あらすじ:
・数十人のコドモが作中に描かれているのに、黒人として視覚表現されているコドモはひとりもいない
・もし、博士が人種差別によってコドモに黒人を選ばなかったのだとしたら、博士が知り得ていたコドモの意味や、生物学者という立場からして、他の悪行とは桁違いの行為。その悪を暴かれ報いを受けることがない筋書きは異様
・もし、もともと黒人のいない地球を意図的に設定したのだとしたら、作中での機能を欠いた(=言い訳のきかない)グロテスクな設定で、それこそ巨大な人種差別
・もし、視覚表現の手法として人間の肌を一様に白く描いたのだとしたら、隣接作品群の肌の色彩設計との差が読み取れない
・結局のところ、「制作陣全員の頭の中から黒人なるものの存在が消えていた」と理解するほかない
・頭の中から黒人なるものの存在が消えていても誰にも気づかれることなく、地球滅亡の危機を描いた2クールのTVアニメが作れてしまう日本は、北米仕様の量産型ネトウヨにとって「楽園」「先進国」であり、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』は「本来こうあるべき」「自然で健全な」作品として担がれるかもしれない
・北米仕様の量産型ネトウヨから担がれることは、北米仕様の意識高い系から叩かれることより、ずっと悪い
1956年、フルシチョフは党大会の秘密報告で、かのスターリン批判を行った。報告の最中、ヤジが飛んだ。「そのときお前はなにをしていたんだ!」。なぜスターリンの悪行を知っていて止めなかったのか、という問いだ。フルシチョフは言い返した。「いまヤジを飛ばしたのは誰だ!」。シベリア送りを恐れて、誰も返事をしなかった。それを確かめてから、フルシチョフは答えた。「そのとき私は、沈黙していたんだ。いまの君と同じように」。(なおこのエピソードは、出どころを見つけ出せないので、信憑性は高くないことをお断りしておく)
1905年から約3年間、アウグスト・クビツェクは、十代後半のヒトラーと友人だった。独裁者となったあとのヒトラーと再会し、厚遇を受けている。戦後の取り調べのなかで、クビツェクは訊かれた。「あなたはなぜヒトラーを暗殺しなかったのですか?」。
いまから2年後の東京都民は、「石原慎太郎が東京五輪招致運動を始めたとき、あなたはなにをしていましたか?」と訊かれるだろう。20年後の(現)西側諸国の人々は、「ドナルド・トランプが世界を破滅させていたとき、あなたはなにをしていましたか?」と訊かれるだろう。
「そのとき私は、愚痴をたれていたんだ。いまの君と同じように」。そう答えるために、ひとつ愚痴をたれておく。
1970年代後半までの「オタク」の様相は、現在とは異なっていた。ひとつの「文化」がこれほどの短期間にこれほど変容することがありうるのか、と考え込んでしまうほどに。旧「オタク」のエリート的な雰囲気は、岡田斗司夫などの本に詳しい。すぎ恵美子『UワクCテネ』所収の短編まんが(1980年代初頭に描かれたもの。タイトル失念)には、現在では想像を絶するような旧「オタク」の様相が描かれている。彼氏役の行動は、現在となにひとつ変わらぬ「オタク」でありながら、その心性は、作品の読解を不可能にするほど現「オタク」から隔絶している。私はすぎ恵美子の単行本はすべて読んだが、その私でも、この作品が当時どう読まれていたのか、よくわからない。
旧「オタク」時代のポピュラーSFは、空想的社会主義を思わせる。サンダーバード(1965年)とマジンガーZ(1972年)はどちらも、国家ではなく私人によって建設・運用された。宇宙大作戦(スタートレック)(1966年)の世界には、性差別・人種差別はもちろん、貨幣さえない。といっても、現在よりも発展した社会に現れてくるはずの、現在の社会にはない新たな矛盾(たとえば江戸時代には少子高齢化問題はなかった)を描くことはほとんどなかった。ポピュラーSFが思考実験ではなく、ムードや絵作りであることは、今も昔も変わらない。
1970年代後半に、現「オタク」の勃興と並行して、ポピュラーSFの保守化が起こった。宇宙戦艦ヤマト(1974年)、スター・ウォーズ(1977年)、機動戦士ガンダム(1979年)の作品世界には、空想的社会主義を思わせるものはない。初期スター・ウォーズの主要な役者は、宇宙大作戦に比べて、ルーツの多様性に乏しい。このことの影響力は、1970年代においては気づかれなかったかもしれないが、けっして小さくない。『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(2017年)のヒロインを演じたアジア系女優は、多様性を憎む荒らしに粘着された。
