現在のOCNのホームページは15年2月末に終了します!
新アドレス http://www.stfeel.sakura.ne.jp/
臨時アドレス http://stfeel.web.fc2.com/
アクセスログを見ていると、皆さん大体5分から10分は読んでくれているみたいです。
これは40年前の工作事例です。
只、これを読んだからといって作り方が解るとはおもいません。
TMSの記事はNゲージブック4にも再掲載されていますが古本市場にも無い状態。
記事自体の著作権は自分に有りますが、TMS側の版権があるのでこれを全部コピーして配布する事は出来ません。
それで再度原稿を作り直し、お蔵入りになったED71の記事を思い出し、完全版Nプラ自作マニュアルを計画しています。
ホームページでは容量の制限もあり、無料で公開するのですから何もかも全て細部にわたるまで詳しくは正直書けていません。
内容が前後、順序が変な部分もあり、2chのデマへの反論などその都度、色んな所にその時々に追加しているので余計にややこしくなっています。
上級者向け真鍮キットを販売していて、プラ板のフルスクラッチの解説まで出来ませんでした。
色々見るに付け、間違った知識で作ると変形、仕上がりの悪さなど、レジン被害の二の舞になると思います。
カッティングマシン、イラストレーターでの設計を使った方法でのtt9車両製作過程のブログを作りました。
現在の機器、道具、工具を使うプラ板自作の方法です。
http://blogs.yahoo.co.jp/kn2001feel
追加の話を少々。
面白いというか、そんな事も分っていなかったのかという話です。
ウチに入り浸っていたN君、後でK'sワークスと言う名前でメーカーを始めた。
2chではフィールのサブブランドというデマを飛ばしているバカがいたが。
ある日、『展開寸法はどうして出すんですか?』
『エッ?』『車体の断面の展開寸法なんですが』
『図面を切り抜いて帯材を巻き付ける、ただそれだけなんだが』
誤差を少なくするために2倍の図、解り易くするためアルミ粘着シートで写真を撮っている。
ペーパーの一体ボディを作った経験があればしごく当たり前の方法。
GMの側板キットの世代には解らない方法だったみたい。
その時、タツヤ模型がとれいん誌にCADを使ってとか訳の分からん方法を載せていたのを思い出した、ペーパー工作の経験が無かったからか?
今でもペーパークラフトのソフトなんかで展開寸法を出している人がいるのかも知れない。
デジタルの良い所はデジタルで、アナログの方が遥かに簡単な事もある。
側板メーカーがこんな事で一体ボディが出来なかったのか、なら、面白いけど黙っていよう。
ま、そうとう時間も経っているしもうタツヤもK'sもいないし。
昔、Nゲージで自作は無理と言われていた時代に造った残骸の一部が残っていたので一応記録のつもり。
写真を見て思い出しながら書いて、付け加えているので多少の前後、繋がりが悪いがご勘弁ください、自分は物書きではないので。
塗装が出来ないんだろうとホザイている2chのアホ共に対するモンでもない。
塗装はたしかにメンドクサイ、匂いも臭い、自分は気にならないけど周りがね。
最近だとヘタをすると異臭騒ぎになる。
車体は毎晩チョコチョコ工作ですぐ出来上がる、塗装は意を決して出来るだけまとめて日曜日に塗装!雨天順延ありだが。
どうしても出来るだけ塗り分けが楽な物を選んでしまう、真鍮キットでアルファコンチネンタルも作りたかったけれど塗装で断念した。
デカールで金線は出来るけれどユーザーがちゃんと歪まずに貼れないだろう。
最後の塗装も考えて機種選定する。
今時の子供が見れば、なーんだ、市販されているモンが多いし、市販品には及ばないレベルの出来じゃあないの?
