266
雨が上がって湿気の残る庭園は、夜露に濡れた紫陽花がライトに照らされて瑞々しく輝いている。
「綺麗ですね~」
「紫陽花が一番見事な会場を選んでいるからな」
なるほど。そこまで考えて会場選びをしているのかぁ。
庭園には数人の人影があるけれど、さて、伊万里様はどこだろう。
「ここにはいないな。あっちじゃないか」
「あっちは薔薇が咲いているんだ」という鏑木に付いて、庭園の少し奥まった場所に歩いて行く。
「雨も止んで、星もよく見えるようになりましたね~。天の川はどこかしら」
都会だとはっきりとは見えないかなぁ。鏑木も立ち止まると、夜空を仰いだ。
「人工の光に邪魔されて、ここからでは見るのは難しいだろう」
「ですよね~」
残念。
「でも、織姫のベガと牽牛のアルタイルだったら見つかるんじゃないか」
「えっ!どこですか?」
「あれだ。あの東の空にある星が、夏の大三角」
「え~…」
目を凝らして見るけど、よくわからない。あの一番光っている辺りかなぁ…。
「なぜ、わからない。あれだ、あれ」
「う~ん」
「昔、理科で習っただろう」
やめて!もう勉強の話はしないで!
私は拒絶反応で耳を塞いだ。あぁ、思い出しちゃった。こんなところで暢気に星空なんて眺めている場合じゃなかった。もう今夜あたりから栄養ドリンクがぶ飲みでラストスパートをかけないといけないのに!
鏑木は呆れたような目で私を見ると、星空に目を移した。
私はその横顔を眺めた。見れば見るほどよく整った顔だ。そうして黙っていれば、乙女の夢を体現した理想の貴公子然なんだけどねぇ…。
夜空を見上げていた鏑木が、ふいに「あいつはどうしているかな…」と呟いた。
「あいつ?」
「…なんでもない」
鏑木は、言ってからしまったといった表情をして顔を背けたけれど、え、なに。もしかして自分と若葉ちゃんを、周囲と立場に引き裂かれる織姫と彦星に重ね合わせたの?
…ここは笑っちゃいけない場面だよね。よし、フォローをしなくちゃ。
「確かにいつまで経っても、天の川なみに縮まらぬ深~い距離がありますよね」
「……」
鏑木がショックを受けた顔をした。しまった。図星をついて心の傷を抉ってしまった。
「え~っと、伊万里様はこっちかしらぁ…」
ごまかすように伊万里様探しを再開すると、
「…そんな距離、すぐに縮めてみせる」
「えっ」
振り向くと鏑木の目に、愚恋の炎がめらめらと燃えていた。
まずい。変な決意スイッチを押してしまった。
「ダメですよ、鏑木様。相手の迷惑を考えて浅慮な行動は慎んでくださいね」
「わかっている」
「本当ですかぁ…」
「水崎なんぞには負けない」
「全然わかってない!」
私は紫陽花の小道を歩きながら、絶対に大っぴらな行動は控えろと口を酸っぱくして諭し続けた。
「わかった、わかった」って、本当にわかっているのかなぁ。
「…ん?あそこにいるのは伊万里さんじゃないか?」
「どこですか?」
「ほら」
さっきのベガとアルタイルといい、鏑木は視力がいいな。
「あ…」
白い薔薇が咲き乱れる花壇の前に、伊万里様は年上らしき美しい女性と一緒にいた。
咄嗟に木陰に隠れたけど、どうしよう…。これは声をかけない方がいいよね。
お邪魔をしたら悪いから、そっと立ち去ろうとした時、
「綺麗だけど私は白薔薇よりも、真紅の薔薇が好きだわ」
と連れの女性が伊万里様に言った。
真紅の薔薇かぁ…。実は私は小さい頃に読んだ童話が元で、赤い薔薇は苦手なのよね…。
「そうだね。貴女には情熱的な真紅の薔薇の方が似合うかもしれない」
伊万里様の指先が女性の頬を掠めた。
「貴女は“ナイチンゲールと赤いバラ”という童話を知っている?」
「なぁに、それ」
あっ!それはまさに今私が考えていたこと!
