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鏑木の様子がおかしい──。
正確には、鏑木が私を避けている。
朝の掲示板で私と目が合った時にすぐに逸らしたことから始まって、廊下やお昼の食堂ですれ違った時もサッと顔を背けられた。まるで私と話したくない、関わりたくないというような態度に、なにか皇帝を怒らせるようなことをしたかと不安になった。
だから午後の休み時間に円城を捉まえて、廊下の端で聞いてみた。
「円城様。私は鏑木様の不興を買うようなことをしたのでしょうか?」
「僕はなにも聞いていないけど。どうして?」
「今日は朝から避けられている気がするのです」
元々、フレンドリーに「おはよう!どう調子は?」なんて軽口を言い合う間柄ではなかったけれど、こうもあからさまに無視されることもなかった。
円城も特になにも聞いていないらしく、顎に手を当て「う~ん」と首を捻った。
「試験休み中に雅哉と会った?」
「いいえ」
最後に会ったのは期末テストの最終日だ。それからはメールも来ていない。
「あ!」
「うん?どうしたの?」
心当たりがひとつだけあった!
「私がテストの反省会を欠席したから怒っているのでしょうか?」
しかも挑戦的なメールの返信までしてしまった。
「まさか。そんなことを何日も根に持たないでしょ」
円城に笑って否定されたけど、でもそれ以外に心当たりは全くない。テスト最終日までは今までと同じ態度だったんだから。
「大体、雅哉だったら怒っていたり不満があったら、すぐに言ってくると思うよ」
「それは確かに…」
鏑木なら私に文句があれば休み中でも平気で呼び出しそうだし、顔を合わせる機会がなければ怒涛のメール攻撃をしてくるはずだ。
「本人に聞いてみたら?」
「鏑木様にですか?」
「うん」
気軽に言うけど、私に対して怒っているかもしれない鏑木に直接聞くって、かなりハードルが高いよ。虎の尾を踏むことになりかねないんじゃないかな…。
「僕も多少手を貸すよ」
「円城様がですか?」
「うん。本当に雅哉が吉祥院さんを避けているなら、僕もその理由が気になるからね」
理由によっては私の味方になってくれると円城が言ってくれたので、私は放課後に鏑木に問い質す決意をした。このままずっと鏑木に無視されていたら、私の学院での立場も危うくなるしね…。
そして放課後になり、ピヴォワーヌのサロンに行く途中で鏑木と円城を見つけたので、小走りで近づいた。その足音に気づいて私の姿を確認した鏑木は、またもや顔を背けて私から距離を取るように歩調を速めた。
「鏑木様!」
「…なんだ」
渋々といった態度で振り向いた鏑木は、露骨に顔を顰めて眉間にシワを寄せていた。怖い…。
でも鏑木の隣に立つ円城が私に頷いてくれたので、気を強く持って
「鏑木様、お話があります」
「俺は忙しい」
バッサリ切り捨てられた。え~…。
そのまま私を置いて歩いて行こうとする鏑木を、円城が引き止めてくれた。
「雅哉、吉祥院さんが話があるって言っているんだから聞いてあげなよ」
「うるさい!秀介は黙ってろ!」
怒鳴られた円城は目を丸くした。
…さすがにこれはおかしい。
私ばかりかなんの非もない円城にまで怒り出すとは、これはなにかある…。私は目を眇めた。
「鏑木様」
「…なんだよ」
「いいから、ちょっと来てください」
「はあ?なんで俺が…!」
円城が「まぁまぁ」と私に加勢して鏑木の腕を掴み、いつもとは逆に私が小会議室に鏑木を押し込めた。
出口を塞ぐように円城がドアにもたれたので、鏑木は舌打ちして、
「で、なんだよ。忙しいんだから用件があるならサッサとしてくれ」
鏑木は相変わらず、私の目を見ない。椅子にすら座ろうとしないのは、早くこの場を去りたいからだろう。
「鏑木様。私、鏑木様に言われた期末テストで30位以内に入るというノルマをクリアしたんですけど」
「だからなんだ。30位以内に入るくらい当然だろう」
「あ゛あ゛っ!」
カッチーン!!なんだ、こいつ!
