場所と時代で変わる戦艦大和の沖縄特攻の評価
「大和が沖縄のはるか北方の海に沈められてよかった」
はじめに
平成21年の自由社の中学生の『新編 新しい教科書』に写真付きで大和が初めて取りあげられた。一方、大和が沖縄の海に沈んでから60年後の2005年4月に呉市に大和ミュージアムが開館したが、初年度の入館者は170万人で、博物館は冬の時代と言われているが入館者は毎年100万人を超え、開館3年7ヶ月で450万人を超えた。この大和ミュージアムの人気は大和が世界一の戦艦であったという民族的な誇り、ナショナリズムも一つの要素であるが、祖国の危機に不条理な命令ではあったが、勝敗を無視して出撃した義に生きる日本人的な戦い方と、悲劇的な最後に対する惜別の感情があるからかもしれない。大和の批判もあるが、多くは上級司令部などの大和の運用に対するもので、大和の乗員の祖国愛に満ちた特攻的行動に関する非難は少ない。
旧海軍の代表的批判者の大井篤大佐にしても、「伝統、栄光、みんな窓の外に見える桜のように美しい言葉だ。しかし、連合艦隊主義は連合艦隊の伝統と栄光のために、それが奉仕すべき国家の利益まで犠牲にしている。敵航空部隊をして『大和討ち取り』の歓声をあげさせるだけではないのか。4000トンの燃料を船団の護衛に使うならば、どれだけの食料を大陸から運べたであろうか(2)
」と運用法をめぐる批判である。
一方、沖縄で戦った陸軍に対してはかなりの批判があるが、海軍司令官の太田実中将に対しては沖縄「県民ニ対シテ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の決別電報を発したことから、非難は殆ど見当たらない。また、本土復帰前の1966年10月に那覇港に「あきずき」以下4隻の練習艦隊が寄航すると、沖縄県民は岸壁に舞台を作って沖縄舞踊と民謡で迎えた。次いで練習艦隊の部隊が国際大通りを軍艦旗を先頭にパレードをすると、道の両側には日の丸を持った人々が大歓迎をし、琉球新報社のホールで音楽隊の演奏会を行い「軍艦マーチ」を演奏すると大きな拍手が起きた(2)。
しかし、それから5年後に日本に復帰、その時に沖縄地方連絡部募集科長に発令された太田実司令官の次男の落合晙は、「復帰前には日の丸で大歓迎した同じ県民が、5年後に復帰した途端に『人殺し集団・自衛隊、出て行け、出て行け』ですよ(3)」。このギャップは理解できなかったと回想しているが、
この沖縄県民の急激な対応の変化の理由はどこにあるのか。本論では大和の沖縄特攻と太田実中将に対する沖縄における評価の変化を歴史と県民性の視点から考えてみたい。
戦艦大和と太田実中将に対する評価の逆転
『沖縄タイムス』は2007(平成19)年3月20日に、「れいたかし」という人物の「踏みしだかれた島 」という論説を掲載したが、そこには「大和が沖縄のはるか北方の海に沈められてよかった(4)」と次のように書かれていた。
明治以来、日本国の琉球島嶼群に対する差別政策は、人頭税をはじめとする旧慣温存による苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)と、伝統文化や言語の廃絶強制など多岐にわたるが、そのいきつところとして、太平洋戦争における皇土防衛の為の捨石とされた事もあるが、もっともあくどい仕打ちは、戦艦大和の沖縄海上特攻作戦だったのではないかと私は思う。さて、沖縄に大和が攻め込んできて、世界最大最強といわれたその主砲16砲塔9門(原文のまま)が一斉に火を吹くと沖縄はどうなっただろうか。想像しただけで瞑目するばかりである。おそらく、大和は偵察機による誘導もないので、沖縄中南部の平地に巨大な砲弾をところかまわずに打ち込んだろう。その弾は日米軍ばかりではなく、住民をも打ち砕いたであろう。住民の犠牲者は更に多数に上り、30万人(当時の人口の半分)にもたっしたのではないかと恐れる。だが、大和は米空母群から発艦したヘルダイバー急降下爆撃機による空からの攻撃と潜水艦による魚雷攻撃で、沖縄本島には一発の砲弾も放つことなく、4月7日に3千人の乗組員とともに撃沈された。あっ、よかった。戦艦大和が沖縄のはるか北方の海に沈められてよかった。そう言えば、日本国民の多くは激怒するだろうし、やはり琉球人は日本人ではないと、その従来の差別感の正当性を再認識するに違いない。沖縄人が戦艦大和によりさらに多数を殺され、島の集落のことごとく破壊されたであろうことを思えば、それはまさに明治以来の差別のいきつくところであった。
一方、太田実中将は「日本人トシテノ御奉公ノ誇ヲ胸ニ抱キッツ、遂ニ□□与ヘ□コトナクシテ、本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□□□一木一草焦土ト化セン。糧食ハ6月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ。沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ(6)」との電報を発したことから、日本政府も国民もこの電報に動かされ、沖縄が返還された1972年から2000年までに限っても、10兆5000億円の援助を与えたが、特に平成11年4月に小渕恵三総理は、外務省や警察庁が宿泊、交通、警備などに問題があるとの強い反対を排して沖縄をサミット開催地に決定した。そして、同年9月にアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議のため訪問したニュージーランドで、同国に在住する大田中将の4女、オムスデン昭子氏に会い「大変苦労された沖縄県民の方々のためにも、来年、沖縄でサミットをやると決めたことは間違えではなかった」と語ったことが示すとおり、小渕総理の沖縄でのサミット開催は大田中将の電報を「重くとらえていて、沖縄への恩返しという意味もあった」と小渕総理の政策秘書であった古川俊隆氏は述べている(7) 。このようなことから、太田中将に関しては沖縄でも評価されてきた。しかし、2008年7月には沖縄大学の又吉盛清教授が『沖縄タイムス』に「中国・沖縄元年―新たな関係構築へ(8) 」との論説を寄稿し、太田実中将を侵略者として次のように非難している。
