263
次の日は朝から昨日の騒動の余波が学院中の生徒のあちこちから、まだ残っているように感じられた。
耳を澄まして周囲の反応を窺っていると、あの瑞鸞の皇帝が謝罪した衝撃は相当大きかったようだけど、鏑木の行動に疑問を持ったりピヴォワーヌの会長が生徒会及び外部生に頭を垂れたことによっての、ピヴォワーヌの絶対的権威が揺らぐようなマイナスの影響もなさそうだった。とりあえずホッとした。
芹香ちゃん達はあの時に私と一緒に間近で見ていたのもあって、ランチタイムの話題も昨日の話が中心だった。
「あれだけ大騒ぎになってどうなることかと思いましたけど、鏑木様がいらしてくださったおかげで事態もすぐに収拾されて、本当に良かったですよね」
「やはりいざという時に頼れるのは瑞鸞の皇帝なのよ」
「あの毅然としたお姿!」
「凛々しい佇まい!」
「素敵ね~」と芹香ちゃん達はそこに鏑木がいるかのように、うっとりと宙を眺めた。
「もちろん鏑木様に頭を下げさせてしまったことに、忸怩たる思いはありますが…」
唇を固く結んだ菊乃ちゃんに芹香ちゃん達も「本当にその通り」と同意した。
「二度と鏑木様にあのようなことはさせないわ」
「そうよね!」
「私達が一丸となって鏑木様をお支えするのよ!」
マイペースに食事をする芙由子様以外が熱く誓いを立てた。昨日と同じ状況になった時に、芹香ちゃん達は一体どう動くつもりなのかな。考えるとちょっと怖い…。
「ところで麗華様」
「なあに?」
「あの後で鏑木様と麗華様はどうされたんですか?」
「え…」
全員の目が私に向いた。
あの後か…。お好み焼きを食べに行ったよとはもちろん言えないので、
「ご挨拶をしてすぐに帰りましたよ」
「そうなんですか?私達はてっきり、鏑木様と麗華様が今後についておふたりでお話し合いでもなされたのかと」
「いえいえ。鏑木様に私が申し上げられることなどありませんから」
「え~、そうなんですかぁ?」
皆はな~んだとがっかりした顔になった。
「でも昨日は鏑木様だけではなく、円城様も素敵だったわよね!」
円城びいきのあやめちゃんが両手を頬に当てて言った。
「そうだわ。聞いてください麗華様。昨日麗華様が去られた後、落ちていたゴミを拾おうとなさった円城様に代わって女の子達がお掃除をしたんですけど、あやめさんはそこに我先に駆けつけたんですよ」
「そうだったの?!」
あのくノ一集団の中に、あやめちゃんもいたのか!
「私達もすぐ後に続いたんですけど出遅れちゃって」
「ふふっ。私は常に円城様の一挙手一投足を見逃さないようにしているもの」
とあやめちゃんが自慢した。
「それであやめさんは上手なんですよ。ペットボトルを見事にゲットして、自分が拾ったことをしっかり円城様に見えるようにアピールしたんです」
「そうしたら、聞いてください麗華様。あの円城様から去り際に私に“ありがとう、大宮さん”と名指しでお礼を言ってくれたんです!」
興奮のあまり、あやめちゃんの声が大きくなった。周りの人達が驚いてこっちを見ているから、落ち着いてあやめちゃん。
「あまりの嬉しさに昨日一日は耳の奥でずっと円城様の“ありがとう、大宮さん”の声がリフレインしていたわ…」
あやめちゃんは耳を押さえて夢心地の溜息をもらした。ここにもカサノヴァ村の被害者が…。
夢の世界から戻ってこないあやめちゃんを置いて、芹香ちゃんが「そういえば」と言った。
「昨日麗華様と寄る予定だった食堂のお菓子なのですけど、あれはドーナツでしたわ」
「まぁ、ドーナツ」
それは瑞鸞にしてはシンプルなお菓子だね。
「運動部の生徒達のための甘味ですから、簡単で腹持ちの良いものが選ばれたのでしょうね」
「味も粉砂糖とシナモンシュガーの2種類だけでした」
「ふぅん。そうだったの」
ドーナツはそれほど好物というわけではないけど、どうせだったら食べてみたかったな。
すると、
「それで麗華様が楽しみにしていらしたので、一応麗華様のぶんも取っておいたのですけど…」
と芹香ちゃんが布バックから小分けされたドーナツをひとつ取り出した。
「えっ、私のぶん?!」
私のぶんをわざわざ買っておいてくれたの?!
