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鏑木に今日中とのノルマを課せられたプリントが予想以上にハイレベルで難しい。
優先順位的に学校から出されている宿題をとにかく先に終わらせてしまおうと、家庭教師の先生に手伝ってもらって宿題を片付けてからは、鏑木のプリントを解くことだけに専念して教科書や参考書と首っ引きで頑張っているけど、全然進まなくて終わりが全く見えない…。
「がーーーーっ!」
私は何十分かに一回襲ってくる叫びたくなる衝動に、頭を掻き毟った。
普通の問題集と違って解答が付いていないから、自分の出した答えが果たして正解なのかもわからない!せっかく解いてもずっとすっきりしないもどかしさに、モヤモヤするー!
とりあえずわかる問題だけ解いていけばいいと割り切ればいいのかもしれないけど、他人からどう思われているのかが気になる小心者の私は鏑木から、この程度のプリントも出来ないってこの女頭悪いなとか思われたらと考えると、プライドが邪魔をして妥協できないんだよー!
あと何枚残ってる?ひぃ~っ!まだ半分以上終わってない…。
家庭教師の先生もとっくに帰ってしまったし、このままでは本気で今夜は徹夜になってしまう!と追い詰められた私は、私の最強最高の切り札に助けを求めるべく、勉強道具一式を抱えて、仕事から帰ってきたばかりのお兄様の部屋に押しかけた。
「お兄様助けて!勉強を教えてください!」
私があまりに必死の形相をしていたのか、妹の急襲を受けたお兄様は少しびっくりした表情で出迎えてくれた。
「勉強?」
「はい。このままでは徹夜でやっても終わりそうにないんです…」
とっても困っているんです、つらいんですという女優の顔芸を披露すれば、お兄様は「いいよ」と快く部屋に通してくれた。やった!
「とりあえずソファに座って待っていて。僕は着替えてくるから」
見ればお兄様はスーツ姿で着替えすらまだだった。うわぁ、ごめんなさい。兄妹とはいえ自分本位過ぎたな…。反省。
「ごめんなさい、お兄様」
「うん?なにが」
ネクタイを外しながら隣接する衣裳部屋に歩いていたお兄様が振り返って首を傾げた。
「お仕事から帰ってきたばかりで疲れているのに、わがままを言っちゃって…」
それを聞いたお兄様は笑って「妹の勉強をみるくらい、全然平気だよ」と言ってくれた。なんて出来た兄なんだ…!ありがとうお兄様!やっぱり持つべきものは優しくて出来の良い兄だよ!
「私、お茶でも淹れてきますね!」
「ありがとう」
せめてものお詫びの気持ちを込めて、少しでも疲れが取れる様に労いのお茶を用意してきます!
そして私がふたりぶんのお茶を持って戻ってくると、ラフな格好に着替えてきたお兄様がソファに寛いで待っていてくれた。
「それで?どこがわからないの?」
「これなんです」
私は鏑木特製のプリントをお兄様に見せながら、これまでの経緯を愚痴を交えて話した。
「ピヴォワーヌ全員が50位以内にねぇ。それは雅哉君も厳しい要求を出したね」
「そうでしょう。しかも私には20位以内に入れと言うんです!」
交渉してなんとか30位以内にしてもらったけどね!それでも30位以内に入れる自信は全くない。
「まぁ、勉強をすることは自分の身になりこそすれ、悪いことではないけどね」
「…はい」
そうなのだ。学生の本分は勉強だ。その学力の向上を厳命する鏑木は何ら間違ったことは言っていない。言っていないからこそ正論すぎて逆らえないのがつらい。
「それで雅哉君が用意したプリントがこれだと」
「はい」
「1,2.3…。そこそこ量があるね」
「そうでしょう。でもこれを明日までにやって行かないといけないんです」
明日までにやって行かないと、ヒノキの木になれないあすなろと呼ばれ続ける羽目になるんですぅ~!
