Pale Blue Dot

7月 26 2009

僕とイエスと掘っ立て小屋

2004/05/27

運命の赤い糸というものは、なにも恋人たちを結ぶためだけにあるのではない。人と人との出会いと別れの数だけそこかしこに結ばれては消える、無数の糸の絡み合い。まあ36年も生きていれば、いろいろな糸が絡みついてくるものだけど、とっくの昔に切れたと思っていた赤い糸が、文字通り紆余曲折を経て目の前に現れることもあったりするのだ。

新宿の街をブラブラしていた時、その声は突然背後から響いてきた。しょぼい街宣車のスピーカーから流れるアジテーションは、叫び声にも似た強烈な音色で大都会のビルの谷間こだました。なんとなく聞き流して紀伊国屋にでも入ろうかと思った瞬間、信じられないような言葉が飛び込んできた。

「…世界経済共同体…わたくし、又吉イエスは!…」

又吉イエス…ああ、それは沖縄が誇る、いや隠したかったかもしれない有名人の名前である。1998年に全国的に注目された沖縄知事選の、けして報道されることがなかった第三の候補者。それが又吉イエスだ。当時の全国ニュースでは、現職だった平和主義者の太田昌秀と、経済界の肝いりで出馬した稲嶺恵一(現知事)の一騎打ちと言われていたのだが、実はどこからともなく現れた又吉イエスが、奇想天外な選挙公約で孤軍奮闘していたのは沖縄県民なら周知の事実。中でも忘れられない選挙公約があった。

「モノレール計画廃止。なぜならスカートをはいた女子が頭上を通るのは不謹慎でハレンチだから」。

選挙公約を読み、大爆笑したのを憶えている。ま、無視されてもしょうがない。しかし、その又吉イエスがなぜ東京に!と、思ったら、なんと東京選挙区から次の参院選に出馬するそうな。でもって、家に帰ってネットを検索してみたらあるわ、あるわ。又吉イエス、実は昨年も東京選挙区から立候補していて、すでにネットの世界では非公式の応援サイトやら、パロディサイト、さらにはインタビューをする雑誌まであるしまつ。沖縄にいるときよりは確実に人気者になっている感じだ。まあおもしろがっているだけだろうけど。沖縄では例の知事選の後にも、いくつかの選挙に出馬していたことは風の便りに聞いていたけど、まさか僕の住んでる東京新宿区に来ていたとは。しかも又吉イエスの自宅は、僕が東京で最初に住んでいた上落合らしい。赤い糸がクルクルとたぐり寄せ始められていた。本当に人の世というのは狭いものであります。とはいえ、東京の選挙はいろんな神様が出馬する神様激戦区。又吉イエス、はたしてどう闘うのか。注目であります。

まあ、ここで話が終われば、良くある郷里の有名人を見かけたって話。実は運命の赤い糸の先に思いも寄らぬ手ごたえが感じられたのである。ネットを検索しているうちに判ったのだが、実は又吉イエスはかつて小禄学習塾という塾を経営していたらしい。それは何を隠そう僕が小学校6年から中学3年までのあいだ通った学習塾と同じ名前なのだ。つまり又吉イエスは僕の先生だった…かも知れないのだ。確かにネット上の写真を見ると白髪になって頬はコケているが、良くにている。しかし、残念ながら僕は、その塾に四年間も通いながら一度も先生の名前を聞いたことがない。しかし、月謝袋に押されていた領収の印鑑は、確かに《又吉》だった。あの穏やかな又吉先生と、「私に投票しないものは地獄の業火に焼かれる」と演説する又吉イエスのイメージは必ずしも結びつかない。しかし、僕の知っている又吉先生は、お人よしなくらい優しかったが、神経の細い生真面目な一面も持ち、僕は子供心に「この人は心を病むかも知れない」と心配していたことは事実である。又吉先生、お元気でしょうか?

その学習塾は、僕が通っていた小学校の校区外で、バスで大回りして1時間くらいかかるところにあった。子供は塾に行くより外で遊ぶべきと信じていた当時の僕が、そんな塾にわざわざ通い始めたのは、仲の良い友人に誘われたからだった。その友人は、たまたま親戚がその塾の隣のアパートに住んでいたことが縁で通ってい始めていた。ともかく変わった塾だと聞いて、取りあえず体験入学で行ってみたのだが、確かにそれは変わっていた。

その学習塾は、住宅街のまん中の小さな空き地に建つ掘っ立て小屋だった。屋根はトタン葺き。壁は板張り。中に入ると建物全体がギシギシと音を立てる。「あしたのジョー」の泪橋の近所にあっても違和感のない建物だった。建物の半分は教室で、それさえも机を八つ並べるのが精いっぱいの狭さ。生徒は学年に関係なくいっしょに勉強している。迫り来る受験戦争の緊張感とはほど遠い、アットホームな雰囲気の学習塾だった。一人しかいない先生は穏やかそのもので、物腰が柔らかく、好感が持てる人だった。ひととおり説明を聞いてのち、僕は塾のトイレに行った。もちろんトイレは汲み取り式でボロっちく、壁板の割れ目から外の雑草と日差しが暗い個室に差し込んでいた。その雑草を見ながら「この塾なら通ってもおもしろいかも」と、決心した。