なぜ、こんなモノを作っていたのかって?、そりゃーその時は売っていなかったからだ。
ほぼ40年ほど前の9mmゲージは車種も少なかった。(Nゲージと言われるのはかなり後の事)
当時は無い物、欲しい物は作るというのが当たり前の時代だったので。
プラ板での工作の第一作はこのDD51、ペーパーで造ろうとしたがボンドの乾燥が遅く形をまとめるのに苦労した。材料をプラ板でやると接着が速く気持ちよく工作が進められた、40年前。
試行錯誤しながら問題点を洗い出して以後の作り方のスタンダードになった。
今見れば第一作に面倒な塗装をしている、DD50、DF50は白のテープで誤摩化しているというのに。
一番後ろのEF81はコンペに出し、TMSに掲載されたモノ、トミックスをディテールアップした物、前面窓がグレーのプラで目隠しされていた初期のバージョン全塗装し直している、ボックス動輪の表現(こういう今までやっていない事をやるとコンペを通る、ED72も有ったが貰われて行った。
最初はホントに実験的に作っていただけ、作った物を見せる様になったのはマッハのお客さんが集まってNのクラブを作ってから。
DD51の動力はKATO初代103系の動力ユニットを使った片台車駆動だった。
鉄道模型趣味 1982年3月 413号 プラ車体製作技法に掲載されたのは自作車両のほんの一部。
当時、TMSはNゲージの自作は無理!羽田次郎(当然ペンネーム)だかの切り継ぎを勧めまくっていた頃。
色々、見せられたが無理な切り継ぎで凸凹な側板、KATOの車体はABSなのにABS用接着剤を使わずに瞬間接着剤を使う、そりゃー平面が出る訳がない。
無理と言われている自作をクラブでは中高生でも作っていた訳だから、切り継ぎが一段落と言うか、さすがに無理が出て来て、プラ車体製作技法として掲載されるまで3年かかった。
クモハ157、キワ90の生地完成と言うか未完成、クモハ157は先頭2両作ったところでGMがキットの発売予告を出したのでストップした。
キワ90は雨トユが歪んでいたので貼り直すのを失敗、そのまま放置。
そうとう時間が経っているので若干黄ばんでいるが生地完成の状態、色を塗っていないのでベンチレーターも自作しているのが分ると思います。
プラ自作の生地完成状態は全部真っ白、なかなか奇麗でなおかつ全部プラ板からのフルスクラッチというのが誰にでも分るだろう。
塗装してしまうとせっかくの自慢出来る部分が隠れてしまう。
工作が出来ない人にはイヤミと受け取られるかも知れないが、作れてしまうんだからしかたがない。
この程度のモノなら毎晩2-3時間の工作で3日程で生地完成までしていた、習性のように量産していた。
プラ板の工作で失敗、変形するのはラッカーシンナーで接着するから、記事にはアクリル用の接着剤をと書いていたハズ、アクリル用の接着剤を使っていたから40年経っても変形、ヒケなど無く現存しているのです、肝心な所、Pカッターでの筋彫り、アクリル用の接着剤さえ守っていれば失敗はしないはずです。
基本的にパテなどで修正するのは生地完成の時点での失敗に等しい、エッチングキットでも出来るだけ表面に継ぎ目が出ない様に構成、構造を考えている。
鉄道模型 プラ板車体 自作?ネット検索してみるとまあ、あきれるような質問、フザケタ回答、呆れ果てる。
粗が見えない様にちいーさいブログの写真、パテだらけの車体、間違った引き写し。
ドアのみ裏から取り付けていると暫く経つと絶対に側板がボコボコに波打つだろう!
裏からPカッターで下彫りするのは0.5tを0.3tのごとく軽く切り、窓が横一線に奇麗に並ぶ様にするため。
アクリル、塩ビ用接着剤を使うのは歪み、ヒケを起こさないため。
プラモデルの様な硬いスチロール樹脂の場合はラッカーシンナーでもいいのですがタミヤの柔らかいプラバンでは絶対ダメ!