第一次、第二次上海事件で沖縄出身者が戦死し、靖国神社に合祀され国家護持の「祭神」となっているが、これは「沖縄軍兵士もまた、侵略戦争と植民地支配の『日本帝国』の先兵、加害者になって上海、中国を軍靴で踏み荒らし、中国人へのレイプと虐殺を繰り返してきた姿が見える」。「沖縄人は日本国家に統合され皇民化教育を受けて『日本臣民』になり、帝国化した沖縄と沖縄人になることによって、大きく被害者から加害者に転落していくのである」。沖縄と係わる上海で忘れてならないのは、沖縄戦の海軍司令官の太田実中将が陸戦隊第5大隊長(少佐)として、」第一次上海事件では陸戦隊を指揮していたことである。「太田が上海事件から沖縄戦と続く日中戦争の中で二重、三重に沖縄人兵士を戦場に追い込み、戦死させたということである。太田には上海戦と沖縄戦とをつなぐ、もう一つの戦争責任があるということである」。
日本軍部の沖縄県民への配慮
沖縄の大和や太田中将に対する評価が最近大きく逆転したが、日本軍や日本政府の戦争中の沖縄県民に対する対応はどのようなものであったのであろうか。1944(昭和19)年7月7日にサイパンが陥落すると、戦火が沖縄に及ぶことを憂慮し政府は臨時閣議で、沖縄および宮古島など五島から60歳以上と、15歳未満の学童を台湾へ2万、本土に8万を疎開させる決定をした。しかし、沖縄県民は日本軍の不敗を信じており疎開は順調には進まなかったが、米軍の空襲が始まると疎開にも応じ44年7月から米軍により海上交通が遮断される翌年3月までに延べ187隻(撃沈されたのは対馬丸1隻のみ)で、児童5586名を含め約8万名を疎開させた(9)。また、海軍も沖縄県民への配慮を忘れなかった。当時、海軍大尉待遇で海軍嘱託の市橋立彦(現ブレーンバンク(株)社長)は、戦艦大和の沈没箇所が確認されて海底の艦影が放映されると、「今まで誰も書かなかった秘話を風化させてしまうのは申し訳ないように思うに至り」、1983(昭和58)年に中央公論社の『歴史と人物』に大和が沖縄県民のために、歯ブラシや女性用品の美顔クリームとメンスバンドを搭載していた事実を次のように書いている(10)
。
私の召集以前の仕事は大阪のシオノギ製薬の原料課農水係長であった。終戦の昭和20年は、文字通り日曜日も土曜日もない月月火水木金金の勤務で、月水金は本職の原料の闇購入と陸軍衛生材料廠との折衝、火木土は第二海軍療品廠の大尉待遇嘱託としての勤務で、マイホームなどは完全黙殺であった。・・・・そんな「ある日」、昭和20年の3月半ばだったと思うが、都丸(俊男)閣下から突然の呼び出しがあった。閣下は療品廠長で海軍薬剤少将であった。「本日より1週間以内に、歯磨き、歯ブラシを各50万人分、美顔クリーム25万人分、メンスバンド15万人分を調達するために、○○大尉に協力してほしい、理由はいえない、だちにカカレ」という命令(?)であった。とにかく大量で、しかもクリームとメンスバンド(月経帯)は、「女を乗せない海軍らしからぬもの。その上に全商品とも当時シオノギとは無縁のモノを1週間以内に・・・・「不可能を可能にするのが帝国海軍だ。だから君に協力してほしいのだ」というのが当時の○0大尉殿の言葉であった。当時の輸送事情から考えて東京や名古屋からは無理、だから既製品を京阪神で、それも大阪を重点に、大尉と一緒にメーカー・問屋のリストを一軒一軒チェックした。当時の大阪で歯磨きと歯ブラシ、それに美顔クリームまでを一社で大量に製造しているのは「クラブ化粧品」の中山太陽堂しかなかった。
しかも、クラブ歯磨きには忠臣楠正茂の馬上の勇姿がついていたし、クリームは明治美人印である。これはいけるぞ!と考えて早速、大尉を案内して中山太陽堂の社長・故中山太一氏を訪ねた。突然の訪問にかかわらず中山社長は快く会って下さった。そして黙っててわれわれの話を聞いていた社長は、理由も聞かずに「全力を尽しましょう」といわれた。肋かった!残るはメンスバンド。これは最大の難問とはじめから思っていた。当時の生理帯はメンスバンドとか月経帯といって黒い木綿地の長いズロースで、股間部分にボタン留めの生ゴム布がついていた。生ゴムは既に軍需用にさえ欠乏して困っていた。それにメーカーは中山太陽堂のような大会社ではなく、ビクトリア、フレン、戦前の中山太陽堂のクリーム ドという有名会社もあったが、多くは群小の会社であった。だから一社一社当たってみるしか仕方ない。しかも期日は迫っている。・・・・・それが、これもまた文字通り軍民一致の協力によって集荷できたのである。もともと無理な注文だっただけに、少々数量が不足しても仕方がなかろう、と廠長閣下は秘かに思っていたに違いない・・・・・・それが終戦直前の物資欠乏の時に本当によく集荷できたものである。それだけにすべての集荷関係者のご苦労は、今の人ではとても想像できないであろう。われわれの調達品は他の大量な物費とともに10数両の貨車に積み込まれ、大阪の梅田貨物駅を出発したのは深夜だったそうである。私の話の中には「そうだ」という不確定語句がちょいちょいでてくる。それはいくら大尉待遇でも立ち入れない場所とコトがいっぱいあって、やむなく関係者の話を総合して判断するしか仕方ないからである。さて、一体、あの膨大な荷物は何処へ、という私の質問に○○大尉は西の方へむかったから多分、呉だろうとしか答えてくれなかった。呉へ何のためにメンスバンドが(?)・・・・・
