260
塾へ行くと、ショートヘアの森山さんの髪が一挙に伸びて、長いポニーテールになっていた。
「森山さん、その髪はどうしたの?」
「これ?お姉ちゃんが昔使っていたポイントウィッグなの」
驚いた私が聞くと、森山さんは長い髪をくるくると指に巻きながらそう教えてくれた。
「ウィッグ!いつもとイメージが全く違うので別人かと思ったわ」
「たまにはいいでしょ?毎日受験勉強漬けで滅入ってくるから、髪型でも変えて気分転換でもしようと思ってね。だけどお姉ちゃんも言っていたけど安物だからこれ、抜け毛がすごいんだよね~」
「でもロングも似合っているわ、森山さん」
「そお?」
不満を言いつつもまんざらでもない様子の森山さんは、頭を動かして自分の長い髪を強調した。
なるほどウィッグか…。いいかもしれない。
おしゃれはヘアスタイルから。私がいまひとつ時代遅れなのは、このロココ巻き髪のせいというのがかなりあると思う。
しかし長い髪をいきなりばっさり切るというのも、ちょっと勇気がいる。お母様が私が髪を切ることに反対するのと、先日雪野君とも髪を切らないと約束してしまったのもあるけど、私自身、長年時間と手間暇をかけて手入れをしてきた愛着のある長い髪を切ることに躊躇いもあるのだ。だってばっさり切って似合わなかったらどうする?意外と自分に似合う髪型を見つけるのって難しいよ。失敗してもう一度ここまで伸ばすのは大変だ。
と、そこでウィッグだ。これならどんな髪型にも簡単に挑戦できるよね!良いことを聞いた!
「ありがとう、森山さん。私もウィッグを試してみるわ」
「えっ、吉祥院さんが?」
せっかくだから思い切りイメチェンをしたい。そうなるとやっぱりショートヘアかな。今のロココヘアとは真逆のモード系もいいよねぇ。スタイリッシュな髪型といったら、黒髪のボブとか、おしゃれフランス映画に出てくるベリーショートかな。
「縦ロール以外の吉祥院さんって想像できないんだけど」
「ふふっ」
私もだよ。でもわくわくしてきた。
よおし、そうと決まれば早速ウィッグを買いに行って、クールビューティな私に大変身よ!
「やだ、髪が抜けちゃった」
おっと、つい妄想しながら髪を触っていたら髪が数本抜けちゃった。ゴミ箱に捨ててこないと。他に服に抜け毛は付いてはいないよね。自分の抜け毛を他人に取って捨てられると失恋するってジンクスを本気で信じているわけではないけど、聞いたからには多少は気になる。別に信じているわけではないんだけど。
私が抜けた髪を丁寧にティッシュに包み、捨てるために席を立つと、それを見ていた梅若君から、
「吉祥院さん換毛期?うちのベアトリーチェも換毛期には抜け毛が大変でさぁ。朝晩ブラッシングをしても追いつかないんだよ。吉祥院さんにもごっそり取れるいいスリッカーを紹介しようか?これほんとおススメ」
「どうもありがとう。お気持ちだけで結構です」
犬バカを適当にあしらい、ゴミ箱まで行くと、私達とは離れた席に座っていた同じ瑞鸞生の多垣君が問題集をやっていたので、優しく「ごきげんよう」と声をかけたら、「ひいっ!」と露骨に怯えられた。
「ただ挨拶をしただけなのに、その態度はあんまりではなくて?多垣君」
「ひいっ、すみません、すみません!」
だからなぜそこまで怯える。私はいつだって優しく接しているというのに。
その時、多垣君が私を見てハッとした。
「あっ、その手に持っているのはゴミですか?わかりました。僕が捨ててきます!」
「えっ」
ちょっとやめてよ。私が失恋したらどうするのよ!