ラッカーシンナーは乾燥が遅く0.3tと0.5tを張り合わせると薄い側に反りが出たり、0.3tの方にヒケが出ます。
コーナーも内側角に接着剤を流し込むがやはりコーナーが収縮して変形するので床板を直ぐに入れて置いたり、塗装を速くしておくと経験上変形が少ない。
詳しくは高分子の専門家ではありませんがラッカーシンナーの分子が大きくスチロールの分子を通り抜け難く時間が掛かるため変形、ヒケの元になると思っています、あくまで自分の私見ですが。
変形を予防するため出来るだけ0.5tを使う、側板は外板、内張りとも同じ板厚を使う。
乗務員ドアは0.5tでは凹み過ぎるので面倒でも0.3tのドアをはめ込んでいる、結果0.2mmの凹みで丁度良い感じだと思う。
キハ44000、キハ06は窓抜きが多いので0.3tの2枚合わせ、それでもPカッターで下彫りをしている正確になるし半分の力で楽々切れる。
プラ板を切った事が有ればカッターで切れば切断面が盛り上がっているのが解るだろう、今、当時は無かったデジタルノギスで計ってみた。
0.3tは実測0.32t、切断したメクレ上がりを測ると0.42tだった、0.5tは実測0.51t、切断後は0.68tになっていた。
0.5tを一発では切れないだろう、裏からPカッターで下彫りしておけばV溝がガイドになり定規を当てずに一発で切れる、結果速く、奇麗に切れる訳、メクレをペーパーで削るのも少ない、良い事ずくめなのだが。
普通のカッターナイフは刃の厚みが0.45mmぐらい、今は刃の厚み0.2mmが楽に入手出来、普通のカッターより力が少なく切る事が出来る。
屋根のカーブもプラ板を机の角などに押し付けてしごけばカーブが付いてくれる。
肝心なコツなど隠さずTMSの記事を書いたけれど31年経っても少しもプラ自作は進歩していない、どうしてなんだろう?
自作の小径丸ノミたぶんコレが作れなくてコーナーRをドリルで先にあけているんだろう。
ドリルを四隅に正確に開けられるか?無理、絶対ビビって内側に開けて修正に時間が掛かるはず。
この丸ノミの作り方も記事に書いています。
自分はR部分を残して直線を先に全部切る、最後にこの丸ノミでコーナーをPカッターで下彫りした線をガイドにプチプチと押し切って行くとポロポロと窓が抜けて気持ちが良いのだが。
この丸ノミは当時のクラブの中高生でも作れていた簡単なモノ。
今は1R、1.5Rの丸ノミが売っている、これで四隅をドリルで開けるなんてバカな事をしなくて済むだろう。
上のキワ90のベンチレーター、ファンは歯科用レジン製(ユニファースト)キハ82のコピー、このレジン、今は小分けされてプラリペアという商品名で販売されている。
歯科用のシリコンゴムも今は手軽に通販で買える、歯科用の型取りシリコンは硬化が5分ぐらいと早い、気が短い自分には便利。
歯医者さんで歯の詰め物にユニファースト『ちょっと臭いですよー』と歯科助手のおネーサン、大丈夫、気にしません、持ってますからと言う訳にもいかず黙って言いなりに大人しくしてます。
歯科用の紫外線硬化樹脂、なかなか便利そうなのでタミヤのを買っているのだが紫外線ライト(ブラックライト)を買っていないのでまだ実験出来ていない。
タミヤの紫外線硬化パテはどうやら歯科用レジンの小分けのようです。
面倒臭いキハ10系の窓をなんとか楽に作る方法は無いかと考えたのがこのパンチ!、ようするにプレス抜き。
黒い方が古いヤスリから作ったメス型、真鍮製のオス型、型を抜く為の洋白のプレート。
タミヤのプラ板では粘り付いてダメだったがエバーグリーンの0.3tシートでは抜けた。
色んな10系の側板を打ち抜いて当時のクラブ員に配った。
なんでDF50やEF58なんか作ったかって?そりゃあその時は売っていなかったから。KATOのEF57の発売前だったので動力はEF65を2つに切って片台車駆動にした(当然台車枠も自作)。