「私の苦手な分野をピックアップしたというだけあって、難しくってもうお手上げ状態なんです。でも明日までに絶対に終わらせてこいって。鏑木様は血反吐を吐くまで勉強しろって~」
「血反吐…。女の子に対してそれは容赦がないね」
「そうでしょう、そうでしょう?」
鏑木からのプレッシャーが尋常じゃないんだよ。
腕に縋りついてここぞとばかりに泣き言を言う私を慰めながら、「それで、ここからここまでが今回のテスト範囲?」と、お兄様は付箋の付いた教科書を手に取って確認した。
「はい」
「なるほどね」
お兄様は教科書と鏑木式プリントを見比べると
「このプリントはテスト範囲のポイントがしっかり押さえられていて、かなり良く出来ているね。これを難なく解けるようになれば今度のテストでは高得点を取れると思うよ」
と鏑木式プリントを評価した。そうなのか。さすが首位争いの常連の作った問題。ありがた迷惑だけど。
「じゃあ僕は麗華がすでに解いた問題を採点して、間違っている箇所やわからない箇所を教えればいいんだね」
「お願いします!」
それからお兄様の指導の元、私は鏑木式プリントを着々とこなしていった。最後はほとんどお兄様に解いてもらったような感じだったけどね。
「できた!」
「お疲れ様。よく頑張ったね」
「お兄様、ありがとう!」
日付が変わるまでに終わった!これで徹夜回避だ!
「でもこれテストが終わるまで毎日雅哉君から出されるんだっけ」
「うっ…!」
そうだった。今日終わってもまだ明日もあるんだ。鏑木式プリントはどこまでも追ってくる。
絶望に打ちひしがれる私の頭を、お兄様が慰めるように撫でた。
「僕もテストが終わるまで、できるだけ勉強に付き合うから」
「お兄様~!」
私、貴輝ゼミナールに入学します!
「しかし瑞鸞は今、そんなことになっているのか」
新しく淹れ直したお茶を飲みながら、お兄様が私から聞いた話の感想を洩らした。
「お兄様が在学中もピヴォワーヌと生徒会の軋轢などはありましたか?」
「う~ん、どうだったかなぁ。僕らの頃も生徒会との確執はあったけれど、正面切って対立することまではなかったと思うよ。ピヴォワーヌが起こしたことに対しての生徒会からの抗議みたいなものは何度かあったけどね。そこまで真っ向から抗議してくる生徒会長はいなかったな。今回の生徒会長はずいぶんと熱血漢なんだね」
「確かに正義感は強い人ですね」
相手が誰であろうとも弱者を守って抗議してくれるんだから、生徒としては同志当て馬は頼りがいのある生徒会長なんだと思う。ピヴォワーヌにとっては都合が悪いけど。
「でもあまりピヴォワーヌへの不平不満が鮮明化すると、いつか不満分子にクーデターでも起こされないかと心配で」
「クーデター?」
私が重々しく頷くと、お兄様が笑った。
「麗華はそんなことを心配しているのか。クーデターはないよ」
「そうでしょうか」
「彼らも理解しているからね。学院が数十人のピヴォワーヌ生と、数百人のそれ以外の生徒達だったら、数十人のピヴォワーヌを取るってことをね」
お兄様の冷静な見解に、目から鱗が落ちた。そうだった。瑞鸞はそういう学校だった。現役ピヴォワーヌの親と、ピヴォワーヌOBOGの持つ絶大な財力権力と影響力で瑞鸞は成り立っている。いざとなったら反乱分子は全員退学させられてお終いだ。
「安心した?」
「不穏すぎて別の意味で不安になりました」
逆らえば退学なんて、そんな他人の一生を左右する重い荷物は背負えない。
「お兄様の時代は平和で羨ましいなぁ」
「まぁ、そこまで言うほど平和ってわけでもなかったけどね」
お兄様は苦笑いした。そうなのか。
「お兄様が会長になればよろしかったのに」
お兄様は包容力もあるし家柄も成績も優秀で、ピヴォワーヌを纏めるのに最適な人物だと思うんだ。
「そんなことないよ。僕などより会長にふさわしい人間は何人もいたからね。それに僕は自分が会長になるよりも、裏でフォローにまわる方が楽だから。そういった意味では伊万里が会長になればいいと思ったこともあったけど、ただあれは一方向に限定して素行に問題がありすぎて…」
当時を思い出したのか、お兄様の顔が険しくなった。
「あぁ、そうだ。瑞鸞内での大きないざこざはあまりなかったと思ったけれど、伊万里を巡っての女子生徒達のいざこざはよくあったな。時には伊万里に会いに来た他校の女子達と瑞鸞の女子達の小競り合いまであった。そうだった。その度に僕が生徒会から伊万里をなんとかして欲しいと要請と抗議を受けたんだ。僕に持ち込まれるトラブルのほとんどが、伊万里が原因のものだった。人の苦労も知らずなにがモナムールだ。あのバカがっ。それに巻き込まれる度に僕は、お気楽に女の子の肩を抱いて去っていくあいつの延髄が弓道の的に見えてしょうがなかったよ。あの的ならば僕は絶対に外さない自信があったね。あぁ、今でも遅くないか。蔵に弓があったはず…」
お兄様!目が!目が怖いっ!
