281
今朝は塾の夏期講習を休んで、瑞鸞の補講を受けにきた。塾の夏期講習を休むのは他の受講生に勉強で置いていかれる不安も少しあったりするけど、内部受験をする身としては授業内容がテストに反映されやすい教科の場合は、塾より学院の補講を優先させたほうが益があったりするのだ。
でも学院の特別補講は前にも受けたことがあるけど、一緒に受ける人達の中に仲の良い子が誰もいないと、授業が始まるまでの時間がひとりぼっちで居心地が悪いのよね…。そういう時は話し相手も居らず孤立していのを隠すために、余裕の表情で静かに読書などをしながら孤高を気取るけど、内心では孤高ではなくただの孤立だと周囲にバレたらどうしようとヒヤヒヤだ。時間潰しに意味もなくロッカーに物を取りに行くという技を使ったりする時もある。
そんな過去を振り返り、どうかそれなりに親しい人がいますようにと、クラス替えの時と同じくらいドキドキとしながら目的の教科の教室に入る。まずは生徒の顔触れをサッとチェック。
「あれ?吉祥院さん」
「委員長!」
うわぁん!いきなり友達発見!
私は廊下側の最前列の席に座る委員長に駆け寄った。
「委員長も補講を受けていたのね!」
「うん。僕は毎年受けているから」
「そうだったの。知っている人がいて良かったわ」
「まだ来ていないけど、僕以外にも本田さんと野々瀬さんと岩室君もいるよ」
なんと!
本田美波留ちゃんと野々瀬真帆ちゃんとは、同じグループではないけど私も仲良くさせてもらっている。体育祭の仮装リレーをきっかけに女装に目覚めてしまった柔道部の岩室君からは、よく美容についての相談を受けている。
良かった。これで孤立は免れた!
私は教室を見渡しながら委員長に「席は決まっているの?」と聞いた。
「自由だけど、僕達はいつもこの辺に座っているよ」
「そうなの。私も一緒に座っていいかしら」
「もちろん」
席は決まっていないといっても、いつも委員長と岩室君が前に座って、その後ろに美波留ちゃんと真帆ちゃんが座っているらしい。
だったら私は美波留ちゃんの後ろに座った方がいいのかな。
すると委員長が「ここに座る?」と、自分の隣の席を示してくれた。
「でもここは岩室君の席なのでしょう?」
「大丈夫だと思うよ。岩室君はそんなことを気にする人じゃないから。それに岩室君は体が大きいから気を使っていつも背中を丸めて授業を受けているしね。本田さんか野々瀬さんの後ろの席の方が気楽かも」
「じゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな。もし岩室君が来てこの席が良いといったら代わることにするわ」
「うん」
念のために私のネーム入りの万年筆を美波留ちゃんの後ろの机に置いて、席を確保しておく。これで良しと。
私は委員長の隣の席に着くと、机の上に筆記用具や教科書を出した。
「そうだ。これ、別の補講で配られたプリントなんだけど、良かったら見る?」
「いいの?」
「うん。ここ重要みたいだよ」
鉛筆で“試験に出る”と書いてある箇所がある。これは見逃せない。
「委員長。これ書き写させてもらってもいいかしら」
「いいけど、コピーを取れば?」
「えっ、でも補講を受けていないのに、受けた人だけの特典を楽してコピーさせてもらうなんてずるくないかしら…」
「気にしすぎだよ」
そうかな。暑い中、真面目に補講を受けにきた人達からしたら面白くないんじゃないかな。でも委員長の申し出はとてもありがたい。
「じゃあ申し訳ないけど、後でコピーさせてもらうわね」
「うん、いいよ」
委員長は本当に良い人だ。
そんな委員長の机には、ピンク色の可愛いペンが置かれていた。
「可愛いペンね」
「あぁ、これは本田さんのペンなんだ。昨日、僕が間違えて持って帰っちゃったみたいで、今日返さないといけないから、忘れずに出しておいているんだ」
「そうだったの。委員長は美波留さんとは順調に仲良くしているみたいね」
「えっ」
委員長の頬がポッと赤くなった。委員長は美波留ちゃんに何年も片思い中だ。
「吉祥院さんのアドバイスのおかげだよ。ありがとう」
「そんなことないわよ」
「そんなことあるよ。僕にとっては吉祥院さんは、恋愛の師匠であり、恋愛成就の髪様でもあるんだから」
あっ、それに関しては迷惑しているんだからね。委員長達が鏑木に私を恋愛成就の神様なんて言ったせいで、鏑木の恋愛アドバイザーにさせられているんだから。
「それで相談なんですが、髪様。仲良くなれたのはいいのですが、友達からまったく進展がありません」
「それは難しい問題ね…」
「そうなんです」
委員長はさっきの席の件やプリントのコピーの件からわかるように、裏表のないとっても良い人だ。しかしそういう人は良い人止まりで終わることが多いとよく聞く。しかも美波留ちゃんは腹黒円城のファンだ。もしかして好きなタイプが善良な委員長とは真逆なんじゃないのか?!