「はい。昨日揚げたドーナツなど、油っぽくて食べられないとは思ったのですけど、初日でしたし記念にと思って。見るだけで処分してもらっていいですから」
「ううん。とっても嬉しいわ。どうもありがとう!」
ちゃんと私のことを考えてくれていたなんて嬉しいよ!昨日のドーナツだろうが喜んで食べるよ!
渡されたのはシナモンシュガーのドーナツだった。
「麗華様はシナモンと普通のシュガーのどちらがいいですか?」
「他にもあるの?」
「はい。人数分」
そう言って芹香ちゃんは6つのドーナツをテーブルに出した。
「皆さんも今食べるの?」
「昨日のですから味が落ちていたら全部は食べませんけど、せっかくですからどんなお味か試してみたくて」
「えっ、昨日食べなかったの?」
「もちろんですよ。麗華様がいないのに、私達だけ先に食べるわけにはいかないじゃないですか」
「どうせだったら麗華様と一緒に食べたいですものね」
ええーっ!嬉しすぎる!ありがとう!
素晴らしきかな友情!もう感動で胸がいっぱいだよ!
「ありがとう。とってもとっても嬉しいわ。ぜひ皆で食べましょう」
「はい!」
昨日揚げたドーナツは冷めて少し固かったけど、私達の友情の証をおいしくいただいた。
──そして放課後、鏑木はピヴォワーヌのサロンで、日当たりの良いソファに座り足を組み黒いファイルを片手に、昨日騒ぎを起こしたピヴォワーヌの1年生達を自分の前に立たせた。
サロン内にもいつもの優雅な雰囲気とは違う、どこか張りつめた空気が流れている。
1年生達はこれから鏑木にどのような処分を言い渡されるのか、どのような制裁を受けるのかと、唇まで色を失っている。
そんな1年生達をよそに手元のファイルに目を通していた鏑木は、顔をあげ睥睨すると、
「お前達は次の期末テストで必ず50位以内に入れ」
と言明した。
成績順位50位以内…?!
ピヴォワーヌや他の内部生も進級するための最低ラインの成績は取るために、ほとんどが塾や家庭教師を付けて勉強しているけど、受験のないぬるま湯生活を送ってきた内部生と、過酷な受験戦争を戦い抜いてきた外部生とでは勉強に対する地力が違う。
しかも高校受験を終えてまだ数ヶ月の1年生では外部生と内部生の間の学力にかなりの差があるはず。あの子達の成績がどれくらいなのかは知らないけど、50位以内は言うほど簡単ではないと思う。
言われた1年生達も皇帝からの予想外の難題に目を見合わせて困惑している。
「お前達は昨日、ピヴォワーヌに所属する己の優位性について語っていたが」
鏑木はソファから立ち上がった。
「すべてにおいて秀でていなければ、真に人を従えることなどできない。権威を振りかざすのならば、それだけの価値を示せ」
外部生を従わせたければ、外部生が納得できる成績を取れってことか。
…なんというか鏑木って、意外すぎるほど考え方が真っ当だ。
鏑木が合図を送ると、コンシェルジュが問題集の積まれたカートを運んできた。
「これを今日から始めろ。テストまで俺がお前達の勉強をみる。必ず結果を出してみせろ」
…しかもテスト勉強にも付き合ってあげるのか。
しかし鏑木はそれだけではなく、サロン内をぐるりと見渡すと、
「ここにいる他のメンバー達もだ。全員、ピヴォワーヌのプライドにかけて、次の期末テストは50位以内に入れるよう努力しろ」
鏑木からの突然の無茶な命令に、メンバー達がどよめいた。
ざわつくメンバー達を鏑木は冷静に見据え、
「生徒会に、全瑞鸞生に、この胸の牡丹のバッジの名にふさわしい王者の風格を見せつけろ!」