それから当分の間、廠内ではいろいろな噂が流れた。しばらくたった4月8日(?)、たしか日曜日だった。廠に出勤してみると、廠内の空気がいつもと違っていた。それにあちこちでヤマトという声がする。「もしかしたら…-」。絶対考えたくないことだが……不吉な予感がする。すぐ、同輩と佐官室へ飛び込んだ。誰もいない。海軍では二本赤線を引いた海軍公報は佐官以上しか見てはいけないことになっていたが、時おり見せてもらっていた。「除籍」の項を見た。超弩級戦艦大和に赤線が引いてあった。そこへ悲痛な顔をしたO大尉が入ってきて、「市橋君、われわれが共に一週間たたかったあの4品目は、大和に積んだそうだ。沖縄県民のために残念なことをした。市橋君、本当にご苦労だったといった。戦後になって当時のことを調べてみると、救援品輸送船なども撃沈されており、大和は沖縄への物資補給をも兼ねていたに違いないが、それにしてもクリームと月経帯という女性専用品をあんなに大量に積み込んだんだから、兵器や弾薬など軍需品のほか、明らかに沖縄県民のものだったに違いない。当然、食糧も衣料品も積んであったのであろう。戦艦大和を中心とするあの沖縄への水上特攻隊は、噂とおり沖縄本島に乗り上げて「陸の要塞」になる予定だったのであろうか。要塞になるのが作戦目的ではなかったが、最悪の場合には、陸の要塞になることは予め計画されていたのであろう(?)。いずれにしても、戦艦大和が大量の女性専用品を積んでいた(だろう)ことは、記録に残されてよいことだと思う。
先の自由社の教科書に「緊急手配した女性用衛生品15万人分も含まれていたことから先頭ばかりでなく、島民生活の救援も期待されていたことがわかっている」との注を付けたが文部省は、この文書を根拠に教科書に記載するのは不適切と検定で削除されたという。確かにこれだけでは教科書に記載するのは無理がある。筆者は療品廠長の都丸俊男薬剤少将を探し、シオノギ製薬や中山太陽堂(現(株)クラブコスメチックス社)の文化資料室に確認しようとしたが、都丸少将は海軍士官や軍医の親睦団体の水交会や桜医会が結成される終戦2年後になくなり、市橋立彦氏も同じく終戦後にシオノギ製薬を退職し自身で会社を創設したため追跡できなかった。ただクラブコスメチック社の文化資料室からは「古い社員の中に、そのような話をしていた人がいた」という程度しか確認できず、大和が沖縄県民のために食糧や衣料品を積んでいた史実を確認できなかったが、この史実が明らかになれば沖縄の反日本、反軍感情も少しは和らぐのではないかと残念でならない。
沖縄県民への物資搭載の考察
なぜ、特攻を命じられた大和が「貨車10数両」分の一般物資と歯ブラシや、婦人用化粧品を多量に搭載して出撃したのであろうか。1945(昭和20)年4月5日13時59分に、「1YB〔大和2sd(矢矧及
d×6)〕ハ、海上特攻トシテ八日黎明沖縄島ニ突入ヲ目途トシ、急速出撃準備ヲ完成スベシ」との出撃準備命令が発せられた。次いで同日15時には海上特攻の実施が下令され、
作戦要領として夜陰に乗じて警戒線を突破し、沖縄泊地に突入し大和の巨砲により所在の米艦船を撃破せよというものであり、「国家存亡ノ岐路ニアリ」、海上部隊の「最後ノ花形トシテ多年苦心演練シタル腕ヲ発揮シ……..弾丸ノ続ク限リ最後マデ」、「獅子奮迅ノ働キヲナシ、敵ノ一艦一艇ニ至ルマデコレヲ撃滅シ、戦勢ヲ一挙ニ挽回シ皇恩ノ万分ノ一ニ報イ(11)」るべしと、大和以下の艦艇が特攻部隊であることが伝えられた。
この命令には海岸に乗りあげて「浮砲台とせよ」との語句は見当たらない。艦隊決戦を想定して訓練を重ねてきた乗員に陸兵になれ、あるいは始めから第一任務が達成できないことを想定し、海岸に乗りあげて「浮砲台となれ」とは作戦命令には書けないので、「浮砲台任務」は非公式に口頭で伝えられた可能性が高い。それは連合艦隊司令部の幕僚の中には、大和の「浮砲台」を主張した先任幕僚の神徳重少将がいたからである。神徳少将は米軍か沖縄に上陸する1年前の1944年6月に、米軍がサイパンに上陸すると戦艦部隊を突入させるべきである。「大和、武蔵を惜しんでどこに使い道があるのか、もし幸いにしてサイパンにたどりつき、海岸砲台にすることができれば少なくとも6ヶ月間は、その侵攻作戦を足踏みさせられるのに残念至極だ。島田総長、伊藤次長らにその決断ができないのは終生の恨みだ
(12)」と、教育局長の高木惣吉少将に怒りをぶつけていたからである。その神大佐が少将に進級し連合艦隊の作戦参謀となっており、高田利種連合艦隊参謀副長によれば、神参謀は司令部の作戦会議で大和の水上特攻について次のように主張したという(13)
。
沖縄のあの浅瀬に大和がノシ上げて、18吋砲を1発でも射ってごらんなさい。日本軍の士気は上がり、米軍の士気は落ちる。どうしてもやらなくてはいかん。もしこれをやらないで、大和がどこかの軍港で係留されたまま野たれ死にしたら非常な税金を使って、世界無敵の戦艦、大和、武蔵を作った。無敵だと宣伝した。それをなんだ、無用の長物だと言われるぞ。そうしたら今後の日本はなりたたないじゃないですか」。
