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謙虚、堅実をモットーに生きております! 作者:ひよこのケーキ
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 鏑木の鬼のスパルタ指導を受けボロボロに疲れて泥のように眠った夜、丑三つ時を過ぎた真夜中に夢うつつで寝返りを打ち、足を伸ばした瞬間、ふくらはぎにビーンッという激痛が走った──!

 痛い痛い痛い痛い痛いっ!足が攣った!

 あまりの痛みに飛び起きた私は、ふくらはぎを両手で押さえながら、ベッドの上でごろごろとのた打ち回った。い゛ーだーい゛ー!!

 ふくらはぎの筋肉が引き千切られそうな痛みが私を襲う。あまりの痛みに息ができない。全身の毛穴が開いて、冷や汗が出た。私は歯を食いしばりながら、必死で攣った足を手で擦る。人間の手の平からは癒しの力がでていると聞いたことがあるから!

 痛い痛い痛い…!神様仏様、どうか助けて。ご先祖様、今年も必ずお墓参りに行きますから!お父様、お母様、お兄様、痛いよー!!

 …それからどれくらいの時間が過ぎたのか、私にとっては永遠にも近い苦しみからやっと解放された時には、半分魂が抜けかかっていた。

 まだ痛みの余韻が残るふくらはぎをそっと擦りながら、私は涙をぬぐった。

 これ、絶対に無理な運動をしたせいだ…。泣きっ面に蜂だよ。

 私はおもむろに枕元の携帯を手に取ると、非常識な時間帯など無視をして、鏑木に“たった今、足が攣って死の苦しみを味わいました”とメールをした。己の無茶な指導を反省しろ。

 あ~、まだなんとなくジンジンする。足が攣った後はどうしたらいいのかな。冷やす?あっためる?恐る恐る足を動かしてみたところ、特に筋肉が断裂していたり、歩けなかったりといった異常はみられないけど…。明日も早いし、また足が攣ったら怖いけど寝たほうがいいよね。ただでさえ疲れていたのに今ので余計に疲れたし。

 すると携帯からメールの着信音が鳴った。…鏑木、起きたのか。それとも初めから起きていたのか?まぁ、いい。私が真夜中に足が攣ってもがき苦しんでいるのに、その原因を作った鏑木がぬくぬくと安眠しているなんて許されることではない。

 真夜中の新着メールを開く。


“運動前後の入念なストレッチと、マッサージを怠るな”


 …え、これだけ?

 鏑木めーっ!誰のせいでこんな目に合ったと思っているんだ。少しは労われ!自責の念に駆られろぉっ!

 “足が攣って多分にダメージが残っているので、明日は一日安静日にします。ジムには行きません”送信っ!

 私は電源を切った携帯をベッドの足元にぶん投げると、傷んだふくらはぎを気遣いながら、ベッドに横たわった。

 ──夢の中で私は、眠る鏑木の枕元に座り、額にぽたり、ぽたりと水を1滴ずつ落としていた。ぽたり、ぽたり。ぽたり、ぽたり…。

 魘される鏑木。にやりと笑う私。そんな夢を見ました。

 これは決して拷問ではなく、インドの癒し術シロダーラです。






「おはようございます」

「おはよう…。吉祥院さん、なんだかやつれているけど大丈夫?」


 すでに塾の教室に来ていた梅若君達に挨拶をすると、振り返った梅若君達に心配された。うん、自分でもこの数時間の間に二、三歳老け込んだ気がするんだ…。

 あれからもう一度寝直して朝起きたら、全身の筋肉痛がさらに酷くなっていた。特に下りの段差がきつい。一歩足を下ろすだけで、筋肉や骨がギシギシ痛む。しかも攣った足は未だ筋肉の奥の方にヒリヒリとした痛みが少し残っている感じもする。

 今日は夏期講習だし、少しでも筋肉痛を和らげないと。腕も動かすだけで痛いし、これじゃノートも満足に取れないと、のそりとベッドから出た私は筋肉疲労に効く湿布スプレーを足を中心として全身にかけた。財力に物を言わせ1回に1本全部使い切るつもりで景気よくかけまくった。肩こりもあるから、肩も念入りにかけておこう。これで少しは楽になるといいんだけど、と…。

 するとみるみる内に肌寒くなっていった。あれ?あれ?

 エアコンの風が当たると、全身がゾクゾクとして寒い。どんどん、どんどん寒くなる。ちょっと量をかけすぎちゃったのかな。寒い。これはダメだ。シャワーを浴びて湿布薬を少し洗い流そう。