1970年代以来、今に至るまで旧「オタク」の巻き返しがないのと同様、空想的社会主義の復興もない。北米では、フィクション市場全般で多様性を高める動きがあるが、ポピュラーSFは反動主義者の牙城となっている。現「オタク」の大半が、空想的社会主義や多様性を憎んでいるとは思わないが、旧「オタク」のように愛好してはいないことは明らかだ。現在のフィクション市場全般と比べても、愛好の度合いは低いと感じる。
現「オタク」が旧「オタク」と違って保守的であることや、反動主義者を多く抱えていることは、北米で注目されている。上で引いた2つの記事は、氷山の一角にすぎない。これは、炎上に必要な酸素がたっぷりとある状態だ。燃料が投下されて火がつけば、一瞬にして巨大な炎となる。
こんな北米に、透明で巨大な人種差別を抱えた作品が日本から投下されたら、どうなるか。
欧米の反動主義者からは、日本は一種の楽園かつ先進国と見なされている。移民の少なさにおいて「楽園」であり、不法入国者に対する苛烈な待遇、難民認定のハードルの高さにおいて「先進国」である、というわけだ。その日本の作品が抱える人種差別に「目くじらを立てる」動きに対しては、北米仕様の量産型ネトウヨがお呼びでないのに大量に湧いて出て、決死擁護を繰り広げるだろうと予想できる。
作品が『ダーリン・イン・ザ・フランキス』の場合、その擁護はエクストリームなものにならざるを得ず、それゆえに北米仕様の量産型ネトウヨのお神輿になりかねない――これが今日の本題である。
・数十人のコドモが作中に描かれているのに、黒人として視覚表現されているコドモはひとりもいない
・もし、博士が人種差別によってコドモに黒人を選ばなかったのだとしたら、博士が知り得ていたコドモの意味や、生物学者という立場からして、他の悪行とは桁違いの行為。その悪を暴かれ報いを受けることがない筋書きは異様
博士の裁量権は大きいように見えるし、いくらかの良心の描写もある。使えないと判断されたコドモをひそかにコールドスリープで助命した件がわかりやすいが、主人公たちの部隊があまり性差別的でないことにも注目したい。「博士は悪の塊で、人種差別もその一部」との解釈には無理がある。
博士がコドモ(の遺伝情報)を選ぶにあたって、「コドモだけが生き残る未来がやってくるかもしれない」と考えなかったとは思えない。もし博士がコドモに黒人を選ばなかったとすると、黒人の絶滅を意図、少なくとも容認していたものと受け取れる。これは、作中から読み取れる博士の悪行のなかでも特大のものだ。博士は、現在の先進国とよく似た環境で教育を受けキャリアを積んだ生物学者として描かれており、優生学の愚と悪に無知とする設定を想定することは異様だ。しかし作中では、この悪が報いを受けることはないし、人種差別を明示的に描かれもしない。こんな異様な筋書きを、制作陣が意図するとは考えにくい。よって、「博士はコドモに黒人を選ばなかった」という想定には無理がある。
・もし、もともと黒人のいない地球を意図的に設定したのだとしたら、作中での機能を欠いた(=言い訳のきかない)グロテスクな設定で、それこそ巨大な人種差別
現実の地球には叫竜がいないのだから、「作中の地球にはもともと黒人がいない」という設定を想定することも、可能といえば可能だ。もし海岸の廃墟や、博士の青年時代の描写がなければ、それほどエクストリームな想定でもない。が、海岸の廃墟や博士の青年時代に見られる過去描写は、視覚表現として、あまりにも現在の現実に近い。たとえば、ロンドンの人混みのスナップ写真から、黒人の姿だけをフォトショップ加工で消しておいて、ただ「差別的なものではない」とだけ言っても通用しない。「一見すると差別的なものに見えるかもしれないが、実はこういう意図がある」という説明が求められる。しかし本作品の中からは、そんな説明はまったく見いだせない。
・もし、視覚表現の手法として人間の肌を一様に白く描いたのだとしたら、隣接作品群の肌の色彩設計との差が読み取れない
視覚表現の手法として、人間の肌を一様に白く描いた――「もともと黒人がいない地球のほうがまだマシだろう」とお思いかもしれないが、私はこちらのほうがマシだと思うし(非黒人中心主義との批判は免れないが)、汎用性も高い。物理的にはほとんど同じ色のはずの肌を、多様な色で描くアニメは珍しくない(『四畳半神話大系』など)。この作品の場合、もし手法として人間の肌を一様に白く描くならその目的は、ゼロツーや叫竜の姫の肌との違いを際立たせるためだ。しかしこの解釈は、本作品に隣接する作品群と比較してみると、無理がある。隣接作品群の多くでは、ゼロツーや叫竜の姫のような、人間と似て非なるものが重要なものとしては描かれていない。しかしそうした作品群と本作品のあいだに、人間の肌の色彩設計の違いを読み取ることはできない。隣接作品群を知らない人々をあざむくのには使える解釈かもしれないが、誠実なものではない。