DF50はKATOキハ20の動力を使った片台車駆動、台車枠は遠目で見て似ているTR-50で誤摩化していた。
片台車駆動がダメなのは昔にこういうのを作って経験済みだったので。
新成当時の写真がようやく見つかった、台車も付いて動いていた時の物。
DD50、後ろのDD50は大昔のペーパー製、表面がどうしてもザラザラでシャープな感じが出ない。
ペーパーはまあ材料も安いしなじみもある、切り易い感じもする、側板、屋根一体ボディーはサフェィサーを塗ってペーパーがけを繰り返す。
下地を整えるのに時間が掛かる、十分にサフェィサーをしみ込ませた紙だったらプラ板の方が手間がかからないし窓隅のヤスリ修正も効く。
窓さえ楽に切り抜く方法を開発すれば楽チンで良い事ずくめと思った。
ペーパー製のDD50なんかは真鍮板を切れない糸鋸で切り出し、GMキハ05の動力の様な物をつくった。
TMSに載ったキハ44000、台車も原型を作ってレジンコピーで量産、TMSでは傾いているが(なかおゆたか)が写真を撮る時に台車を捻って壊し、勝手に補修したため。
この44000はプレス抜きではなく手抜き、ではなく一個づつカッターで切り抜いた物。
キハ06はフルスクラッチ、後ろのキニ05はGMキットをディテールアップしたもの、車輪を中村精密のスポーク車輪に交換している。
クモヤ190系、キャブはプラモの改造コピー、宮沢が広告用にどうしても完成見本が欲しいというのでこの昔のプラ自作品を渡した。
エッチングキットはまだ試作、設計中だったので。
キハ55の残骸、2両作ったがJNMAの一回目の時に予定品として展示していた物。
ベンチレーターなんかはパーツも無い時代だったので四角いプラ板。
車番はインレタなんか無い時代、それらしく描いたり、点々を描いたり、まあ、それらしくがモットーなので。
キハ58系、たしか全部で5両、量産したが残っている残骸はこれだけ、クーラーは面倒なので冷改準備車、手抜きだねー。
キユニはクーラーをそれらしく自作している、4個ぐらいが限界、まだコピーの技術がなかったし。
EF30の一号機、比較的真面目に作ってある、台車枠もそれらしく加工しているので見せる為の努力が見える。
集電はアルミ粘着テープを使ってインチキな事をしている、赤帯はテープ、なんと、メーカープレートまで手書きしていた、この時だったら米粒に文字が書けたかも知れない。
で、米粒を置いて見た(大きい米粒を作ってないよ!)、ブッツケ本番でやり直しが出来ないのでもう少し練習すべきだったか?
さすがにこれだけ拡大すればフィルターなど各所に荒れが見えるがまず普通に肉眼で見れば気にならないだろう。(1/150 Nゲージ)
なぜ?真鍮キットを出さなかって?そりゃあ銀塗装の難しさを知っているから。
銀塗装は下地をよほど奇麗に作っておかないとヤスリの痕、傷が目立ってしまう、真鍮キットの完成品なんか不良品の山で自滅する。
セキ3000の量産、10両、プラ板と台車だけなので安い、必要なのは根気と根性、コレは黒なのでペタペタ筆塗り、レタリングは適当なフリーハンドの手書き、もちろん当時は完成品は発売されていない。
こういう貨車は数で誤摩化す、機関車だとじっくり見られるから。
レサ、これも売ってはいなかったから作った、窓の無いモンは楽、黒文字のレタリングはまだ楽、ロットリング(製図用のペン)が使えたから。
ホキ2種類、後ろはペーパー製、手前はプラ板製。他にもシキなど作ったが現存していない。
プラ板で窓を切り抜けないのなら貨車から始めれば良い。
真っ直ぐ直線、直角さえ線を書け、ほぼその線に沿ってカッターで直線が引ければ誰にでも作れる。
窓の無い貨車は楽チン、板厚の1/3から1/2の切り目を入れておけばパキッと折取れる、昔のガラス切りの様に。
材料の真ん中に配置した部品であっても端から端まで一直線に切り目をいれるのだよ、初心者は材料をケチってはいけない。