このように神参謀は主張したが、海軍部内には大和は不沈艦であり「浮砲台」になれると考え、その作戦準備も進めたのではなかったか。『戦艦大和』の著者で乗組員であった吉田満中尉も、「一躍して陸兵となり、干戈を支えん(分隊ごとに機銃・小銃支給さる)(14)
」と書いている。何らかの指示がなければ大和に作戦に直接関係がない多量の歯ブラシや女性用品(当然、これ以外の県民に必要な物資も搭載していたと考えられるが)などを集め、搭載することは当時の状況では不可能だからである。
太田中将非難の虚像
沖縄大学の又吉盛清教授が太田司令官を非難した『沖縄タイムス』には、沖縄県人の国吉鶴など5人と太田大隊長の写真が掲載されているが、この写真は国吉など5人の沖縄県人が、陸戦隊の被服の修理に陸戦隊本部に行ったときに撮影されたものであり、太田中将の伝記を書いた田村洋三は、この写真について国吉鶴から聞いた内容を次のように記している(15) 。
1932(昭和7)年1月、上海事変が勃発すると陸戦隊から、この辺は危ないから退いた方が良い、と言うお話がありまして陸戦隊本部の北四川路のマンションへ慌てて引っ越しました。案の定、翌朝、元のマンションに行って見ますと、焼き討ちに逢って内も外も丸焼けになっていまして、ゾッとしたのを覚えています、事変の間は銃声や砲声が轟き、生きた心地がしませんでした。昭和7年3月3日、第一次上海事変の戦火がやんで間もなく、国吉鶴さんは上海陸戦隊第五大隊本部を訪れ、大隊長の大田実少佐に会う。それは上海でキリスト教会付属幼稚園の先生をしていた実妹の出場英子さん(沖縄女子師範学校の出身)が、教会の牧師から兵隊の軍服の繕いをやって下さる方はいませんか、との依頼を聞いたからであった。国吉さんは二つ返事で協力する。それは「私たちの共同租界の自宅が焼き討ちに遭い、四川路のマンションに引っ越した時、陸戦隊の兵隊さんは、それは親切でした。焼け残った荷物をサイドカーやなんかで、運んでくれよったですから、そのお礼の意味もありましたが、それより何より外地で苦労している日本の兵隊さんのお役にたつならと思いましてねえ」。国吉さん、兄嫁の田場貞子さん、英子さんの同僚で山口県出身の家坂さん姉妹も幼稚園から暇をもらって応じた。朝9時ごろ第五大隊のサイドカーが皆をピストン輸送してくれました。「太田閣下は丸顔の見るからに優しい人で、ニコニコしながら『奥さん方がお国のためと思って下さったのが本当に嬉しい。兵隊の軍服が見苦しく仕事も出来ない状態なので手伝って下さい。国家から差し上げる給料もないので申し訳ないがとおっしゃった。
部屋にはミシンが3台、それに針や糸、端切れもちゃんと用意してありまして、早速、修理に掛かりましたが、破けた服の兵隊さんが長蛇の列ですよ。破れている、綻びている、裾が切れて垂れ下がっている、ボタンが飛んでない。それも着の身着のままらしく、そこで待っているんです。仕方がないから、そばに座らせておいて慌てて繕っては着せ、縫っては着せ、というやり方でした。
写真は『沖縄タイムス』2007年3月20日より転載
第一次上海事変は列強の注意を満州から引き離そうと、上海領事館付陸軍武官の田中隆吉少佐が、関東軍参謀板垣征四郎大佐の指示を受け反日中国人を買収し、日蓮宗僧侶を襲撃させた陰謀であった(16)
。しかし、上海事件の発端を作ったのは広東派(主席林森、行政部長孫科(孫文の長男で共産党員)が、蒋介石の対日参戦を牽制し上海の経済を押さえようと、第一九路軍を上海付近に展開したことであった(17)
。確かに上海事変は関東軍の河北分断策もあり、中国人の反日感情を高めていったが、それを利用してシベリア国境の安全を得ようとの、ソ連の謀略も大きく影響していたし(18)
、中国へ武器を輸出して戦略物資を確保しようと、軍事顧問を送り対日戦争計画の策定などに深く関わっていたドイツの思惑もあった(19)。
また、蒋介石もドイツの指導で自信を付け第一次上海事件後の2月4日には国民政府軍事委員会(委員長・蒋介石)から全国国防計画の発動が命じられ、「防衛区の兵力を結集し、日本の横暴に対処する」ことも命じていた。しかし、これらの細部を論ずることは本題でもないので、ここでは国吉鶴の回想録を中心に陸戦隊第五大隊を指揮した太田少佐の事件とのかかわりについて考えることとしたい。
第一九路軍が上海に近づくと上海市当局(工部局)は1月26日に戒厳令を布告、外国人に租界内への避難を勧告し、27日には共同租界防衛委員会(上海共同租界市参事会議長マークノートン、警視総監フェッセンデンや英、米、日、仏、伊各軍の司令官によって構成)は非常事態を宣言し、共同租界を列国が分担して警備することを決めた。第1遣外艦隊司令官塩澤幸一少将は日本人が多い北四川路付近に第一九路軍が侵入すると、中国人警官も全員逃亡したため略奪・放火の危険が極めて高いと判断し陸戦隊の展開を決意した。しかし、塩沢司令官は中国との摩擦を避けようと、28日午後5時ころには列国の軍隊が担当警備区域に着いたが、その3時間後の午後8時に、邦人保護のため29日午前零時に北四川路に兵力を配備する。それまでに撤去することを要望するとの声明を発し、列国より5時間ほど配備を遅らせ29日零時に警備に着こうとしたところ、中国側から突然攻撃を受けて反撃し、これにより第一次上海事件が始まったのである(20)
