「低能先生」を凶行に駆り立てたネット民の闇
匿名コミュニティによる正義追求の恐ろしさ
松本容疑者が低能先生であったのだとするなら、彼は(自身のトラックバックでも書いているように)複数の匿名利用者から集団リンチを受けているように感じていたのではないだろうか。
匿名サービスでは、それが一人なのか、複数なのかはわからない。書き込みの傾向や書き込まれる時間などで、同一人物なのかある程度は判断できるものの、自分に対する攻撃が繰り返されているうち、ネット社会における自分の人格を取り巻くすべてが敵に見え、まるで結託しているかのように思えるのだ。
「追い詰めないこと」が大切
数年前、筆者はネット上で活動する特定のIDに、毎日のように誹謗中傷のツイートや加工した画像を投稿された経験がある。その加害者IDのターゲットは筆者だけではなく、ある携帯電話事業者に対して批判的記事を書いた人物全員であった。
この加害者IDは偶然も重なり、自分が敬愛する携帯電話事業者の経営者とTwitter上でつながりを持つことができた。その携帯電話事業者がTwitter上でのアンバサダーマーケティングを行っていた時期、ファンを公言してやまなかった彼とのやり取りをマーケティング戦略上、利用していたからだ。ところが方針変更もあって関係が希薄になると、少しでも批判的と捉えられる記事を書いているジャーナリストを罵倒しはじめ、この経営者との関係を保とうとし始めたのである。
当然、筆者も含めて反論、反証したものは多い。彼の行為は毎日のように繰り返され、エスカレートしていったため、その分だけ彼のところに届く批判はこの件とは無関係の人物からの返信も含め、増加していった。そのため、何らかの集団からリンチされているように感じたこともあったようだ。
筆者はこの追い詰め方はまずいのではないかと感じた。そこで、最終的には彼自身がかつて明らかにしていたアドレスに筆者自身が連絡し、穏便に引き下がってもらうよう、彼の周囲とともに説得に乗り出した。彼の脳内では自分の行為が正当化されているため、どんなに温和な説得や言葉であっても「何か大きな見えない圧力で攻撃されている」と解釈するため、非常に厄介な経験だった。
この経験から、ネット社会では精神的に追い詰められていく過程で、自分の敵を過大に見積もる傾向があることがわかった。「追い詰める快楽」に酔っては危ないようにも感じた。
ネット社会の特殊性は、可視化されにくい情報が多いということだ。不足する情報を人間は推測で補完しようとする。現実社会よりも圧倒的に情報が少ない中で補完する情報が過大になってくると、事実関係と自分自身の認識の乖離が進み、さらに追い込まれていくのだ。「周りは全員が敵で、自分を抹殺しようとしている」というように。
今回の痛ましい事件の教訓は、「異常な行動を取っているように思える見知らぬ人物の凶行に気をつけろ」ということではない。そうではなく、「凶行に及ぶようなところまで相手を追い詰めないこと」が大切なのではないかと思う。