1.2mmはまずPカッターで直線を引く、その後普通のカッターでもう一度同じ所を引く、後はプライヤーで少しずつ折進んで行く。
今は希望材料に近い物が帯材などがあるから楽だけれど、厚い(1.0mm前後)帯材の切断もカッターで傷を付けてプライヤーで折り取って。
今はプラストラクト製で丸パイプが沢山売っているし両端の鏡板も各種ある、チャンネル材もあるタンク車なんかなんでも作れてしまう。
直径が合わなければプラ板を曲げ癖を付けておいて巻き付けるとか色々考えられるだろう。
両端の鏡板もバキュームフォームすれば板厚分大きく出来るし、カーブの形状を修正しておけばどんなモンでも作れる。
TMSコンペに出したED71のプラ板製の原型。原型なので丁寧に作ってある、Hゴムもプラの帯材を使って表現、屋根上モニターにリベット(ボルト)を打ってある。
Hゴム部はプラ帯材をぐるりと一周させて接着するのだが角の部分が折れるのでちょっとしたコツとアイディア、材質が必要、非常に文字にし難い。
シリコンゴムで型取り、プラキャストを流し込み、GM板キットの様にしてみた。
プラキャストを流し込む時の気泡と事後変形はこの時の経験があるから。
どうしてこんな方法で作るのか?鉄道模型は保守的で新しい事にはあまり理解を示してくれない。
自分のコンセプトは楽に作る!
自家製のキットを作りたかったという実験!
前面、側板、は原型一つで良い、其の分丁寧に作れる。
要するに横着な作り方なのです。
側板が1.0mmと薄い為、初期変形が速く出て来た。
車体が馬の背のように歪んだ、車体内に心材を入れてドライヤーで少し熱して歪みをある程度は修正出来たが根本的な解決法では無かった、後ろの前面が縮みに耐えかねて外れている、床板もレジンだったら割れないけれどホイルベースが変わっただろう。
TMSコンペに出したED71は重連、一台は変化を付けるためブタ鼻に、これはどこかに貰われて行った。
DD53は手元に残っていない、マッハ模型のお客さんに欲しいと言われコンピューター代の一部になってしまった。(PC98F2だったか)
DD53の写真が出て来た。
上がエッチングキットのDD17、下はレジン用の型からホワイトメタルで保存していた物、Hゴムが潰れてしまっているが塗装済みでは解らないディテールが解るでしょう。
DD17,鉄模連のコンペに出したものがとれいん誌に掲載された。
この後、TMS(なかおゆたか)に二重投稿だー!!!とマッハ模型の店内で大声で言われたが意味不明。
TMSにはED71の製作記事(これはお蔵入りになってしまった)、同じ作り方で同じ人間が別形式のDD17を作って、記事ではなく、ただの鉄模連のコンペに出したら二重投稿??
当時はTMS、とれいんは犬猿の仲、鉄模連のコンペ発表をとれいん誌に持って行かれての八つ当たりだった。
TMSが鉄模連のコンペ発表を取れていれば言いがかりも付けられず、ED71の記事も掲載されていたかも知れない。
(なかおゆたか)と松憲、だいぶん後の大阪のイベントで仲良く対談しているのを見かけた、ばかばかしい、当時、TMS、とれいんの間で被害を被ったモデラーが他にも結構居た。
DD17はED71と同じく原型を作ってのレジンコピー、たしか鉄道ファンに新車発表の図面と写真が載っていたので直ぐに作った、1983年製だから丁度30年前。
本が発売されたのが4月だったか、ゴールデンウィークの丸々5日間で原型をデッチ上げたと記憶している。
原型はプラ自作の集大成、板厚の違うパーツをはめ込んでフィルター、ベンチレーターを表現している、後で数えたら前面だけで70ほどのパーツ数だった。
当時、タミヤは0.3、0.5、1.2の3種類、エバーグリーンは0.25、0.75とかが有ったので0.75に筋彫りして0.5tにはめ込むと0.25の浮き出したベンチレーターになるという構造。
ロータリーはだいぶん後に新庄に行って現物を見るまでどうなっているのか訳が判らなかったのでパス!