それでも恋愛成就の神様として頼られたからには、なにかご利益を授けないと。う~ん、う~ん…。そうだ!
「下の名前で呼んでみたら?」
「ええっ?!」
私は「今まで苗字で呼んでいた人に、名前で呼ばれたらドキッとすると思う!」と力説した。
「名前で呼ぶのは馴れ馴れしすぎないかな…」
「嫌いじゃない相手からだったら、名前で呼ばれてもイヤな気持ちにはならないと思うけど。それに友達だって下の名前で呼び合うと、グッと親近感が沸かない?」
「それは一理あるけど…」
委員長は私に同意するも「でもきっかけがなぁ…」と悩んだ。
「ずっと苗字で呼んでいたのに、急に名前で呼ぶって難しいよね」
「そこなのよね」
名前呼びといえば、私も若葉ちゃんには“吉祥院さん”ではなく“麗華ちゃん”と呼んで欲しいな~とずっと思っているんだけど、その望みは未だに叶えられていない。
私が若葉ちゃんにやった名前呼びのきっかけ作りは、自分から「若葉ちゃんと呼んでいい?」と言った時だったんだけど、残念ながら若葉ちゃんからは期待していた「じゃあ私も麗華ちゃんと呼んでいい?」というレスポンスはなかった。友達なのに吉祥院さんって呼び方はよそよそしいと感じてしまうけど、自分から麗華ちゃんと呼んでとは気恥ずかしくて言えないんだよなぁ。
「名前は時間が経つにつれ、呼ぶのも呼ばれるのも難しくなるのよ」
「そうだよねぇ。でも考えてみたら僕なんて、名前どころか苗字ですら呼ばれていないし…」
そこからか!
でも委員長は委員長だからなぁ…。委員長の呼び名が、本名よりもしっくりきすぎているのよ。
「おはよう、委員長。…と、師匠?」
「えっ、麗華様?!」
登校してきた岩室君と、その後ろからやってきた美波留ちゃんと真帆ちゃんが、私を見つけ同じように驚いた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、麗華様。麗華様も補講を受けるのですか?」
「そうなの。お仲間に入れていただける?」
「もちろんです!」
美波留ちゃんと真帆ちゃんは笑顔で歓迎してくれた。良かった。委員長はさっそく「このペン、ごめんね」と美波留ちゃんにペンを返していた。
「それとここは岩室君の席なのよね?ごめんなさい、席を代わった方がいいかしら」
「俺は別の席に座るからいいですよ」
「本当?ありがとう。だったら美波留さんの後ろの席を押さえてあるのだけど」
「わかりました」
岩室君はあっさりと頷いた。
席の問題が解決したところで、私は気になったことを岩室君に聞いてみた。
「ところで岩室君。ずいぶん日焼けして黒くなっているわね。海にでも行ったの?」
「いえ。ただの通学焼けです」
「通学焼け?!」
毎日の通学だけでここまで焼ける?!
するとそれを証明するように、ほら、と岩室君が制服の袖をめくった。そこには見事な半袖焼けが!