「ぬぉあああああっっ!」


 ──結論、湿布の直後にシャワーや熱いお風呂に入ってはいけない…。

 と、まぁそんなことが朝からあったので、昨日から残る疲労も合わせ午前中にも関わらずご指摘通り私はすでに疲れ切っていた。


「昨日少し運動をしたら、夜中に足が攣ってしまいまして…」


 私は筋肉痛にできるだけ響かぬよう、ゆっくり席に座りながら弱々しく微笑んだ。


「え~、足攣ったの?!大丈夫?」

「ええ。あまりにも痛くて死ぬかと思いました」

「そうなんだ。大変だったね」


「吉祥院さんが早く元気になるように」と、梅若君がベアトリーチェの新作ポストーカードをくれた。犬用浴衣なんてあるんだ…。兵児帯が可愛いですね。

 今日も犬バカ君の耳には、シルバーの肉球ピアスが光っている。


「久しぶりに来たと思ったら疲れ切っているから、てっきり受験勉強やつれかと思ったら、運動疲れなの?」


 と森山さんに聞かれたので、「ええ。昨日ジムで運動をしまして…」と答えると「それでそんなになっちゃうの?!」と驚かれた。

 鏑木式ダイエットを受けると、こんなになっちゃうんです。

「足が攣った時は、足の指を甲のほうに引っ張るといいらしいよ」「あ、それ俺も聞いたことある」という梅若運達の足が攣った時の対処法の話をふんふんと聞きながら、「そうだ」と私は傍らの紙袋を机の上に置いた。


「休んでいる間にお友達と北海道に旅行に行ってきたんですけど、これもしよろしかったらどうぞ」


 そう言って私は北海道土産のとうきびチョコを皆に配った。


「わぁ、ありがとう!」

「なに、チョコ?おいしそう」

「今日はなんだかやたら大荷物だと思ってたんだよ。ありがとう吉祥院さん」

「うふふ。数あるとうきびチョコの中でも、私が一番おいしいと思うお店のお菓子ですから、ぜひ食べてみてね」


 各メーカーを食べ比べて厳選したチョコなのだ。北澤君達は早速箱を開けて、「うまっ!」と食べている。


「吉祥院さんが持ってくる食べ物ってみんなおいしいから楽しみ」

「うん。吉祥院さんっておいしいお菓子をよく知っているよね~」

「え、そうかしら?」


 森山さんと榊さんの褒め言葉に気を良くした私は、


「実は私の一番のお薦めの北海道のお菓子は、果肉がぎっしりと入ってそれはもう瑞々しい夕張メロンゼリーなんだけど、良かったら今度持ってきましょうか?」

「えっ、いいの?」

「夕張メロンゼリー食べたい!」


 ふっふっふっ。たかがゼリーと侮ることなかれ。その夕張メロンゼリーは蓋を開けると甘い夕張メロンの香りが溢れて、スプーンを刺した感触もゼリーというより、もはやメロンそのものなのだ。

 本当は今日のお昼のデザートに人数分を持ってこようかとも考えたんだけど、塾に冷蔵庫がないから諦めたんだよね。適度に冷やして食べないと、あのおいしさが半減してしまってもったいないから。でもここまで期待されたら、クーラーボックスに入れてでも持ってこなくては。


「これは自信を持ってお薦めするので、ぜひ楽しみにしていてください」


 私がにんまりと笑うと、北澤君から「よっ!美食の女王」と掛け声がかかった。


「でもこの時期に友達と旅行に行くって、さすが付属高は余裕があるよね~」


 とうきびチョコを今食べるか持って帰るか迷う森山さんが言った。やっぱりそうなのかな…。普通の受験生はこの時期に暢気に友達と旅行になど行かないらしい。


「旅行なんて贅沢なことは言わないからさ、たまには息抜きしようぜ」


 北澤君が提案した。


「たとえば?」

「本当は夏だし海とかプールとかに行きたいところだけど、すぐには無理だからとりあえず今日の帰りに花火しない?」


 花火?!うわぁっ、したい!

 他の子達も「いいねー!」と賛成して盛り上がった。


「近くで花火ができる場所ってあったっけ」

「少し電車で移動するけど、花火可の公園があるよ」

「よし!じゃあ帰りに花火をしよう!」


 友達と花火!これぞ、ザ・充実した夏休みの過ごし方だよね。楽しみすぎる!

 私は浮かれた気分のまま、お土産のお菓子の箱をひとつ持ち、前列の離れた席に座るもうひとりのお友達の元へ行った。


「ごきげんよう、多垣君」


 後ろからそっと声を掛けると、多垣君は文字通り飛び上がった。

 私、麗華さん。今あなたの後ろにいるの。


「北海道旅行のお土産なんですけど、よろしければどうぞ」


 心臓を辺りを押さえ呻きながら浅く息をする多垣君に、私はお菓子を差し出した。


「え…」


 多垣君は反射的に身を引いた。なによ、その引きつった顔は。


「遠慮なさらないで?さ、どうぞ」

「いや、でも…」

「それとも私のお土産を受け取れないと?」


 私が目を細めると、


「とんでもございません!ありがたく、頂戴いたします…」


 多垣君は卒業証書を受け取る時のように両手で恭しくお菓子の箱を捧げ持ち、ひれ伏すように受け取った。たかがお土産のお菓子で大袈裟な…。


「北海道に行っていたんですね…」

「そうなの。私がいない間になにかあった?」

「いいえ。とても平和な毎日でした…」

「あらそう」


 多垣君の隣の席が空いていたので座ると、多垣君の眉があからさまに下がった。

 ちらっと机の上を見ると、広げてあったのは塾のテキストではなく、瑞鸞学院と印字されたプリントだった。これって瑞鸞の補講で使われるプリントだよね。


「多垣君は、瑞鸞の補講にもマメに顔を出しているの?」

「いえ、僕は塾の夏期講習を優先しているので、どうしても出ておいた方が良い補講だけ受けに行っています」


 私と同じか。


「でも瑞鸞の補講の内容は、時々こうして友達に教えてもらっているんです…」


 多垣君は瑞鸞の補講をメインにしている友達に補講内容を教えてもらって、代わりにここのテキストや授業内容を教えているそうだ。勉強以外にも外部生同士で色々と情報交換もしているらしい。