ロータリー部はエッチングキットでリベンジするまでは喉の奥に刺さった魚の骨。
ED71の経験でレジンの事後収縮を抑える様に板厚を分厚くしたのである程度は初期変形を抑えられたが全体の収縮はその後も止まらず動力が抜けなくなった。
レジンがダメだと言っているのは20-30年前に作って収縮を経験し、経年変化のDATA(現物)を持っていたからだ。
DD17は阪神大震災の時、落下して以来そのまま。
このDD17はオレンジ色の所為か机の上に置いておくとよく手に取られた、止める間もなく持たれて2回ほど落下して補修、すぐ触ったり、持ったりするヤツに限って良く落としたりする。
マッハに展示されていたのだが引っ越すと言うので引き上げた為、かえって震災に遇ってしまった。
そのまま預けっぱなしだったらちゃんと梱包されて無傷だっただろう、まあ、このDD17はそんなモンです。
作った物は壊れる、作っている時が楽しければ良いと思っていたので出来てしまうとあまり執着しないので譲ったりしてしまう。
今はダンボール箱に裸で放り込んでいるので貰われて行った方が幸せだったのかもしれない。
自分の場合、印刷物になって当時の状態で残っているのでまだ良いんです、オモチャのコレクターには理解出来ないだろうけれど。
当時は図面と写真があれば適当にほぼそれらしいモンが作れると思っていた。
DD17でディテールをエスカレートさせてしまうと次はコレ以上を目指さなければならなくなり段々シンドクなった。
工作と言うのは厄介な物で、ある程度のレベルで作り続けられていれば楽しかったんだろうけれど、エスカレートさせてしまうと突然作れなくなってしまう、自分の場合ですが。
初期の頃のようにあまり凝らずに粗製濫造している方が楽しかったと思う今日この頃。
フルスクラッチの最後の車両、二重投稿?の言いがかりもあったので以後どのコンペにも出さなくなった。
TMSコンペに出したED17、しなのマイクロ製(真鍮エッチング製)をディテールアップしたもの。
これの手すりは白色でなく灰色9号を塗っている、色を落ち着かせる為。
ヘッドライトがモゲてしまっている、ベンチレーターを貼り重ね、アンダーフレームを作り直し、デイテールアップ。
ウエザリングは程度が難しい、コンペにでも出さないと窓ガラスも入れない塗装後の奇麗状態で遊びコンペなどを理由にウエザリングしている、窓ガラスも完成前に入れる、それまでは透明度100%、経年変化で汚しとは違う、
コンペではサラリとやっていないと審査の時の白バックの前で浮いてしまうのでやりすぎない事、ウエザリングの出来たレイアウトの上に置く為にはウエザリングが必要、見せ方、によってウエザリングの程度を決める。
コンペに出す時はウエザリングが必要、なのでハンドピースで架線の汚れ、車体下部、台車の汚し、かるーく錆色をタッチアップ。
これだけではさすがに無理だろうと思ったので急遽貨車3両をデイテールアップしてセットにした、コンペ用の作戦!
よくマッハ模型にコンペに出す様に頼まれていた、コンペの受付店なので数が必要でサクラみたいなモンで決してコンペ用に作っていた訳でもない。
その時に出来の良い物をみつくろうか、最短で完成に持ち込めるものを選んでいた。
コンペ用には窓ガラス、ナンバー、細部工作の追加、ウエザリング、なかでも一番面倒なのがデターシートの作製、作ってから時間が経っているので行程を思い出すのに苦労した。
当時のコンペは16番、ナロー、その他、Nも同一に審査だったので上位など望むべくもなく、Nでコンペに出すなど無謀以外の何でも無かった。
コンペも回数、慣れてくると多少は人と違う事をするなど少しは意識はしたのですが。
コンペはまず見てくれが第一、第二が車種、特徴、ギミックがあるか?