・結局のところ、「制作陣全員の頭の中から黒人なるものの存在が消えていた」と理解するほかない
・頭の中から黒人なるものの存在が消えていても誰にも気づかれることなく、地球滅亡の危機を描いた2クールのTVアニメが作れてしまう日本は、北米仕様の量産型ネトウヨにとって「楽園」「先進国」であり、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』は「本来こうあるべき」「自然で健全な」作品として担がれるかもしれない
・北米仕様の量産型ネトウヨから担がれることは、北米仕様の意識高い系から叩かれることより、ずっと悪い
「制作陣全員の頭の中から黒人なるものの存在が消えていた」。それ以外の「落とし所」になりうる妥当で穏やかな説明が、まるで考え抜いた結果であるかのごとく完全に封じられているのが、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』である。
地球滅亡の危機を描いたSFアニメは数多くあるが、これほど完全に「詰んでいる」作品を私はほかに知らない。たとえば宇宙戦艦ヤマトには、日本人ばかりが登場する理由となる設定がある(ガミラスの攻撃を受けたとき国家単位でそれぞれの地下コロニーに潜った)ので、黒人(白人も)が出てこないのは当然という説明がつく。またエヴァはよく「地球滅亡の話をすごく狭い人間関係だけでやっている」と揶揄されるが、これで黒人が出てこないこともカバーされている。『ダーリン・イン・ザ・フランキス』には、そうしたカバーが、どうやっても見つからない。
日本のアニメ界では確かに、2クールの地上波という大作だろうと、「制作陣全員の頭の中から黒人なるものの存在が消えていた」ということが事故として起こりうる。
こんな事故が起こりうる環境が、北米仕様の量産型ネトウヨの目には「楽園」と映ることは想像に難くないし、北米仕様の意識高い系の目には「野蛮」と映ることも想像に難くない。もし後者に本作品を発見されて、上から目線で「野蛮な日本サブカルチャー」という批判がなされたら、どうなるか。北米仕様の量産型ネトウヨが、作品や日本のアニメ界に対する愛情や関心など微塵もないがゆえに、聖戦士として立ち上がるだろう。「愛情や関心など微塵もない」というところが重要だ。作品や日本のアニメ界など知ったことではないので、自分を聖戦士にするためだけの戦いを心おきなく戦える。
おそらくは読者諸氏も、ツイッター等の「日の丸アイコン」に心を痛めておられることだろう。日の丸アイコンのアカウントは、判で押したように(量産型!)聖戦士であり、日本に関心がない。これは日の丸アイコン特有のことではない。北朝鮮政府は長年、対外的に愛国宣伝(「北朝鮮は地上の楽園」といった内容)を行っており、世界中に愛国宣伝マンを置いているらしい。『The Propaganda Game』(2015年)というドキュメンタリー映画には、その愛国宣伝マンとして働いているスペイン人が登場する。ルーツも生まれも育ちもスペインなのに、欧州でフルタイムで北朝鮮の愛国宣伝をやっているというので、ちょっとした有名人らしい。映画を見ると、このスペイン人は、英語がしゃべれるのに朝鮮語はしゃべれない。彼が北朝鮮になんの愛情も関心もないことは明らかだ。
本作品の巨大で透明な人種差別が、「野蛮な日本サブカルチャー」を腐すためのネタとして北米仕様の意識高い系に発見されないことを祈るし、また発見されずにすむ確率は高い。しかし同じ事故を何度も繰り返していれば、いつかは発見される。
もし本作品や、ひいては日本のアニメが欧米で、日の丸アイコンのような聖戦士のシンボルと化したなら、そのときの私の痛みは、日の丸アイコンの比ではないだろう。
本作品の人種差別は、制作陣全員の不注意だけを槍玉に挙げるべきではないし、日本のアニメ界や日本全体だけでも足りない、と私は考える。現「オタク」 の保守性や、反動主義者の多さは、世界的な現象だ。
「オタク」にはほかの生き方はできない、これが「オタク」の本質だ――とは私は考えない。旧「オタク」がその証拠だ。ある日を境に、新「オタク」が現れて、現「オタク」とはまったく違う心性を生きることはありうる、と考えている。そのために私もなにかできればいいのだが、明らかに私ひとりにはそんな力はない。この記事も愚痴でしかなく、アニメ界の人々を動かせるはずがない。
だが、愚痴はたれておく。「そのとき私は、愚痴をたれていたんだ。いまの君と同じように」と答えるために。「そのときあなたはなにをしていましたか?」と尋ねてくる馬鹿に、己の無力さを知らせるために。もちろん馬鹿には知らせても通じないのだが。