ピヴォワーヌの会長にそこまで言われたら、メンバー達も頷くよりほかなかった。
うんまぁ、あの1年生達と違って、あくまで努力目標だしね…。
「意外だった?」
ざわつきがまだ止まぬ中、隣にやってきた円城が面白そうに片笑んだ。
「あの1年生達へのペナルティーですか?」
「うん」
「そうですね。正直に言えば意外です。当人達ももっと非情な裁きを受けると思っていたのではないですか?」
鏑木の顔に泥を塗ったんだ。切り捨てられたっておかしくない。
「雅哉はあれで、自分を頼ってくる人間には面倒見がいいんだよ」
「へぇ…」
他人に無関心にみえて、案外そうでもないってことか?確かに騎馬戦やリレーで皇帝のスパルタ訓練を受けた男子達からは、妙に慕われているみたいだけど。
ただ私の経験から言わせてもらうと、鏑木は優秀すぎるがゆえに人に勉強を教えるのは下手だぞ。
でも50位以内かぁ。私は倍率の高い就職に有利な学部に内部進学するためにも、元々貼り出される順位表に名前が載る50位以内を目標としているから、このまま頑張ればギリギリでどうにかなるかな。まさに日頃の努力の賜物。
「吉祥院、ちょっと来い」
1年生達を解放し周囲の人間を下がらせた鏑木が、人差し指を上に曲げて私を呼んだ。ちょっとなによ、そのぞんざいな呼びつけ方は。この吉祥院麗華はそんな軽い扱いをされてよい女ではなくってよ!
「なんでしょう、鏑木様」
愛想笑いでソファにふんぞり返る皇帝の元にへこへこと馳せ参じる私は、小心者の民草です。
「吉祥院。お前は今度の期末テストでは20位以内に入れ」
「えっ、なぜ?!」
なんで私だけ20位以内?!
「お前は現ピヴォワーヌの女子の中での代表格的立場にいるようだし、影響力も強いようだからな。手本となるには丁度いい」
「いや、だからって20位以内は…」
しかし鏑木はそんな私の申し立てを無視し、手に持っている黒いファイルをパラパラとめくりながら、
「この資料によると、吉祥院は毎回、平均40位から50位の間をうろちょろしているようだな」
「えっ、なんで?!まさかその手元にあるのは、私の成績表?!」
「お前のだけではない。全校生徒の成績一覧だ」
なんですと?!瑞鸞の個人情報管理体制は一体どうなっている!
でも20位以内…。
鏑木の言いたいこともわかるし、私も成績を上げることに関しては異議はないけど、でもさすがに20位以内はムリだって。他の生徒達だって受験に向けて本気を出してきているんだもん。
「40位以内でしたらなんとか頑張れそうですけど…」
「なんて志の低いヤツだ。初めからそんなことでどうする!」
「小さなことからコツコツとやるタイプなんです」
「却下だ」
「そんな~」
もう泣き落とししかなかった。
「せめて30位以内でお願いします~…!」
哀れっぽく見えるように、眉を下げるだけ下げた。
苦々しい表情で舌打ちをした鏑木は、「わかった」と譲歩した。やった!それでも30位以内は厳しいなぁ…。
「そんなお前には特別メニューを用意してやった」
そうして私は、鏑木から10枚以上あるプリントを渡された。
「この前のお前の勉強ぶりを見て、苦手な分野をピックアップしてやった」
「え…」
それはありがたいというか、ありがた迷惑というか…。
「毎日採点するからな」
「えっ、毎日?!」
「これは1日分のノルマだ」
「これが1日分?!」
多くない?だって私がやらないといけない勉強は、鏑木に課せられたプリントだけではない。学校からの宿題もあるし、塾の授業の予習もある。
「ムリです、鏑木様。それをすべてこなすには、私には時間が足りません~」