フルスクラッチでTMSでコンペに通ったのはDD53、ED71だけだったと思う、デイテールアップの方が労力の割に通り易い。
とにかく仕上がりが第一、ある程度回数を出しているとデーターシートの名前も審査に有利に働くだろう。
地味な車両であってもコンペ常連者なら何処が今回のポイントかをデーターシートから読み取ってくれる。
毎回の努力賞?もっと努力しましよう?宝くじの末等のようなモンです、写真が掲載される分マシだったか。
自作のE10、キャブ、煙室扉、煙突、ボイラーなどKATO製初代C62から流用、なんとか動く所にまではしたが、行き当たりばったりの現物合わせの切り継ぎ。
塗装前は白黒のパンダ状態、ボイラー、キャブはC62の部品なので黒、レジンパーツはベージュ、手すりは真鍮、デッキ、サイドタンク、コールバンカーはプラ板なので白、こういう恥ずかしいモノは缶スプレーでとっとと誤摩化す。
良く覚えていないが動輪はエーダイ製の改造だったか、完成前に休車。
C62はナンバーがシールの最初期のバージョン、SLマニヤからは勿体ない事をと言われた。
震災でデフが壊れたD51
完成時の写真が出てたので追加です。
このD51も被災車両、長らくマッハで展示されていた、この頃はディテールアップもエスカレートして来て特定ナンバーを作るなんていう事をやっていた。
完成品のデイテールを削り落とし、手すりを替え、モーターを交換し、乗工社のなめくじパーツを付け、コンビネーションレバーなんかも自作している。
テンダーも改造してある、重油タンクはもちろん自作、石炭も積み直している、テンダー間を詰めるためドローバーも短縮している。
こういうのも作っていたのでキャブ下の配管セット何て言うパーツを作った訳です。
デフが壊れているのですが当時はこういうデフの手すりが簡単に取り付けられた、今はローガンでルーペを付けても出来るかどうか?
鈴木氏の足下にもおよびませんが。
C622、ネガカラーで撮った古い写真が見つかった、壊れる前の状態、他のクラブ員の車両写真も見つかった、ただあまりにも古い写真なので見れる様にしてもこれぐらいが精一杯。ネガは阪神大震災で焼失したので手元には退色したプリントしか残っていないので。
かるーく2号機のつもり、テンダー下部の結露のウエザリング、デイテールアップなど当時としてはやれるだけやっている。
コンビネーションレバーなんかも当然のごとく追加している。
このC622を見て、負けず嫌いの高瀬君がこりにこってC622を作りTMSに掲載された。
東京でのイベントで鈴木氏と話しをしたら高瀬君のC622に触発されて作って来たと伺いました。
その時、鈴木氏の製作途中のSLを撮影しました、塗装前なので何処をどうしたのかが良く解るので鈴木氏の了解が得られれば何処かでお見せ出来るのかもしれません。
自分としては無理矢理切り継ぎするよりフルスクラッチの方がはるかに楽だったし、切り継ぎより、他人の評価はフルスクラッチの方が圧倒的にポイントは高かった!
製品の種類が増えて来たし、使える部品も増えて来たのでフルスクラッチから製品のディテールアップへ。
香港トミーのED61をED62へ改造、こういうどうしょうもない古いモンの方がいじりがいがあって面白かった。
トミーのDD51も厚ぼったい塗装を落とすとなかなかシャープなディテールをしていた。
強引な改造で一号機にしたり、スプリングウオームをKATOのキハ20のウオームに交換して動力の改良もしていた。
今ならこういう窓は裏からテープで塞いでおいて例のタミヤ紫外線硬化樹脂を流し固めればぴったりの窓ガラスが出来るかも知れませんね。
これは間違いでした、タミヤ紫外線硬化樹脂硬化パテはベージュというかクリーム色、歯の色でした。
中間台車枠は津村氏の記事に載っている物、プラ板で原型を真面目に作った、これがED71、DD17の原型にエスカレートしていった。
部品、台車の原型を作れるるのはこういう事をやって来ているから、プラが真鍮に替わり、鉛筆のケガキがイラストレーターでの原図作成に替わっただけ。
以後のディテールアップは手すりを切り落とし、切り落とした後はタッチアップで済ませ、出来るだけ全塗装をしない方法に変わって行った。