私の手からティッシュを取ろうとした多垣君の手を思わず払いのけると、「ひぃ~っ、すみませ~ん」とまた平謝りされた。周りにあらぬ誤解を与えるから、今すぐその怯え様をやめろ。
「ねえ。私は多垣君にそこまで怯えられるほど、何かしたかしら」
「はい、何もされておりません。僕は吉祥院さんに何もされておりません」
機械的すぎて嘘くさいにも程がある。
「だったらなんで怯えるのよ」
「いやぁ、それは…」
「あちらの席にいる梅若君や森山さん達みたいに、多垣君も私に普通に接してくれていいのよ」
「え…、さすがにそれは…。僕は吉祥院さんがピヴォワーヌのメンバーだと知っていますから。あんな態度は取れません」
あぁ、そっちか。瑞鸞生にとってピヴォワーヌは畏怖の対象でもあるもんね。
「それに…」
「それに?」
「……」
「怒らないから、正直に言っていいのよ」
「その、吉祥院さんは存在そのものが弾圧といいますか…」
「なによ、それ!」
何もしなくても、いるだけで恐怖ってこと?!
目を吊り上げた私に、多垣君は身を守るように頭を手で覆い隠しながら「すみません、すみません!」と机に突っ伏した。
まったくもう。だけど私は優しいから失礼なことを言われても怒ったりはしない。
「ありがとう。多垣君の気持ちはよ~ぉくわかったわ」
安心させるように背中をトントンと叩き、「覚えておくわね」と抱えた頭に優しく声を掛けてあげた。
うえ~っ、今日は朝から数学かぁ…。
吉祥院家の送迎の車を降りて、1時間目の憂鬱な科目を思い浮かべながら門から校舎までの道を歩いていると、其処彼処から「麗華様ごきげんよう」「おはようございます、吉祥院様」と声を掛けられるので、それに「ごきげんよう」と笑顔で応える。
「吉祥院様、おはようございます」
そしてまた斜め後ろから掛けられた挨拶の声に、「ごきげんよう」と振り返ると、そこにはピヴォワーヌの1年生の男子生徒が笑顔で立っていた。
「そろそろ暑くなってきましたね」
「そうね。もうそろそろピヴォワーヌのサロンの冷たいミントティーがおいしい季節かしら」
「いいですね。あれは僕も好きなんです」
愛想良く話しかけてくるピヴォワーヌの後輩と、他愛ない話をしながら連れだって歩く。
ピヴォワーヌメンバーは初等科のプティ時代からサロンで顔を合わせているので、学年が違ってもこうして会えば親しげな会話も行われる。
ふと、彼がカバンを持っていないことに気がついた。
「カバンはお持ちではないの?」
「え、ああ。カバンなら後ろです」
「後ろ?」
彼の目線を追って一緒に振り向くと、カバンを両手に抱えた男子生徒が歩いてきた。
え…?
「それ、僕の教室に持って行っておいて」
ピヴォワーヌの後輩が顎で校舎を指し示すと、その子は「はい」と返事をした後、おどおどした態度で私に会釈をしてから校舎に歩いて行った。
え、なに今の…。
「それで吉祥院様。実は今度我が家でパーティーがあるのですが、良かったら吉祥院様も…」
「今の子はどうして貴方のカバンを持っていたの…?」
私が話を遮って疑問を問うと、後輩は質問の意味がわからなかったのか一瞬きょとんとした後、笑顔で「外部生だからですよ」と答えた。
「外部生だから…?」
「はい」
自分の振る舞いになんの疑問も持っていないその様子に、私は言葉に詰まった。
そういえば、この子はピヴォワーヌ至上主義だった前会長とよく行動を共にしていた選民思想派だったっけ。
「…カバンくらいは自分で持った方がいいかもしれないわね?」
「はあ」
一応返事はしたものの、納得のいっていない表情の後輩にこれ以上なんと言えばいいのかわからなくて、朝からイヤなものを見てしまったと憂鬱な気分になった。
そして朝からのなんともいえないモヤモヤを心の片隅に抱えたまま放課後を迎えた私に、あやめちゃんが耳寄りな情報を教えてくれた。
「お聞きになりました?麗華様。食堂で放課後にも試験的にデザートを出すことになるって」
「そうなの?!」
瑞鸞の食堂は基本的にはランチのみでその時にはデザートメニューもあるのだけど、それ以外は自動販売機で買った飲み物を飲んだり、放課後に運動部の生徒のために軽食があるくらいでデザートはない。
「ちょっとした焼き菓子程度らしいのですけど、今日から始めるみたいなので、良かったら見に行ってみませんか?」