。このように第一次上海事件は在留邦人の生命財産を守るための局地的かつ防衛的な警備行動から起きた事件であり、満州を中国から切り離して独立させる政治目的を持つ満州事件と同列に論じ、「沖縄軍兵士もまた、侵略戦争と植民地支配の『日本帝国』の先兵、加害者になって上海、中国を軍靴で踏み荒らし、中国人へのレイプと虐殺を繰り返してきた」。「沖縄人は日本国家に統合され皇民化教育を受けて『日本臣民』になり、帝国化した沖縄と沖縄人になることによって、大きく被害者から加害者に転落していくのである」と太田中将を非難しているが、太田少佐は上海事件が勃発したため、1月29日に第五大隊長に任命されて出征し、3月24日に停戦が成立すると、1ヶ月後の4月20日には太田大隊は撤収し、太田は砲術学校の教官に任命され上海を去り、停戦協定が5月5日に成立すると7月17日には租界の警備を中国警察隊に委譲しており(21)
、太田中将を侵略者と断罪するのは「歴史の歪曲」ではないか。(写真は現在の陸戦隊本部)
沖縄と韓国の太平洋戦争中の愛国心
戦争中の沖縄の新聞には(22) 、「職場死守の軍国娘達」、「父母を失い弟妹傷つくーこの仇討つと陸士志願」、「往け吾が子よー兵志願奨む尽忠の声」として、父は「14歳で兵志願ができるとは、青少年の純白無垢の愛国心を躍起させるべきだろう。父親としてその栄ある勇姿を拝みたい」、母は「今こそ自分達の子を赤子として捧げる秋が来たのだ。我が腹を痛めた子は私のものではない。国に捧げ大君の御盾に育て挙げる感激は私達の聖戦に参加する誇りであり、光栄でなくてなんでありましょう」などとの記事が紙面を埋めていた。また、1944年12月1日の『沖縄新報』の社説は、「敵の攻撃が激しくなったからといふて恐るる必要はない。(中略)敵の唯一の恃みとする物量に対して我が方は卓抜なる精神力をもってした。即ち神風特別攻撃隊によって表現された神風精神は正に物量を超克する偉大なる神州護持の大精神である。小磯首相がしばしば指摘して居る通り、大東亜戦争に勝つには国体意識を明徴にするにある。国体を明徴にすれば神州を護持するの精神は自から湧発し、生命財産を上御一人に捧げつくして些かも悔ゆるところがなく、皇国民たるの本然の姿を遺憾なく顕現しうるのである。(中略)神州護持の精神を実践するものは必ずしも陸海軍将兵に限るものではない。銃後の国民が軍の背後にあって奮戦する職域の実践にも、又この大精神が貫かれて居ることを強調せずには居れない。
沖縄と同じように熱烈な対日協力から反日へと、対応を180度も逆転したのは朝鮮(韓国と北朝鮮)で、1931(昭和6)年の万宝山事件で満州在住の朝鮮人入植者を保護すると、朝鮮では反日運動が消え対日協力が一挙に高まったが、太平洋戦争では太平洋戦争勃発2日後の12月10日には、国民総力朝鮮連盟主催で決戦大講演会が開催され、12月14日には朝鮮臨戦報国団が米英打倒大講演会を開き、朝鮮文芸界の第一人者の李光沫(日本名・青山光郎)が、「私は天皇陛下の子であるという考えを常に忘れず、この聖戦完遂に遭進する者であるからして、子々孫々の栄華を得るであろう」と演説した。国民的な詩人の朱耀翰も「ルーズヴェルトよ答えよ」との演題で、次のように演説した(23) 。
「正義人道の仮面を被り、搾取と陰謀をほしいままにしている世界の放火魔、世界第一の偽善君子、アメリカ合衆国大統領ルーズヴェルト君、君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和会議の序文に人種差別撤廃文案を挿入しようとしたとき、これに反対し削除したのはどこの国であり、黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にもつかせず、アフリカ大陸で奴隷狩りを、あたかも野獣狩りをするが如くしたのはどこの国の者であったか、しかし君等の悪運は最中尽きた。一億同胞…なかんずく半島の2千4百万は渾然一体となって大東亜聖戦の勇士とならん」。
しかし、何によりも朝鮮民族の熱狂的な対日協力を正確に示すのは、日本軍への志願者の倍率であろう。朝鮮籍の日本人の陸海軍への応募率は太平洋戦争が始まると、1941年には45・5倍、42年には62・4倍に達した(24) 。
年度 | 募集数 | 応募数 | 応募倍率 | |
1938年 | 406名 | 2946名 | 7,26倍 | |
1939年 | 613名 | 1万2528名 | 20,43倍 | |
1940年 | 3030名 | 8万443名 | 28.00倍 | |
1941年 | 3208名 | 14万4743名 | 45,12倍 | |
1942年 | 4077名 | 25万4273名 | 62,37倍 | |
1943年 | 6300名 | 30万3294名 | 48,14倍 |
沖縄と朝鮮の反軍反日観のメカニズム
熱狂的な沖縄や朝鮮の戦争中の対日協力は「植民地時代」の教育であり、太平洋戦争の沖縄戦で、日本人として喜んで死んでいったのは、すべて日清戦争以後の日本の教育の力であり(25)、