「吉祥院さん。令嬢にあるまじきドスの利いた低い声が出ているよ」
後ろから円城の注意が飛んでくる。
「そんなことで俺をここに連れてきたのか。くだらない。勉強は自分のためにやることで、それで他人に褒めてもらおうなんて筋違いも甚だしい」
…殺す。
鏑木は「用がそれだけなら俺は行く」と部屋を出て行こうとする。なぜそこまで不機嫌なのか…。これは怪しい。
「俺は忙しいんだ。これからサロンで今日のテスト結果の総括もしないといけないし、帰ってからもグループの新事業についての資料に目を通さないといけないんだ。視察にも同行することになっているから、それまでにすべて把握しないといけなくて、一刻の時間の余裕もないんだ」
聞いてもいないことまでペラペラをしゃべっている。ますます怪しい…。
私は確信を持った。
「鏑木様。なにか隠しているでしょう」
「はぁ?!お前なに言ってんの?!」
「男性は心にやましいことがある時、逆ギレして場をごまかす。これ浮気を見抜く定石その1」
「浮気なんてしてねぇし!」
「浮気はしていなくても、隠し事はありますよね。さぁ、吐きなさい」
どうしてこうわかりやすい態度をとるかなぁ。
前世のお父さんがそうだった。
美人なママさんのいるスナックにこっそり通っていたのを、お母さん、私、妹と、女性陣3人にはとっくにお見通しだった。
「今日は部下がミスして残業になって、帰るのが遅くなったんだよ。全くあいつにも困ったもんだよ。夕飯はそのへんの居酒屋で済ませてきたんだけど、部下の話も聞いてやって…」と、聞いてもいないのに、容疑者トドはよくしゃべった。細部に渡ってペラペラと、そりゃあもうしゃべり倒した。しゃべりすぎて話の内容に小さな矛盾がボロボロ生じるくらいに。
たまに帰宅したお父さんに「今夜も遅かったんだね~」と何の気なしに声を掛けたら、「そんなことより勉強してるのか!この前のテストの成績も悪かっただろう!」と突然キレてきた。不機嫌な空気を出して、それ以上追及されないようにごまかそうとしているのが、バレバレ。しかし自分にやましいことがあるからって、こちらに当たってくるのはいかがなものか。
私達3人は食卓会議を開き、「そろそろあの浮かれトド親父、〆るか」と話し合った。そしてトドの通うスナックに乗り込んだ。
気風の良い美人ママさんは「あら~、いらっしゃ~い」とにこやかに出迎えてくれ、ママさんの出してくれたおいしい煮物やお惣菜をいただき、カラオケを熱唱し、飲めや歌えの楽しいひと時を過ごした。もちろんすべてトド親父のおこづかいで。
帰り道、すっからかんになった財布を抱えて、お父さん泣いてた…。
お母さんは「結婚生活の秘訣は生かさず殺さずよ」と言っていたけど、あの時のお父さんは瀕死状態であった──。
そして、今の鏑木の態度はその時のトドとまるでそっくりだった。
「予言します。貴方は将来、浮気が必ずバレるでしょう」
「なんだ、それは!しかも俺が浮気をする前提で話をするな!俺は浮気なんてしないっ!」
鏑木が喚くが、すでに裏を見破った私は怖くない。ほれ、目に焦りが出ているぞ。
「吐け」
私は三白眼で詰め寄った。そしてもう一度言う。「吐け」
鏑木は観念したのか、手近な椅子に腰掛けて重い口を開いた。
「…この前、高道に夏休みの予定を聞いたら、夏休みはずっと夏期講習に通うと言ったんだ」
それは私も本人から聞いている。
「それで?」
「……高道と同じ夏期講習に通う手続きをした」
「夏期講習?!鏑木様が?!」
瑞鸞は夏休みに希望者を対象とした特別講習を開いている。受講者は外部生が中心で、家庭教師が毎日ついているような内部生はほとんど受けることはない。それに鏑木が出るというのか。
「鏑木様が特別補習を受講すると知ったら、今まで受けていなかった生徒達の申し込みが殺到するかもしれませんね」
パニックにならないといいけど…。
「あー、そっちじゃなくて…。いや、そっちもだが」
「なんです?はっきり言ってくださいな」
煮え切らない口調に、私がさらに問い質すと、
「高道が受講すると言っていた民間の予備校の夏期講習に、俺も通うことにしたんだ」
「ええっ!?」
若葉ちゃんと同じ予備校の夏期講習?!