 へぇ~と私が感心すると、


「立場が弱い者にとって情報はなにより大事ですから」


 さすがは小耳の多垣だ。


「ちなみにどんな情報を交換しているの?」

「それは…主に瑞鸞で生きていく上で、近づいてはいけない危険区域や危険人物など…」

「あぁ、瑞鸞の森とか迷う生徒もいるみたいですものね」

「そうですね…」

「それで、危険人物って?」

「え、いや、あ、誰だったかなぁ…。特定の人物じゃなくて、集団というか、えっと、あの…」


 多垣君がガタガタと震え出したので、これ以上は追及しないでおいてあげる。なんとなく予想がつくし…。


「つまり外部生は外部生達で団結して助け合っているってことね」

「はい…」


 そっかぁ。仲良きことは美しき哉。


「それでも外部生同士の中でも駆け引きや腹の探り合いなんかもあるんですけど…」

「え、そうなの?」

「それはまぁ、受験は全員がライバルですから…」

「ふぅん」


 友達でも受験に関しては手の内はすべて明かさないってことか。なんとも世知辛いというか…。でも考えてみたら私も、表では勉強なんてしていないのよという顔をして、裏では毎回必死に試験勉強をしているんだから、人のことは言えないか。


「皆受験に必死だから…。自分よりも優秀な生徒を妬んだりもあるし…」

「へぇ…」


 ひとり思い当たる人物がいた。


「たとえば高道さんとか?」


 常にテストで上位に入っている若葉ちゃんは、そのことでやっかまれているのを私も知っている。


「そうですね…。高道さんは特待生枠に敗れた連中から相当敵視されていますね。受験に関しても高道さんは成績だけじゃなく、生徒会役員の経歴が内申に加味されるってことで余計に…」

「内申?!そんなことまで考えているの」

「そりゃあ、推薦を取るには内申は重要ですから。内申点が欲しくて生徒会入りを目指していた奴からは、上手くやりやがってと憎まれたり…」

「へぇ~っ!」


 私は素直に驚いた。


「瑞鸞の生徒会なんてピヴォワーヌとの対立や交渉で、精神的にガリガリ削られて苦労が多いと思うのに」

「それは僕の口からはなにも言えません!」


 自分だって思っているくせに~。さっきの危険人物ってピヴォワーヌのことでしょう?


「それで、具体的に高道さんに嫌がらせをしている外部生は誰なの?」

「それは…」


 仲間を売ることに躊躇する多垣君の肩に手を置き、「悪いようにはしないから」と囁く。


「大丈夫。私はこう見えて、瑞鸞ではそこそこ力があるのよ?」

「知っています…」


 悩む多垣君。仕方ない。私も情報を提供しよう。


「ピヴォワーヌという会は高等科までで、大学にはピヴォワーヌは正式にはないの。ほら、学生の数も多くなって学部も各地に点在しているし、大学生にもなると家の都合などで忙しくなるので、全員が放課後に一箇所に集まるといったことが難しいから」

「え、は、はい…」

「でもね、ピヴォワーヌという会はなくても、ピヴォワーヌのOB、OGによる隠然たる勢力というものは存在するのよ」

「え…」


 多垣君は目に見えて青ざめた。


「そりゃあ影響力は残っているわよ。そのために初等科入学から高等科を卒業するまで交流しているのだから。その団結力は外部生の比ではないと思うわよ?」


 私は慈愛に溢れる微笑を浮かべ、多垣君に語りかけた。


「でも大丈夫。私と多垣君はお友達じゃない。私はこう見えて、ピヴォワーヌではそこそこ力があるのよ?」

「知っています…」


 観念した顔で多垣君は「これは小耳に挟んだ話ですが…」と何名かの名前を上げた。ふ~ん…。


 昼休みにランチを食べ終わると、鏑木からメールが届いていた。朝食と昼食のメニューを報告しろとの催促だった。私はデザートに買ったコンビニプリンを除外したメニューを送った。まったく、面倒くさい…。

 でも、鏑木のメールに少し気になる文があった。


“今朝は夢見が悪くて調子が悪い。六條御息所が枕元に座っていた夢だ”


 まぁ、怖い。鏑木のことだから、あちこちから恨みをたくさん買っているのだろう。生霊って恐ろしい…。

 シロダーラはインドに古来から伝わる癒しの術です。

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