「皇民化教育を受けて『日本臣民』になり、帝国化した沖縄と沖縄人になることによって、大きく被害者から加害者に転落し」たと又吉教授は非難している。沖縄と朝鮮に共通する日本敗北後の反日への転換の最大の要因は、両民族ともに琉球王国、大韓帝国と独立国であったことであるが、沖縄の反日には戦争中に米軍が「日本兵は敵、米兵は友」と、ヤマトンチューの軍人と沖縄県人との間にある亀裂を利用した心理作戦を展開したことも影響している。一例を戦時中に米軍が投下したビラに見ると、間もなく米軍が沖縄を占領するが「皆さんは何にも心配する必要はありません。(中略)アメリカは内地人(日本人)と戦っているのです」。「戦いをしたくない沖縄の皆さんを苦しめたくはありません」。「此の戦争は皆さん達の戦争ではありません。唯貴方達は内地人の手先に使われているので」すと、米軍は沖縄県民の間にある歴史的亀裂や差別に目を付け、住民が日本軍に協力するのを阻止しようとした(26)
1945年4月5日から6日に投下されたビラ
さらに占領後は軍政を円滑に行うため、日本軍を悪者にする反日反軍教育を実施し、言論統制を行ったことが沖縄県人に「武器を保有せず礼を尽くして平和を得る守礼外交(事大主義外交)」の琉球時代を呼び起こさせ、県民に沖縄ナショナリズムを高め、沖縄では左翼もナショナリストも「反日」という歴史的基盤の上にあると言えよう。しかし、最近、特に大和や太田中将への非難が高まってきた背景は何であろうか。それは中国の台頭に対する沖縄県人の中国への事大主義であり、また、沖縄を日本から引き離し琉球国として独立させ、米軍を撤退させ米軍の脅威を排除したいとの中国の策動が背後にあるからではないか。
2008年1月の米国議会の公聴会でジム・ウェブ上院議員(民主党)が、太平洋軍司令官ティモシー・キーテイング(Timothy
Keating)大将に「中国は尖閣列島を要望している。中国は琉球が日本の一部であることを一度も認めたことはない。彼らは1960年代末から活発に動いているが、中国の拡張行動の徴候をどうみっているか」と質問すると、キーティング司令官は沖縄県の地位を中国や台湾が問題とするのは、ポツダム宣言に「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国」と、「並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」との一節があったが(27)
、米国が連合国の一員であった中国に協議することなく、米国が沖縄を日本に返還したことにあるのではと答弁した(28)
。一方、国民政府も沖縄の日本返還に際して「沖縄は古来中国の領土で、日本の要求は全く不合理である(29)
」との声明を発していた。このように中国人にとり沖縄は朝貢国、しかも代官を派遣して統治していた内臣国であり、大清帝国の復活を夢見る中国人には中国領なのである。
沖縄偽史観の確立
1970年に大江健三郎が渡嘉敷島では赤松嘉次大尉、座間味村では梅沢裕少佐が自決を命じたとの『鉄の暴風―沖縄戦史(30)』を下敷きに、両隊長を「屠殺者」、「罪の巨塊」、ユダヤ人虐殺者「アイヒマン」のような「戦争犯罪人」と非難した(31)。
しかし、梅沢少佐によれば「集団自決」は戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用できるようにするため、島の長老達から「軍命令だった」と証言するようにと頼まれ、応じたものであったと座間味村の援護係の宮村幸延氏の証文を示し(32)、
2000年には宮城晴美が『母の遺したもの』を出版して梅沢の主張を裏付けた(33)
。しかし、飯島七生の「母の『遺言』は、なぜ改変されたか」によれば、宮城は圧力を受けたのであろうか、2008年に出版された第2版では「軍命令がなかった」ことをぼかしてしまった。飯島は「沖縄の言論空間を取り巻く環境は、我々本土の人間が想像するよりずっと厳しい。現世で、そして沖縄で生きるなら、ある一定の結論に拘束されるのも仕方がないのかも知れな(33)い」と書いている
。2007(平成19)年3月に文部科学省が教科書検定で、5社7册の高校歴史教科書から「集団自決」から「軍命令」「強制」などの表現が、沖縄戦の実態を誤解する恐れがある表現」として削除・修正を求めた。すると沖縄県議会は「(文部科学省)は『日本軍の命令があったか明かではない』ことや、『最近の研究沖縄の成果で軍命令がなかったという説がある』ことなどを挙げているが、沖縄戦における『集団自決』が日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実であり、今回の削除・修正は体験者による数多くの証言を否定しようとするものである。(中略)よって本議会は、沖縄戦の実相を正しく伝えるとともに、悲惨な戦争を再び起こさないようにするためにも、今回の検定意見が撤回され同記述の回復が速やかに行われるよう強く要求する」との「教科書検定に関する意見書」を自民党員を含む全会一致で可決した(35)
。
一方、梅沢少佐と赤松大尉の実弟や支持者は『沖縄ノート』の著者大江健三郎と岩波書店に、出版差し止めと損害賠償を求めた「沖縄集団自決冤罪訴訟」を大阪高等裁判所に提出した。しかし、大阪高等裁判所は「控訴人梅沢少佐及び赤松大尉自身が直接住民に対して、自決命令を出したという事実を断定することはできず証明できない」と自決命令は否定したが、「従軍慰安婦」と同じく、「軍の関与」という曖昧な言葉で上告を却下した。この判決で「軍命令」が否定されたが、沖縄で10万人が参加した抗議集会が開かれと報道されると、参加者10万人の圧力を受け渡海紀三朗文科相は教科書の書き換えを認めた。しかし、航空写真を13コマに分割し、1人ずつカウントして集計した視認可能の合計は1万8179名、別に建物や木陰などで見えない人数を推定で加えても総数は1・9万、多くても2万に過ぎないとも言われている
(36)。
