端的にいえば、奇策の理由は「日本が弱いから」、それに尽きる。

 グループ内での日本の国際サッカー連盟(FIFA)ランキングでは最下位、一方、相手のポーランドは8位の強豪国である。冷静に考えれば、コロンビアがセルビアに失点を許すよりも、日本がポーランドから得点する可能性が低いことは自明だ。

 つまり、日本は、戦術というよりも、コロンビアにすがった賭けに勝ったにすぎないのだ。そもそも、あの奇策の採用こそが、自らの弱さを認めているに他ならない。

 ただ、勝負は結果が全てだ。決勝トーナメント進出という結果を残した以上、それが賭けであろうと、西野朗(あきら)監督の采配は成功したといえよう。

 とはいえ、気になるのはFIFAの規定だ。

あらゆる試合は勝利を目的とすべし。
勝利を目指さないことは、相手を騙し、観客を欺き、自らをおとしめる行為に他ならない。
強敵に対しても最後まで諦めず、弱い相手にも手を抜かず、全力で戦わないことは、いかなる相手であろうと侮辱にあたる。
終了の笛まで、勝つためにプレーすることを求める。

 観客からのブーイングや内外のメディアからの批判も、この規範を読めばうなずけないこともない。

福井・本覚寺にある等身大の親鸞聖人座像

「他力というは、如来の本願力なり」。これは、親鸞(1173-1262)の主著『教行信証』「行巻」にある言葉です。親鸞の言葉の中でも、最も大切な意味を持つものの一つと言えるでしょう。「他力の信心」や「他力をたのむ」などは、親鸞思想の根本を表現したものであります。 (中略)「他力」とは、例外なく阿弥陀仏の本願力を意味します。しかも「たのむ」とは、「あてにする」という意味の「頼む」ではなく、「憑む」という漢字を書きます。これは「よりどころとする」という意味です。つまり「他力をたのむ」とは、「阿弥陀仏の本願をよりどころとする」という意味なのです。

 西野ニッポンは自らの弱さを認めている。その弱い日本が、「他力本願」(本来は誤用)という奇策を見つけ、採用したことは批判されることではないと考える。

 1試合の勝ちか? 大会の勝利か? 親鸞上人の他力本願とは意味は違うが、コロンビアという力をよりどころにした日本の勝利は、十分に戦略的であり、批判されるべきでないと考える。

 弱いチームは、弱いチームなりの戦術があってしかるべきだ。それこそが4年に1回のW杯を面白くしているのではないか。