温厚なお兄様をここまで怒らせるなんて、伊万里様は一体なにをやらかしたんだ。
放課後のピヴォワーヌのサロンで、お兄様の力を借りて仕上げてきたプリントを私は鏑木に提出した。お兄様からお墨付きをもらった完璧な解答だ。どーよ。
鏑木はすべてのプリントに目を通して採点をすると「よし」とだけ言い、「今日の課題はこれだ」と次のノルマを渡してきた。えっ、それだけ?
こんなに頑張ってきたのに、よくやったとか全問正解を評価する言葉とかないの?これを全部終わらせてくるのに、私がどれだけ苦労したか…!褒められて伸びるタイプの私の性質を、鏑木はなにもわかっちゃいない。
褒めるまでその場に居座ってやろうかと思ったけれど、私の後ろに鏑木の採点を待つ1年生の列ができていたので、黙って引き下がった。
私同様、ノルマが厳しかったようで1年生達は心なしかやつれていた。すれ違いざまに縋るような目を向けられたけど、すまぬ。所詮私の権力はハリボテなので、皇帝の暴挙を止めることなどできない。
このまま帰ってもいいけれど給仕がお茶とお菓子を用意してくれたので、私が好きな壁際のソファに座って少しだけ課題をやっていくことにした。むむっ、今日の問題も難しい…。
「吉祥院さん、どう。順調?」
すると円城が私の前にやってきた。
「…それなりに」
すでに2問目で躓いている状況だけど、同級生である円城に自分の頭の悪さを知られたくない。
それなのに円城は私の前の席に座ると、「どれどれ」と課題を覗きこんできた。
「あ~、この問題はこの副読本の例文と照らし合わせるとわかりやすいかもね」
円城はテーブルの上に置いてあった私の教科書や参考書の中から副読本を手に取ると、「ほら」と該当ページを見せてくれた。
「あっ、本当だ!」
こんなところにヒントが!
言われた通り、例文に添えば引っ掛かっていた問題も難なく解けた。おおっ!
「この先生のテストは、学校指定の教科書や副読本に準じた問題が出されることが多いから、雅哉もそこを考慮して作っていると思うよ」
「そうなんですか?!」
なによ、鏑木。そういうことを事前に教えておいてよ!そしてなんという有益な情報だ。これで今回のプリントも解きやすくなった。
それからも円城は、ひとつひとつの問題をわかりやすく解説してくれた。ほお、ほお、なるほどねー。
「円城様は教えるのが上手ですね」
鏑木と違って、という悪態を言外に匂わせる。
でも本当に円城の教え方は私のお兄様に並べるくらい上手い。問題を解く度にさりげなく褒めてくれるので、おだてられた私は張り切って木に登ってしまう。
「たまに雪野の勉強を見てやっているからね」
へぇ~。
「円城様もご自分の弟にはお優しいのですね」
「心外だな。僕は誰に対しても優しいと思っているのだけど?」
私と円城はお互い目を見合わせて、ふふふと笑い合った。さ、次の問題をやろうかな。
そこへ、1年生の採点と不正解箇所を教え終わった鏑木が来て、円城の隣にどっかりと座った。
円城は鏑木に「彼らは50位以内に入れそう?」と聞いた。
「入れそうではなく、必ず入るんだ」
ひえ~っ。仮定じゃなく断定なんだ。あちらで必死に問題集と格闘している1年生達に心の中で合掌した。でもそれより厳しい30位ノルマを課せられている私も他人事じゃなかった!
「どこがわからないんだ」「まだやっているのか」と口うるさい鏑木を無視して、円城に教えてもらいプリントを解いていく。
「そういえば、先日鏑木様のお母様にお会いして、鏑木家主催の七夕の会にご招待を受けました」
「あぁ、そんなことを聞いたな」
鏑木が気のない返事をした。
「お前をエスコートしてやれと言われた」
「あ、お気持ちだけで充分です」
笑顔できっぱりお断り。
「でも期末テストの勉強もありますし、出席はお断りした方がいいと思うのですが、どうでしょう。せっかくのお誘いですが鏑木様からお母様に取り成していただけませんか」
「あの人を止めるのは俺には無理」
無表情できっぱり断られた。
も~っ。テストにパーティーにやることが多すぎて、頭から煙が出そうだよー!
「ほら、さっさと続きをやれ。課題を増やすぞ」
「頑張って、吉祥院さん」
つらい…。