大阪高等裁判所の「軍の関与」の容認は、中国や韓国に対しては友好のために歴史の偏向を容認した教科書検定の「近隣諸国条項(37)
」に、新しく沖縄県民の感情を害さないようにとの「沖縄県民条項」を付加したことを意味し、教科書は「軍の関与」を拡大解釈して以前にも増して歴史的事実を無視した反軍反日の内容に変わった。しかし、本年6月に「軍命令による自決ではなく、切羽詰まった住民が自殺した悲惨な事件であった」と自決現場を目撃した米軍の報告書や住民の証言などを収録し軍命令を否定する特集号が、沖縄の浦添市文化協会の『うらそえ文芸』誌に掲載された(38)
。大江健三郎の『沖縄ノート』の原点は『鉄の暴風』にあったが、『鉄の嵐』を出版した当時は米軍の占領下であり、「印刷物は米軍の許可を受けなければならず、米軍を意識してペンの動きは鈍くなり、一種の自己検閲の心理が働いた。『鉄の暴風』は、そういう環境で書かれた」としているが、この状況を明瞭に示しているのが、第2版以降消された次ぎに示す初版の「はしがき」ではないであろうか(39)。
われわれ沖縄人として、おそらく終世わすれることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えたかれらの人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい。
このような占領下の検閲に対する反応は吉田満の『戦艦大和』にも共通している。『戦艦大和』も昭和21年に占領軍民政局(CIA)に提出した第1稿は、全面削除で「全ページ、紙一杯に朱書で“Suppress(発禁)」と書かれ、さらに「今後いかなる機会を通じても、公表罷りならぬ」と検閲を通らなかった。吉田氏は1948(昭和23)年に検閲が事後検閲に変わったので小雑誌の『サロン』に発表し、民政局から指摘がなかったことから出版しようとしたが、発売2―3日前に民政局から「出版しばらく待て」との指令が入り中止され、出版できたのはNATOが成立するなど東西の冷戦体制が強まり、マッカーサーが「日本は反共の防壁」と発言した1949の夏であった。
おわりに
曾野綾子は『ある神話の背景』で、沖縄のあらゆる問題を取り挙げる場合の一つの根元的不幸は「常に沖縄は正しく、本土は悪く、本土を少しでもよく言うものは、すなわち沖縄を裏切ったのだというまことに単純な理論である。沖縄を痛めつけた赤松隊の人々に、一分でも論理を見出そうとする行為自体が裏切りであり、ファショだという考え方である(40) 」と書いているが、沖縄は未だに占領下の『言語封鎖空間』にあるといえよう。しかし、『言語封鎖空間』は本土も変わっていない。敗戦後に占領軍は都合の悪い記事、国家意識や愛国心を鼓舞する記事を禁止する言論統制(プレスコード)を行ったが、この統制に5076人の日本人が協力した。敗戦直後に翻訳が出来たのは限られたエリートであった。そのエリートが占領軍が示した基準に忠実に、当時のサラリーマンより2倍も高い給料(占領経費として日本政府負担)を得て、問題のある文章をことごとく拾い上げ、占領軍当局にご注進したのである。その後、これらのご注進者の多くがフルブライト奨学金などを得て、外交官、学者、新聞記者などに転換し各界のリーダーとなった(41) 。
この日本人検閲者について吉田満は第1回目の検閲では、「チーフをしていたP氏の逆鱗に触れた」。第2回目の検閲はS氏がチーフで、雑誌掲載文から10数カ所削除し、文語体が「軍隊の命令用語」であり、「歩兵装典のスタイルであり刺激が強すぎる」と口語体で出版された
(42)。出版社にとり発行後に出版禁止処分を受けることは、経済的にも大きな問題であり、検閲にかかりそうな主張や思想を自己規制してきた。19465年には独立国となり検閲は終わったが、この占領軍による言論統制が、今でも外国の非難を怖れ自己規制をしてしまう『閉ざされた言語空間』を生み、それが国家意識を希薄にし、愛国心や犠牲的精神などを死語とし、「靖国神社で会おう」と沖縄県民のために歯ブラシや女性用化粧品、メンスバンドを搭載していた大和の英霊が眠る靖国神社は否定され、英霊は行き場所を失おうとしている。日本国の古来からの別称の「敷島の大和の国」から命名された戦艦大和には、沈没後64年が過ぎた今でも、われわれに日本という国のあり方を考える上で多くの示唆を冷たい海底から送り続けているが、聞こうとする人は少ない。
追記
大和が沖縄に消えた日から3週間後の4月28日、沖縄方面の米艦隊の特攻攻撃に向かった伊藤整一中将の長男の伊藤叡中尉が、伊江島付近で撃墜され戦死した。祖国を救うために父が、次いで、その後を追うかのように20歳の一人息子が生命を国に捧げた
(43)。
伊藤中将が出撃時に呉から、伊藤中尉が鹿屋から家族に送った制服は、いずれも終戦のどさくさから遺族には届かなかった。しかし、この制服を日本大学大学院生であった現日本大学教授の喜多義人氏が、古道具屋で見つけ当時十数万円(家賃を含む当時の1ヶ月の生活費に相当)で購入し所蔵していたが、大和博物館が建設されると寄贈し、現在は大和コーナーに展示されている。
脚注
1.大井篤『海上護衛戦:太平洋戦争の戦略的分析』(日本出版協同、1953年)266頁。
2.沖縄海友会編『25年の歩み』(沖縄海友会、1984年)80―81頁。
3.「落合畯オーラル・ヒストリー」(防衛省防衛研究所戦史部編『佐久間一オーラル・ヒストリー』下巻(防衛省防衛研究所、2007年)251頁
4.『沖縄タイムス』2007年3月20日「特集記事 復帰35年揺れた島 揺れる島