当時はプラ板製で納得出来るユニットサッシの表現が思いつかなかった、楽で効果的な方法というのが。
今ならカッティングマシンでユニットサッシュを切り出して貼付けるなんて言う事が出来そう。
0.1t、0.2tのプラペーパーも容易に入手で来ます。
フルスクラッチでは避けて来たユニットサッシの表現などはエッチングが使える様になったから。
Mac、イラストレーターでの設計、作図で昔からの現物合わせとは比較にならない精度で作れる様になった。
別に苦労はしてないけれどせっかく作った物を嫌と言うほど製品化された経験を持っている。
エッチングキットではプラ自作の経験があつたので大手がやらないであろうマイナーな物を作る様になった、まあ、中国製オモチャに荒らされるのは想定外でしたが。
40年以上昔の9mmの黎明期を知っていなければこれらは理解不能だろう。
こういうモノも面白いと見てくれる人も中にはいるだろう。
昔はこういうモノでも良かった時代、今はローランドのモデラーを使うとか、レーザー加工機、光造形を外注する、アルプスのプリンターで表記も作れる、レーザー加工なんかはTT9に使える方法ですが組み立て方を理解されていないとつかえません、
試作品のホワイトメタル製DD50の側板、GMのキットすら作れない人はこういうのでも駄目だろう。
メタルが柔らかいのでキズが付き易い、材料が薄いと曲がり易いなど1/250では使えるかもしれない
簡単なキットを考えたこともあるがどんなに簡単にしても作る気のない者やヘタクソはつくれない。
過去の栄光?、一発屋でも良いじゃない、何も無しの能無し2chより。
自分なんかは個人として何度もコンペに通り、何度もTMSに記事が掲載され、FEELとしてキットを発売し、作れる人には良い評価をいただいています。あげくZゲージまで商品化してしまった。
昔から色んなアイディアを出し続けて商品を作りつづけて続いているし、何十発と販売している、文句はないだろう、これでも言えばただの能無しのヒガミ。
ローランドのモデラーでもヘタをするとケバだって始末が悪い、刃先が熱を持つので溶け易いタミヤの板ではなくエヴァーグリーンの板、フライスの刃ではなく半月カッターを使えば奇麗に削れただろう、段差はボールエンドミルを使えば等高線にはならない。
昔は昔の作り方、今は新しい機材(光造形、レーザー切断、カッティングマシンなど)、材料が何でも簡単に通販で手に入る、完成品のコレクターも良いかも知れませんが、ちょっと工夫して調べれば市販の完成品レベルの物を誰でも作る事が出来る時代だと思っています。
その場の思いつきでガレージキットなど作るべきではない、タツヤが良い例だった、レジン、モデラーでのケバだったプラ板コンテナ。
ウチでも試作で終わったり、上のDD50の側板など、試作、最終設計でボツにしたものが数多く有る。
十分な検証が出来ていないと収拾が付かなくなってしまう。ED42などアイディア段階で見せるとワールドにパクられたりする、
骨格というか本体はレーザーで切り出し(テスト済み)カッティングマシンで切り出した外板を接着すればローガン+精度劣化をカヴァーして1/250の自作が出来るかもしれない。
これを書いた事で昔クラブ員に配ったプラ自作方のコピー原稿を送ってもらった。
続、自作
他にも当時のクラブ活動の資料、活動内容、議事録が残っている事が判明、見せられる範囲内でお見せ出来ると思います。
TMSの原稿の元になった手書きの物、TMSに載る3年前のもので当時中高生でも作れていた。
今見れば恥ずかしい手書きの生原稿といえるような物ですがワープロも無い時代なので汚文字ですが著作権、版権には問題無いので次にお見せします。
今回、自分の物も含めクラブ員だった作品の写真も発見できた、クラブ用組み立てレイアウトの写真は出てこなかったがレールジョイントの残りの現物も出て来た、今みたいにイージーにユニトラックをジョイトの代用に使えなかった時代、強度、精度を考慮したアイディアジョイント。
たしか7線のヤードを一発接合出来た!
今回はクラブ用組み立てレイアウトなど漏れた物、思い出せなかった事が多く、まだまだ纏めきれなかったので続編をまとめます。