「ぜひ行きたいわ!」
焼き菓子かぁ。一応お菓子の持ち込みは禁止になっているので、甘いものがランチ以外に出るのは画期的かもしれない。プリンはあるかな。
私は帰り支度をした後で芹香ちゃん達と食堂に向かった。
「あやめさんは、よくそんな情報を知っていたわね。私は全然知らなかったわ」
「私も今日偶然、運動部の人に聞いただけなんです。運動部からの要望に応える形で試験的に出すらしいので、まだ数も少ないし運動部内での口コミらしいんです」
「へぇ」
ピヴォワーヌのサロンに行けばメンバー特権でいつでも極上のお菓子が食べ放題だけど、新メニューや限定メニューと聞くと気になっちゃうよねぇ。
あくまでも軽食の一環だしあまり期待しないでおきましょうね~などとおしゃべりをしながら1階の渡り廊下を歩いていると、向こうからピヴォワーヌの1年生の男子生徒達がやってきた。運動でもしてきたのか、全員が手にスポーツドリンクを持っていて、その中には今朝の後輩も混じっていた。なんとなく顔を合わせづらいなぁ…。自分達の話に夢中で私に気づいていない間に、別の道を通ろうか。
そんな私の気持ちも露知らず、彼らは廊下の真ん中でわいわいと賑やかにふざけ合いながら歩いていたが、ひとりの子が笑いながら隣にぶつかった拍子に、手に持っていたスポーツドリンクを落として、転がった中身が床を汚した。
「あ~あ、なにやってんだよ」
「お前が押すからだろ」
「きったないなぁ」
それでも彼らはおかしそうに笑っている。あれか、箸が転がってもおかしい年頃ってやつか。男子だけど。
すると落とした子が笑いながら周りを見て、誰かを見つけると、
「おい、そこの外部生。これ片付けておいて」
私はそれに目を見張った。
指名された子は、授業の片付けなのか両手に大きな荷物を持っていた。
「あ…、でも僕はこれを至急先生に届けないといけないんですけど…」
「それはお前の都合だろ」
目を忙しなく動かしながら震えた声でなんとか言葉を紡いだ外部生を、冷たく切って捨てたピヴォワーヌの後輩達は、そのまま外部生に背を向けて立ち去ろうとした。
その時、
「自分で落としたものは自分で片付けろ」
厳しい表情をした同志当て馬が、生徒会の役員と共に中庭側から現れた。同志当て馬の後ろには若葉ちゃんもいた。
しかしピヴォワーヌの1年生達は同志当て馬を鼻で笑うと、無視して通り過ぎようとした。
「待て」
「なんだよ」
後輩達がうるさそうに振り返る。
「片付けてから行け」
「そういうのは外部生の仕事だろう?」
私が朝聞いたのと同じようなことを、別のピヴォワーヌメンバーが口にした。
「なんだと」
「外部生は俺達内部生が快適な学院生活を送れるために存在しているんだから、当然だろ?ああ、そいつが手が空いていないなら別のヤツでもいいよ。そこの、特待生のお前がやっておいて」
指を指された若葉ちゃんはびっくりして「え、私?」と自分を指して確認し、同志当て馬と生徒会役員からは一気に険悪な空気が立ち上る。
「なぜ関係のない、しかも先輩である高道が片付けてやらないといけないんだ」
「外部生だからだろう」
なにか騒ぎがあったようだと聞きつけて、人がどんどん集まってきた。これはまずいかもしれない…。
「この学院においてピヴォワーヌが特別な地位にあることは理解するが、度が過ぎる横暴は認めるわけにはいかない」
「横暴?それを決めるのは誰だ。生徒会か?違うね。瑞鸞ではピヴォワーヌが法だ。お前達が僕らに指図する権限はない」
今朝外部生にカバンを持たせていた後輩が言い切った。そして若葉ちゃんを見据え、周りにいる他の外部生を確認するように見渡すと、
「わかっていないようだから教えてやる。お前達外部生がこの瑞鸞で使っている、他校では類を見ないハイレベルな施設や備品をどうやって維持しているか。すべて僕達の寄付金で成り立っているんだよ。その寄付金も満足に払っていない人間が、使わせてもらっている対価に僕らに尽くすのは当然だろう」
「おいっ!」
激昂して前に出た生徒会役員を同志当て馬が手で押さえた。それをピヴォワーヌの1年生達はせせら笑った。
「僕らのお情けで学院に通わせてもらっている分際で、弁えろ」
そこまで言うか!