「それストーカーじゃん!本物じゃん!」
あまりの衝撃に心の声が隠しきれなくなった。
「誰がストーカーだ!失礼なことを言うな!」
いやいや、それはもう言い訳のしようがない正真正銘、真正のストーカーだから!
「ちなみにそれ、高道さんに言ってあるんですか。鏑木様も同じ予備校の夏期講習に申し込んだって…」
私は恐る恐る尋ねた。
「言っていない。当日に驚かせようと思って」
「はあっ?!」
なにそれ!サプライズ演出気取りか?!
「それで?当日に何と言うつもりだったんですか?自分の夏期講習の予定を聞いてきた異性が、初日に教室に行ったら笑顔で“やあ偶然だね”と手を振ってくるなんて、ホラーですよ。私なら顧問弁護士に即刻相談に行きますよ!」
「……」
活動的な馬鹿より、恐ろしいものはないとはよく言ったものだ。偉人の言葉にこれほど共感したことはない。
「すでに申し込みは済ませてあるんだよね?」
「…ああ」
二の句が継げない私に代わり、円城が鏑木に聞いた。
「それはキャンセルした方がいいかな…」
私も円城と同意見だ。ストーカーだと若葉ちゃんにバレる前に証拠を隠滅するのだ。鏑木の財力だったら夏期講習のキャンセル料なんて微々たるものだろう。
しかし鏑木はその提案に頷かなかった。
「ただでさえ、夏休みに入ったら1ヶ月も会えないんだ。俺は絶対に高道と同じ夏期講習に通う!」
私と円城が目を見合わせた。
「でも、瑞鸞の生徒が同じ予備校に申し込んでいたらどうするつもりなんですか」
今よりもっと若葉ちゃんの立場が悪くなるぞ。
「それは大丈夫だ。高道の通う予備校は高道の家に近い支部で、瑞鸞の生徒は誰も通っていない」
ストーカーの無駄な調査力よ…。
円城とふたりでどうにか翻意させようとしたけれど、鏑木は絶対に意志を曲げなかった。
しかたなく円城が「せめて、夏期講習が始まる前に高道さんに同じ講習を受けることを話した方がいいね」と妥協案を提示した。うん、これじゃ恋愛マンガじゃなくてホラーマンガだもんね。
「わかった…」
鏑木も自分の暴走を少しは反省したようだ。声が小さくなっている。
円城はそんな鏑木を慰めるように肩を叩くと、優しく
「大丈夫だよ、雅哉。高道さんみたいにポジティブな思考の人はストーカーに気づきにくいから」
あ、今さりげなく円城も鏑木をストーカーと断定した。
しかしまったくもう…。
「はぁ~っ」
「なんだ、ため息なんかついて」
「鏑木様と一緒にいるようになったせいで、最近胃が痛くて…」
「ピロリ菌か?」
違うわ、ボケェッ!嫌味に気づけ!あんたのせいで神経性胃炎に苦しんでいるんだという、わかりやすすぎる嫌味でしょうが!
「ピロリ菌の良い医者を紹介してやろう」
「私はピロリ菌は持っていません!」
「ピロリ菌は早期の除菌が…」
「違う!」
もう黙れ!乙女の消化器にピロリ菌疑惑をかけるな!
「もうこんな時間か。サロンに行くぞ」
隠し事をすべて話してすっきりしたのか、いつもの調子に戻った鏑木が席を立った。
「だから、そこまでするなら告白した方が早いのに…」
「一生忍んで思い死すること…」
「あ、それ前にも聞いたからいいです。面倒なんで」
「面倒とか言うな!」
けっ!
「あ、鏑木様」
「なんだ?」
「改めまして、私今回の期末テストで18位を取りました」
鏑木は体を30度に折り曲げてお辞儀をした。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
私も同じ角度でお辞儀を返した。