「日焼け止めは塗っているんですけどね…」
「メラニン色素が多いのかしら」
日焼け止めを塗っているのに、こんなに焼けちゃうのかぁ。
「ウォータープルーフでSPFが高いものを使ってみたら?」
「でもあまり強力すぎるのは肌に悪いのでは?前にレジャー用の強いものを使ったら肌がつっぱってヒリヒリしちゃって」
「落とす時に専用のクレンジングで優しく洗い流している?夏でもお風呂上りにしっかり保湿化粧水で全身をケアすることが大事よ」
「師匠はいつも肌が真っ白ですけど、どんな対策をしているんですか」
「私?私は日傘も差しているけど、やっぱり日焼け止めが基本ね。私は季節によって日焼け止めを使い分けているの。岩室君が言うように、強い日焼け止めは肌への負担になるから、紫外線の少ない冬はオーガニックの肌に負担をかけない日焼け止めを選んだり…」
「オーガニックですか。勉強になります」
相変わらず岩室君は美に対する関心が高い。
そこへ先生がやってきたので、岩室君は「後で使っている日焼け止めを教えてください」と言って、自分の席に戻って行った。
快く席を譲ってくれた岩室君には、今度私の愛用する日焼け止めをプレゼントしよう。
授業が終わり、休憩の間に私は委員長から借りたプリントをコピーしてくることにした。
「麗華様、私達も一緒に行きましょうか?」
「平気よ。コピーを取ったらすぐに戻るから。ありがとう」
私はクリアファイルにプリントを挟むと、足早にコピー機のある場所に向かった。コピー機は誰も使っていなかったので、スムーズに用事は済んだ。
そして教室に戻る途中の廊下で、アホウドリ桂木を見つけた。
「あ…」
向こうも私に気づくと、露骨にイヤそうな顔をした。
「貴方、前から注意していますけど、先輩に対してその態度は失礼ではありません?」
私の指摘に桂木少年はふんっとそっぽを向いた。可愛くないっ。この礼儀知らずの後輩には、先輩としていつか教育的指導をしないと。
大体、こんなところになんでアホウドリがいるのよ。イラッとしながら桂木少年を見ると、その手には教科書とノート類があった。
意外だ。桂木少年が学院主催の補講に参加する程、勉強熱心だったとは。私が噂で聞いた話では桂木少年は中等科の時から赤点ギリギリのおバカ内部生だったはずなのに。
あれ?もしかして…。
「あらっ、桂木君。もしかして貴方、赤点を取って補習なんじゃありません?」
「なっ…!」
桂木少年が目に見えて動揺した。当たりだ!
私は自分の口角がにやぁっと上がるのを感じた。
「まあっ、そう!赤点!それは大変だわぁっ。桂木君、御存じ?高等科は義務教育ではないので、成績が悪い生徒は進級させてもらえないんですのよ?そぉお、桂木君赤点を取ったのぉ。それで?追試の結果はどうだったのかしら?」
桂木少年は目を逸らした。
「えっ、まさか追試でも赤点になってしまったとか?!それは大問題じゃない!桂木君、御存じ?高等科では赤点を取り追試でも基準点を取れない場合、仮進級扱いになってしまって、場合によっては留年になってしまうこともあるのよぉっ」
実際はテスト範囲をなぞった補習を受けて、追追試でなんとか救い上げるようになっているのだけど。それにプラスして素行も悪かったりして問題があった場合には、学院側から転校や留学を勧められたりすることもある。
「うるさい…!」
「あらぁ、先輩として心配してあげているんじゃない」
今にも歯ぎしりをせんばかりの悔しそうな顔をしていた桂木少年だったが、私が手に持っていたクリアファイルを見つけると、
「そういうあんただって、補習を受けに来たんじゃないのか!」
それを聞いた私は、手の甲を口元に当ると、ほほほほほほと思いっ切り高笑いをしてやった。
「いやだわ、桂木君たら。面白い冗談を言って。私が赤点?ほほほほほ。まさか、まさか。私は参加自由の特別補講を受けていますの。赤点のない私はあくまでも自主的。貴方は強制」
「…夏休みだっていうのに、学校にきて勉強かよ。寂しいヤツだな」
「その言葉はそっくりそのまま返すわよ」
アホウドリの顔が悔しさで赤くなっている。そこに私は「大変。顔が赤点色でしてよ」と追い打ちをかけてやった。愉快、愉快。
桂木少年は私を睨みつけると、挑発するように
「唯衣子さんと円城さんは今日もふたりで出かけているぞ」
「あら、そうなの」
受験生だというのに夏休み早々デートとは。ぶったるんだキリギリスは季節外れのインフルエンザにでも罹っちゃえばいいのに。
「それより桂木君はどの教科で赤点を取ったの?優しい先輩である私が、勉強を教えてあげましょうか?」
鏑木式スパルタで毎晩夢にうなされるくらいビシバシと教えてあげるわよ。
「大きなお世話だ!」
捨て台詞を吐いて走り去る背中に、
「赤点を取ったことを唯衣子さんには話したのー?」
あ、躓いた。少しいじめすぎたかな?