長年の歴史からほとんどの生徒はピヴォワーヌの特別待遇を当然のものとして受け入れているから、同志当て馬の強硬な姿勢に同調するよりも戸惑っている生徒の方が今は多い。でもこれ以上ピヴォワーヌの排他的で選民的思想を鮮明にしたら、それに不服や不満を覚える生徒達が出てきて、瑞鸞革命を企むレジスタンスを生んでしまうかもしれない。そんなことになったらロココの女王なんて真っ先にギロチン台送りだ!うわああっっ!恐ろしい未来に体が震えた。
同志当て馬が怒りを抑えるためか、一度大きく息を吐いた。
「それがピヴォワーヌの考え方か」
「そうだよ」
違う!違うよ!勝手にピヴォワーヌの総意にしないでよ!私みたいな平和主義者もいるんだから!
ピヴォワーヌの1年生達と生徒会は睨みあい、完全に一触即発の状態になってしまった。唯一若葉ちゃんだけが困った顔で両者の様子を窺っている。ああっ、若葉ちゃん。
レジスタンスから我が身を守るためにも、とりあえずこの騒ぎをどうにか収拾しないと。
もうっ、なんで蓋の開いた飲み物を持って廊下でふざけたりするかなぁ?飲み物さえこぼれなければ、こんな修羅場にならなかったのに!
両者の間に横たわるドリンクさえ無くなれば、この場もお開きになるんじゃないか?
じゃあ誰が片付けるのが一番この場が穏便に済むのか。私?いやいや、最上級生で“ピヴォワーヌの麗華様”が、下級生のこぼした飲み物を代わりに掃除したら、それこそ大問題になってしまう。だからといって芹香ちゃん達にお願いしたら、同級生を子分扱いしたあの1年生と同じになってしまうし…。誰かササッと片付けて無かったことにしてくれたらいいんだけどなぁ。でも迂闊にピヴォワーヌに関わって目を付けられたら怖いから、動く生徒は誰もいない。
どうしたものか…。もうこれ以上は私の胃がもたない。「おやめなさいな。騒々しくってよ」と私がピヴォワーヌの大物感を漂わせて割って入り、「ここは私に免じてお互いお引きなさいな」とやるしかないか…。
ピヴォワーヌの後輩達は私の言うことはたぶん聞くと思うけど(むしろ聞いてくれなかったら、ピヴォワーヌ内での軽んじられぶりに泣くよ)、問題は生徒会だな。あれだけ激怒していると憎きピヴォワーヌの私の言うことなんて絶対に聞いてくれないだろう。
でも同志当て馬なら毎朝早起きして一緒に若葉ちゃんの備品の掃除をし、共に犯人探しをした仲の私が仲裁に入ったら私の顔を立てて、きっと、いやたぶん、矛を収めてくれる…かなぁ?
あぁ、だけど元凶の転がるドリンクを誰が片付けるか問題が…。
ごちゃごちゃ考えている間にも、争いはどんどん激化していく。こうなったら行き当たりばったりでいくしかない!
私は心に扇子を広げ、一歩足を踏み出した。