5.第19回いれいたかし「踏みしだかれた島(上)」記」。
6.防衛研究所戦史室編『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社、1968年)574頁。
7.「首相を動かした『言葉』」(『産経新聞』2008年4月6日)。
8.「沖縄戦と上海(中)『帝国日本の先兵』加担 被害者から加害者へ転じて」(『沖縄タイムス』(2008年3月20日)。
9.山下啓治「もう一つの沖縄戦―沖縄戦と住民活動」(『波濤』通巻第197号、2008年7月)53―54頁。
10.市橋立彦「戦いの終った日メンスバンドと自殺薬」(『歴史と人物』第150号(昭和58年8月20日号)216―219頁。
11.GF電令作第603号(「天一号作戦海上特攻隊1YB主力(大和2sd)戦闘詳報」401―402頁、防衛研究所蔵。
12.「参謀長口達覚」(吉田満・原勝洋『日米全調査 戦艦大和』(文芸春秋社、1975年)49頁。
13.高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』(光人社、1971年)279―280頁。
14.吉田満・原勝洋『ドキュメンタリー戦艦大和』(文芸春秋社、2005年)63頁。
15.吉田満『戦艦大和』(角川書店、1987年)32頁。
16.田村洋三『沖縄県民斯ク戦ヘリー太田実海軍中将一家の昭和史』(講談社、1994年)117―118頁。
17.田中隆吉・田中稔『田中隆吉著作集』(あづま堂、1979年)455―456頁。
18.中国国内の蒋介石と共産党の内紛、過激は学生の上海事件に与えた影響などについては日本国際政治学会・太平洋戦争原因研究
部編『太平洋戦争への道 開戦外交2 満州事変』(朝日新聞社、1987年)275―288頁を参照。
19.K・カール・カワカミ『シナ大陸の真相 1931―1938』(展望社、2002年)55―56頁。
20.ドイツの中国への武器輸出については田嶋信雄『ナチズム外交と満州国』(千倉書房、1991年)を、ドイツ軍事顧問の軍事指導につい ては阿羅健一『日中戦争はドイツが仕組んだ』(小学館、2008年)を参照。
21.防衛研修所戦史部編『中国方面海軍作戦(1) 昭和13年3月まで』(朝雲新聞社、1974年)184―189頁、影山好一郎「上海事件と 日本海軍」(同台経済懇話会編『近代日本戦争史』第3編(同会、平成7年)86頁。
22.防衛研究所戦史室編『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社、1968年)573―574頁。
23.「新聞が伝える戦時下の沖縄」③『昭和史研究所会報』第133号(2008年5月10日)
24.名越二荒之助編『日韓2000年の真実』(格式会社国際企画、1997年)422―429頁。
25.黄文雄『歪められた朝鮮総督府』(光人社、1998年)176頁。
26.山里永吉「沖縄人の沖縄―日本は祖国に非ず」(大江健三郎『沖縄ノート』(岩波書店、1985年)84頁。
27.「米軍が沖縄戦で使用したビラ」ビラ識別番号530・531・(沖縄県立図書館資料編集室『沖縄県史 資料編2 琉球列島の沖縄人・他 沖縄戦2』(沖縄県教育委員会、1996年)209頁。
28.鹿島平和研究所編『日本外交主要文書・年表(1)』(同所、1983年)73―75頁。
29.「風を読む」『産経新聞』(平成20年6月2日)。
30.前掲、大江『沖縄ノート』124頁。
31.沖縄タイムス編『鉄の嵐 沖縄戦記』(沖縄タイムス社、1950年)32―41頁。
32.前掲、大江『沖縄ノート』213頁。
33.曾野綾子『ある神話の背景』(文芸春秋社、1973年)「梅沢裕少佐独占手記 私は集団自決など命じていない」(『WILL 沖縄戦「集団 自決」』2008年8月増刊号)44―57頁。
34.秦郁彦『歪められる日本現代史』(PHP研究所、2006年)22―23頁。
35.飯島七生「母の『遺言』は、なぜ改変されたか」(『WiLL 沖縄戦「集団自決」』(ワックマガジン、2008年8月)181頁。
36.大城将保『沖縄戦の真実と歪曲』(高文研、2007年)16頁。
37.秦郁彦「沖縄集会『一一万人』の怪」(『産経新聞』2007年10月26日)。
38.「近隣諸国条項」:1982年6月に1981年度の教科用図書検定で「中国華北への『侵略』という表記を『進出』という表記に文部省の検 定で書き直させられた」という誤報が発端となり、中国や韓国の抗議を受け1982年に教科書の記載に関し国際的な客観性を担保でき るよう記述することが指示された。国家間の歴史認識の溝を埋めることは好ましいが、これら3国にはこのような規定はなく、反日を奨励 さえしている。「近隣諸国との外交関係に配慮する」と言う政治的理由で、自国の歴史を歪めることが許されるのであろうか。
39.浦添文化協会編『うらそえ文芸』第14号、2009年6月号。
40.前掲、秦『歪められる日本現代史』18―19頁。
41.前掲、曾野『ある神話の背景』292頁。
42.江藤淳『閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋、2000年)229―231頁。
43.吉田満「占領下の大和」(『戦艦大和』角川書店、昭和62年)131―1142頁。
44.実松譲『あゝ日本海軍(下巻)』(光人社、1977年)318―120頁。