伊万里様は白い薔薇に手を差し伸べて、その童話を語りだした。
──あるところに我がままで美しい令嬢がいて、その令嬢が誕生日に赤いバラが欲しいとまた我がままを言った。しかし街に咲くのは白バラしかなく、赤いバラはどこにも見つからない。令嬢に恋をして赤いバラを探す青年に同情した小鳥のナイチンゲールが、白バラに相談をすると、ナイチンゲールの心臓をこのバラの棘に突き刺せば、白バラが血を吸って赤いバラになると教えてくれる。健気なナイチンゲールは自らの命と引き換えに赤いバラを作り上げた。そしてその赤いバラを見つけた青年は、それを持って喜び勇んでバースデーパーティーに赴くが、取り巻きに豪華なプレゼントをもらった令嬢は、自分が前に言った言葉などすっかり忘れ、赤いバラ一輪しか持ってこなかった青年をバカにする。その態度に怒って令嬢への恋も冷めた青年は、赤いバラを投げ捨て帰りましたとさ。
うん。私もその童話は知っている。
その話を読んで、あまりの救いのなさと、小鳥の哀れさと、赤いバラは小鳥の心臓から吸い上げた血液の色という恐ろしいイメージで、それ以来赤い薔薇がどうにも少し苦手になってしまったのだ。
そんな私の気持ちを知ってか、お兄様が私に贈ってくれた薔薇の品種うららは、真紅ではなく鮮やかなピンク色で、さすがお兄様なのよ!
「血で染められた薔薇と聞くと、なんだか怖いわね」
「そう?」
伊万里様は女性の手を取ると、魅惑的な微笑みを浮かべ、その指に口付けた。
「俺は貴女が望むなら、この心臓の血を捧げてもかまわない」
その瞬間、私と鏑木の口がぱかーんと開いた。
「あら、伊万里さんが健気で可憐な小鳥なの?」
「ええ。ナイチンゲールは夜の鳥ですから。俺にぴったりでしょう?」
「ふふふ。でも七夕だったら彦星ではないの?」
「貴女は俺に、1年に1度しか会わなくてもいいと言うの?ひどい人だな」
私は左に立つ鏑木を見た。鏑木は右に立つ私を見た。
「……」
「……」
何も言わずとも心をひとつにした私と鏑木は、同時にサササササ…と後ろ歩きをすると、そのまま猛スピードでその場から退場した。
遠く離れていく光景の中、最後に見たのはカサノヴァ村長が、女性を抱き寄せている姿だった──。
伊万里様達の姿が見えなくなる、紫陽花の小道まで戻ってくると、鏑木は鬼の形相で私に詰め寄った。
「お前は!この俺に!あの人の真似をしろと言うのか!あ・の・ひ・と・の!」
押し殺した声で噛み付くように怒鳴る鏑木から頭を手でガードしながら、私は素直に反省した。うん、ごめん。これは私が悪かった。あの伊万里様からは学んじゃいけない。下手したら鏑木家が滅ぶ…。
喚く鏑木をなんとかなだめすかし、室内に戻ってくると、円城が唯衣子さんを伴ってこちらにやってきた。
「雅哉、ここにいたのか。おば様が探していたよ」
そして「吉祥院さん、こんばんは」と言った。
「ごきげんよう」
私は円城と唯衣子さんに会釈した。唯衣子さんも「ごきげんよう」と輝く月のような綺麗な微笑みを浮かべた。
「ああ、もうそんな時間か…。これからピアノを弾かないといけないんだ」
鏑木は中央に置かれているピアノで、雨にちなんだ曲を演奏するらしい。それは女性達がさぞや色めき立つことだろう。でも鏑木ってなにげに自分の母親にこき使われているよね。
「大丈夫?なんだか疲れた顔をしているけど」
「…なんでもない。夜啼く鳥の毒気にあてられただけだ」
「夜啼く鳥?」
円城が首を傾げたが、私と鏑木はそれ以上の説明は避けた。
ふと視線を感じて前を見ると、唯衣子さんと目が合った。
あ~…、今日の私のドレス選びはつくづく失敗だ。今夜の唯衣子さんはその儚げな容姿を引き立たせる白いドレス姿だった。完全に被ってる。華奢な唯衣子さんと派手顔の私とでは、どちらがより白いドレスが似合うかは一目瞭然だ。こんな時のために替えのドレスを用意してくるべきだった。いたたまれない…。
そんな私の心の葛藤も知らず、唯衣子さんは目が合っても逸らすことなく、でも話しかけるでもなく、ただ微笑んでいた。
これは私がなにか会話の糸口を見つけるべきか…。
唯衣子さんは手に、グラスの縁に花をあしらったオーロラ状に何層も分かれたピンク色の綺麗な飲み物を持っている。こんな飲み物あったかしら?