「甘えたことを言うな。時間がなければ作れ。睡眠時間を減らせ」
それこそムリだ。今だって睡眠時間を6時間前後にまで削って毎日勉強している。そしてテスト直前と最中は5時間まで削って努力しているんだ。
7時間以上は毎日寝ないとつらい私は、睡眠時間が5時間以下だと1日中睡魔に襲われ、意識が朦朧として頭が回らなくなり、ふらふら状態になるのだけど、それを高価な栄養ドリンク2本一気飲みという禁断のドーピングに手を染めて毎回テストを乗り切っているんだ。怖いんだぞ。飲んでしばらくすると、おなかがカッカして目がチカチカするんだぞ。
最初の頃はドラッグストアで10本売りしているような庶民的な栄養ドリンクの複数本飲みをしていたのが、段々ともっと強力な効果を求めて、それにはまだ手を出しちゃいけないと戒めていたはずの1本で千円以上する高価な栄養ドリンクをとうとう飲んでしまった。無駄に買えちゃう財力があるおかげで…。
しかも最近ではとうとう高価な栄養ドリンク2本飲みにまで手を染めてしまった。あの体の状態異常は我ながら絶対にまずいと思う…。
そんな恐ろしいドーピングをしながら、ギリギリ状態でテストに臨んでいる私に、これ以上睡眠時間を削れとおっしゃるか!
「今ですでに毎日睡眠不足なのです。これ以上は体調面を考慮して減らせません」
「毎日どれくらい寝ているんだ」
「そうですね。5、6時間でしょうか」
「は?」
鏑木があんぐりと口を開けた。
「充分じゃないか」
「ええっ。全然少ないですよ。だったら鏑木様の睡眠時間はどれくらいなのですか?」
「俺の普段の睡眠時間は4時間から5時間だ」
「ええっ?!」
4時間睡眠!それはダメでしょう。
「そんなに睡眠時間が短くて、日中眠くならないんですか?よく授業中に寝てしまったりしないんですか?体調は?」
「別に眠くなったりも体調が悪くなったりもしないな。俺は元々睡眠時間が短くても平気だから」
なんと!鏑木は世の受験生垂涎の、ショートスリーパーだったのか!なんて羨ましいっ。持って生まれた地頭の良さに加えショートスリーパー体質だったとは。天は鏑木にものを与えすぎている!
「でも私は鏑木様と違い、生粋のロングスリーパーなのです。理想の睡眠時間は7時間以上なんです。体質なんです。変えられません…」
これ以上のドーピングはムリです~。
必死で言い募る私に対し鏑木は難しい顔を作ったけれど、体質ならば仕方ないとなんとか納得してくれた。わかってくれて良かった。
「ではこのいただいたプリントは、とりあえず今日は様子見で出来るところまでやって、明日から本格的にやっていくということで…」
「明日…?」
鏑木にぎろりと睨まれた。
「なぜ明日からなんだ」
「いやぁ、いきなり今日からこれを全部というのは~」
結構、量あるよこれ。今日は宿題も出ているし、これを全部やるのは厳しいよ…。
「そうやって明日からやろう明日からやろうと先延ばしにしているから、お前はいつまで経ってもヒノキの木になれないあすなろなんだ!」
「ぐっ!」
図星をぶっ刺されて私はぐうの音も出なかった。
「でしたら鏑木様、今度のテストの山を教えてくださいませ」
「山…?」
さらに鏑木の目が鋭くなった。
「勉強に山などない。すべてが山だ」
えー…。そりゃそうだけどさぁ。ここは絶対に出るとか、ここは出そうとかってあるでしょうよ。なにその融通の利かなさ。
「いいから、つべこべ言わずに血反吐を吐くまで勉強しろ。わかったな、吉祥院」
血反吐を吐いたら死んじゃうよ…?
私は数式の並ぶプリントに目を落としながら、途方に暮れた。