧・慶念(きょうねん)の日記『朝鮮日々(にちにち)記』には、こうある。以下、筆者意訳。
「日本より、万(よろず)の商人(あきんど)も来たその中に、人商(ひとあきな)いする者が来て、奥地の日本の陣営の後ろをついて歩き、男女老若を買い取って、縄で首をくくり集めて、前に追い立てて、歩かないときには、後ろから杖で追い立て走らせるといった有様で、さながら地獄の獄卒が罪人を責めるのも、このようではないかと思ったほどである」(慶長2年11月19日)
一方では、日本軍も、例えば蔚山(うるさん)に作った城は、明・朝鮮連合軍5~6万に囲まれて籠城し、飢餓地獄を味わった。
この時、先に引用した従軍医僧・慶念は城内に居て、その悲惨な様子を書き遺している。
話を戻して、奴隷狩りのことである。
朝鮮から拉致された人々は、数万人と言われている。
これは、相手が異国の朝鮮人だからというわけではなく、国内の内戦時にも、慣例として行われていたことであった。戦利品というわけである。
朝鮮から拉致されてきた朱子学者・姜(かんはん)との筆談を喜んだ藤原惺窩(せいか)は、
「(朝鮮出兵は)罪なき朝鮮民衆の惨禍(さんか)、日本生民の憔悴(しょうすい)ここに極まる」
と語った。
数万人の朝鮮人が日本に連れて来られて、長崎は、奴隷の一大売買市場と化したという。
奴隷となった人々は、東南アジアに連れて行かれたり、多くの農民が人夫として朝鮮に連れて行かれたその穴を埋めるために、国内の田畑の耕作をさせられたり、商家の下人・下女として働かされたのである。
この時、日本の茶の湯ブームも手伝って、朝鮮の陶工が多く連れて来られたのは、有名な話。
そんなわけで、
「信長、秀吉、家康の3人のうち誰が好き?」
などと問われることがよくあるが、私は秀吉のことは好きではない(笑)。
信長像は、比叡山の焼き打ちなどもあって、まるで冷徹な人間のように描かれてきて、かなり歪められているが、秀吉よりは全然ましだと私は思っている。
やはり、明治の元勲の大久保利通も大尊敬したところの徳川家康が私は好きである。
これは余話である。
国内にいて指図をするだけの秀吉側近の石田光成らと、現場で、朝鮮で命がけの戦いをして帰国した大名たちとの間に溝ができたたことが、「関ヶ原の合戦」へとつながったのである。
まるで「踊る大捜査線」である。
もうひとつ、朝鮮を侵略した秀吉や日本人を憤る人もいるのだろうが、その前に、「元寇」の折に日本を攻めたのは、元軍の手足となっていた朝鮮人の軍隊であったことを忘れるわけにはいかない。
元寇時、対馬、壱岐、平戸の武士のみならず、住民たちも悉(ことごと)く殺戮された。

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源氏平家の戦いが一段落したと思ったら、それは束の間のことで、鎌倉時代の半ばの「元寇」以後から日本国内は乱れた。
続く、南北朝時代、京都を灰にした「応仁の乱」を含む室町時代、その後に信長・秀吉による全国統一が成ったとはいえ、その間にも内戦は続いた。
極めつけは、1590年に秀吉の全国統一が成ったと思ったら、1592~98年の7年間というもの、秀吉の朝鮮出兵であった。
さらに2年後の1600年には、関ヶ原の戦いがあった。
というわけで、朝鮮出兵のことについて、色々と調べてみた。
この時動員されたのは、なにも武士だけではない。
農民(人夫・歩兵)、商人、職人(大工や土木技術者)、漁民(水夫)らも駆り出されていた。
日本からの大軍団の半数は、彼ら庶民であった。
■「(朝鮮出兵は)罪なき朝鮮民衆の惨禍(さんか)、日本生民の憔悴(しょうすい)ここに極まる」
一方では、朝鮮での奴隷狩りが行われた。
一向宗安養寺の医僧・慶念(きょうねん)の日記『朝鮮日々(にちにち)記』には、こうある。以下、筆者意訳。
「日本より、万(よろず)の商人(あきんど)も来たその中に、人商(ひとあきな)いする者が来て、奥地の日本の陣営の後ろをついて歩き、男女老若を買い取って、縄で首をくくり集めて、前に追い立てて、歩かないときには、後ろから杖で追い立て走らせるといった有様で、さながら地獄の獄卒が罪人を責めるのも、このようではないかと思ったほどである」(慶長2年11月19日)
一方では、日本軍も、例えば蔚山(うるさん)に作った城は、明・朝鮮連合軍5~6万に囲まれて籠城し、飢餓地獄を味わった。
この時、先に引用した従軍医僧・慶念は城内に居て、その悲惨な様子を書き遺している。
話を戻して、奴隷狩りのことである。
朝鮮から拉致された人々は、数万人と言われている。
これは、相手が異国の朝鮮人だからというわけではなく、国内の内戦時にも、慣例として行われていたことであった。戦利品というわけである。
朝鮮から拉致されてきた朱子学者・姜(かんはん)との筆談を喜んだ藤原惺窩(せいか)は、
「(朝鮮出兵は)罪なき朝鮮民衆の惨禍(さんか)、日本生民の憔悴(しょうすい)ここに極まる」
と語った。
数万人の朝鮮人が日本に連れて来られて、長崎は、奴隷の一大売買市場と化したという。
奴隷となった人々は、東南アジアに連れて行かれたり、多くの農民が人夫として朝鮮に連れて行かれたその穴を埋めるために、国内の田畑の耕作をさせられたり、商家の下人・下女として働かされたのである。
この時、日本の茶の湯ブームも手伝って、朝鮮の陶工が多く連れて来られたのは、有名な話。
そんなわけで、
「信長、秀吉、家康の3人のうち誰が好き?」
などと問われることがよくあるが、私は秀吉のことは好きではない(笑)。
信長像は、比叡山の焼き打ちなどもあって、まるで冷徹な人間のように描かれてきて、かなり歪められているが、秀吉よりは全然ましだと私は思っている。
やはり、明治の元勲の大久保利通も大尊敬したところの徳川家康が私は好きである。
これは余話である。
国内にいて指図をするだけの秀吉側近の石田光成らと、現場で、朝鮮で命がけの戦いをして帰国した大名たちとの間に溝ができたたことが、「関ヶ原の合戦」へとつながったのである。
まるで「踊る大捜査線」である。
もうひとつ、朝鮮を侵略した秀吉や日本人を憤る人もいるのだろうが、その前に、「元寇」の折に日本を攻めたのは、元軍の手足となっていた朝鮮人の軍隊であったことを忘れるわけにはいかない。
元寇時、対馬、壱岐、平戸の武士のみならず、住民たちも悉(ことごと)く殺戮された。
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