塾の勉強はシンプルだった。教科書中心主義。とにかく学校の教科書に載っている問題を全て解く。やり方がわかるまで何度も。どうしてもわからないときは先生が黒板を使って説明してくれる。「答えがわかる」ではなく「解き方を理解する」まで何度もやる。しだいに僕は難しい証明問題もパズルゲームを楽しむように取り組むようになった。まちがいなく僕の数学好きは、この先生のおかげだったし、中学時代の好成績もこの塾のおかげだった。なにしろ毎週土日の二時間、塾で勉強する以外はほとんど遊んでいたのだ。受験勉強ですら、家ではほとんどしていない。とにかく塾に行けば自分のペースで勉強できるので、学校の授業もすんなり頭に入った。判らないことは塾に行けば先生が確実にサポートをしてくれた。時代に取り残されたような掘っ立て小屋の教室で、僕は勉強を楽しんでいた。

最初の2年くらいは、僕と友人はバスで通っていたのだが、そのうち先生が自分の車で送り迎えしてくれるようになった。先生の家のある中部方面から、僕らの家は通り道だったのだ。月謝は4,000円くらいと当時としてもバカ安なのに、いたれりつくせりな対応だった。そんなこんなで親切にしてもらいながらも、あいかわらず先生の名前は月謝袋の印鑑でしか知らなかった。しかし、今さらフルネームを聞くのも変だし、だいたい先生は一人しかいないわけだから、どうでも良いことだった。妙に老成した子供だった僕は、生きていればそのうち判る日も来るだろうと思い、特に詮索はしなかった。ただ、月謝袋の《又吉》という名字だけはなにかの手がかりになるだろうと意識して心に刻みつけた。

中学も残り一年というある日のことだった。僕らの成績がアップしたことに自信をつけたのか、はたまた月謝が安すぎることに気がついたのか、先生は一大決心をした。手狭な掘っ立て小屋を捨て、もう少し広い貸し事務所に塾を引っ越したのだ。言って見れば人生の勝負にでたのである。月謝は少し上がったが、もともとが安いだけに気にはならなかった。変わりに先生はワゴン車を購入し、地元の生徒も片っ端から送り迎えするようになった。僕はあの掘っ立て小屋と別れるのはつらかったが、先生にもう少し儲けて欲しい気もしていたので、これは塾としては進むべき道だろうと理解した。それに中学を卒業するまで後一年。成績もおかげさまで好調だったので、今さら別の塾に行く理由もなかった。

教室の拡大と送迎バスの導入にともない、生徒数が20名弱に増えた。しかし、それは先生にとっての不幸の始まりでもあった。まあ当然ながら生徒というのは芋づる式に友人関係で増えていく。そしてこの塾のように零細学習塾に勉強のできる子が入ってくるはずはない。勉強などしたこともなさそうな生徒が、高校受験を前に焦って次々入学してきた。根は悪い連中ではないのだが、友達と連れだって入ってきたことと、もともと勉強が苦手ということで、ハメを外すことしきり。生真面目な先生は、いらぬ神経をすり減らし始めていた。ストレスはたまり、時には僕らを家に送る車の中で愚痴をこぼすこともあった。以前は見たこともない疲れっぷりだった。いろんな意味で限界を感じているようだった。高校受験が近づいたころ、先生は僕らの卒業をもって塾をたたむ考えがあることを口にした。その後の高校受験で、僕は数学は100点満点、他の教科もかなりの高得点をとり、志望校へ受かった。又吉先生は教師をするには神経が細過ぎたのかも知れないが、僕の人生で恩師と呼べる教師の一人だった。

受験戦争への漠とした不安を抱いていた小学生時代の僕に、勉強の楽しさを教え、高校受験までの基礎学力と自信をつけてくれたその塾で、同時に僕は大人が挫折していく様を見た。それはなんともほろ苦い記憶である。そもそも又吉先生はなぜあんな掘っ立て小屋を借りて学習塾を始めたのだろうかと、大人になった今は思う。何やら複雑な事情はあったかも知れないけれども、なにかささやかな夢や希望を抱いていたのではと思う。あのまま、あの掘っ立て小屋を離れなければ、あんな挫折を見ることもなく、浮世離れした幸福感だけが僕らの思い出に焼き付いていたのかも知れない。先生もまた違う人生を歩んでいたかもしれない。

10年ほど前、大学生の時にあの掘っ立て小屋を訪ねたことがある。すでに建物はなく、空き地だけがそこにあった。今はもう、その空き地もなくなっているのかも知れない。

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