「唯衣子さんは、なにを飲んでいらっしゃるのですか?」
唯衣子さんは自分の持っているグラスを持ち上げると、
「これ…?さぁ、なにかしら。飲み物が欲しいと言ったら、私のイメージに合わせて作ってくれたの」
「でも甘くておいしいのよ?」と微笑んだ。
そして会話が止まる。唯衣子さんは淡く微笑みながら見つめるだけで、自分から話題を提供する気はないらしい。え~っと…。
「時間だ。行ってくる」
腕の時計を見て鏑木が言った。え、ここに私を置いて行っちゃうの?
私の心の声が届いたのか、鏑木は「あ、そうだ」と振り向くと、
「吉祥院、七夕のそうめんを食べていけ」
「縁起物だぞ」と言うと、颯爽と立ち去って行った。
そうめんって…。なんというマイペース。そして私イコール食べ物の図式を改めろ。でも、
「…えっと、鏑木様にお勧めいただいたので、せっかくですから私はそうめんをいただいて参りますね?」
無意識にでも逃げ道を作ってくれた鏑木に今回ばかりは感謝だ。
「ひとりで大丈夫?僕達も一緒に行こうか?」
冗談じゃない。なにを言っているんだ、円城は!ドレスの色被りの気まずさに気づけ!
「あっ」
今度こそ、正真正銘の天の助けを見つけた!
「あちらに兄がおりました。私のことを探しているようなので行かないと」
お兄様!私はここです!
私に気づいたお兄様がこちらにやってきてくれたので、私はふたりに笑顔で「では、また」と挨拶をして、お兄様の元へ向かった。
「麗華」
「お兄様!」
ああ、お兄様。やっと絶対安心安全な領域に戻ってこられた。今日はもうお兄様の隣から離れない!お兄様の優しい笑顔に癒される。
「どこに行ったのかと思ったよ」
どうやら本当に探してくれていたようだ。
「ごめんなさい。伊万里様にご挨拶をしようかと…」
「伊万里?」
お兄様は会場を見渡すと、
「麗華。伊万里の姿が無い時は、不用意に探しに行ってはダメだよ」
遅いアドバイスだったよ、お兄様。
「麗華は短冊に願い事は書いた?」
「まだです」
「じゃあこれから書きに行こうか」
「はい」
私は笑顔で頷いた。でもなにを書こうかな。期末テストで30位以内に入りますようにとか切実な本音は書けないし、織姫にあやかって手芸の腕が上達しますようにとでも書いておこうかな。
「麗華ちゃん、お久しぶり」
笹の近くまで行くと、愛羅様と優理絵様に声をかけられた。
「愛羅様!優理絵様!ごきげんよう」
「ごきげんよう、麗華ちゃん。吉祥院様もごきげんよう」
「こんばんは」
さっき見かけた時も相変わらず美しいと思ったけれど、愛羅様も優理絵様も間近で見ると眩しい美貌だ。
「元気だった?麗華ちゃん」
「はい、とても」
「雅哉には迷惑をかけられていない?」
優理絵様の問いに否定できずにいると、「雅哉にも困ったものね」と苦笑された。
「困ったことがあったらいつでも私に言ってね。私が雅哉を叱るから」
「よろしくお願いします」
私は深々と頭を下げた。その姿に愛羅様が「麗華ちゃんも苦労しているのね…」と同情してくれた。ええ、とても。とても苦労しているんです。
「麗華ちゃん達は短冊に願い事を書きにきたの?」
「はい、そうなんです」
「お願い事はなにかしら」
「手芸の腕が上達しますようにと書こうかと思っています」
「そういえば麗華ちゃんは手芸部に入っているのだったわね」
愛羅様と優理絵様は「学園祭にはぜひ見に行くわね」と言ってくれた。学園祭かぁ。私も手芸部部長として恥じない展示物を出さなくては。
それから私達4人は願い事を書いたり、他の短冊を眺めたりして和気藹々と楽しんだ。結構俗物的な願い事もあったりして面白かった。
「ほら、雅哉のピアノが始まるわよ」
ピアノの前に座った鏑木は鍵盤に指を乗せると、ドビュッシーの雨の庭を奏で始めた。