【沖縄戦の真実】戦艦大和とともに沈んだとされる物たち

【沖縄戦の真実】大日本帝国海軍の戦艦大和が最期の出撃で「海上特攻」を行いましたが、坊ノ岬沖で撃沈されました。そのとき戦艦大和の積載されていて、戦艦大和とともに沈んだとされている物を検証してみましょう。

更新日: 2018年02月23日

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大日本帝国海軍の戦艦大和が最期の出撃「海上特攻」を行いましたが、坊ノ岬沖で撃沈されました

そのとき戦艦大和とともに坊ノ岬沖で沈んだとされている物を検証してみましょう。

戦艦大和 最期の出撃 を時系列で

まずは、沖縄へ向けての「海上特攻」が、決定されるまでの経緯をかんたんに確認します。

詳細なデータは

 『戦艦大和 最期の出撃 を時系列でみてみる』
   https://matome.naver.jp/odai/2150071731293076801

また
 (参考)伊藤司令長官や駆逐艦長らのやり取りは
    http://matome.naver.jp/odai/2146806279694726301


3月26日
11:02 GF電令作582号 天1号作戦発動。
      (GFは連合艦隊の略)

16:57 GF電令作583号
 1YB(第一遊撃部隊)ハ28日12:00以降、佐世保ニ前進待機スベシ。

 このように当初の作戦計画は、(沖縄突入ではなく)佐世保軍港に回航し、東シナ海を遊弋させて米機動部隊を誘引し、これに航空特攻を行うというものであった(三上作夫連合艦隊作戦参謀)。

3月28日
17:30 佐世保回航命令を受けて甲島仮泊地に向け呉軍港を出航。

19:39 GF電令作第590号
 明29日敵機動部隊九州方面ニ接近ノ徴アリ。佐世保廻航ヲ延期ス

   空襲が予期されたので回航を延期中止し、徳山沖で待機。

3月29日
 大元帥(天皇)が、「航空部隊だけの攻撃か。海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか。」と軍令部総長・及川古志郎大将に対しご下問

4月2日 大元帥(天皇)が、陸軍の梅津美治郎参謀総長に「敵上陸ニ対シ防御ハナキヤ」
 3日には「現地軍ハ何故攻勢ニ出ヌカ」などとご下問された。
 4日、5日にも上奏の度に「多大ノ御宸念」を示された。

4月3日
07:35 GF電令作第600号
 1YBノ佐世保廻航ヲ取リ止ム

 第二艦隊司令部では、艦長たちが「いたずらに出撃しても効果は期待できない。呉軍港で兵器や人員を揚陸した後、浮き砲台として活用する」との結論を出したが、大元帥のご下問の情報を聞き及ぶにいたり上申は後日ということになった。
 この時点で、連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将も、同じ意見であった。


4月5日
 連合艦隊参謀長・草鹿中将が鹿屋へ出張したスキを突いて、連合艦隊参謀の神重徳大佐が、持論である「海上特攻」を連合艦隊司令長官・豊田副武大将に直訴した。

15:00 GF電令作第607号
 海上特攻隊ハ7日黎明時豊後水道出撃 8日黎明時沖縄西方海面ニ突入 敵水上艦艇並ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ

「可燃物の陸揚げ」命令があり、ことごとく可燃物を降ろした。乗組員は本当に最後なんだと覚悟した。
その後に「郵便物急げ」の命令が出て「遺書」を書く。

4月6日
 13:30 大和艦上で第2艦隊司令長官・伊藤整一中将は、最後まで出撃を渋っていたが、連合艦隊参謀長・草鹿中将の「一億総特攻の魁(さきがけ)となって頂きたい」という苦渋の説得に、「それならば何をかいわんや」 と答えた。

 その後の士官会議で、伊藤司令長官の「我々は死に場所を与えられた」の言葉に、それ以上は誰も何も言えなかった。

大和とともに沈んだ物

戦艦大和が、沖縄沖に到達することさえ「奇跡」でなければあり得なかったことは、上記リンクの<戦艦大和「沖縄特攻」の真実 隠された『軍艦大和戦闘詳報』>で確認したとおりである。

 海上自衛隊の元海将補らが、その戦艦大和に積み込んだと主張する物たちが、本当に戦艦大和に搭載されたのかを検証していこう。

(以下、敬称略)

沖縄県民のための救援物資(歯ブラシ、女性用美顔クリーム、メンスバンド)

海上自衛隊の元海将補、元防衛大学教授の平間洋一が、1983年の中央公論社『歴史と人物』に当時海軍嘱託であった市橋立彦が寄せた手記に基づいて、「大和は沖縄県民のために、歯磨き、歯ブラシや女性用品の美顔クリーム、メンスバンド(月経帯)を搭載していた。」と主張する。

http://hiramayoihi.com/ronbun-dainiji-yamatookinawa.htm

市橋立彦の手記によれば、
 昭和20年の3月半ばに、療品廠長の都丸海軍薬剤少将から「1週間以内に、歯磨き、歯ブラシを50万人分や女性用の美顔クリーム25万人分、メンスバンド(月経帯)15万人分を調達してほしい、理由はいえない」との命令があった。
 メンスバンドには軍需用にさえ困窮していた生ゴムが使われており、無理な注文だったが、軍民一致の協力によってなんとか集荷できた。
 ○○大尉は「調達品は他の大量な物費とともに十数両の貨車に積み込まれ、梅田貨物駅を出発した。西の方へ向かったから多分、呉だろう」と言った。
 4月8日には○○大尉が、「市橋君、われわれが共に一週間たたかったあの4品目は、大和に積んだそうだ。沖縄県民のために残念なことをした。」といった。

 メンスバンド15万人と聞いただけで吹き出してしまいそうだが、
平間洋一らが、どこまで本気で主張するつもりだったのかといえば、

「新しい歴史教科書をつくる会」の『新しい歴史教科書』(自由社)で、「緊急手配した女性用衛生品15万人分も含まれていたことから、戦闘ばかりでなく、島民生活の救援も期待されていたことが分かっている。」という客注を付けた。

 ただし、文部省は、この市橋立彦の文書を根拠に教科書に記載するのは不適切との検定意見を示した。そのためこの部分は削除された。

平間洋一らは、本気も本気、大まじめにこれを信じていたようです。

歴史教科書というのは、歴史学者が作っているわけではないのだね。
公刊戦史ですら、元軍人達だけで作ってしまうこの国では。

それでは、この「笑い話」を詳細に検証してみましょう

≪ 検証 ≫
 戦艦大和は、3月28日、「佐世保への回航命令」を受けて呉軍港を出航している。 したがって、呉で「沖縄県民のための救援物資」を積み込むことはありえない。 ましてや3月半ばに、「沖縄のために準備」するはずもない。

 では、(「沖縄のため」ではないが)佐世保に輸送しようとして戦艦大和に積んだのか?
 関門トンネルも開通しており、大阪で貨車に載せたなら、呉を通過して、そのまま佐世保まで陸上輸送した方が早く、安全であるから、それもないだろう。

 天1号作戦発動により「特攻作戦」に参加することは決まり、「恩賜のたばこ」も配られていたが、下令時点では、佐世保回航し東シナ海を遊弋というものであった。第二艦隊司令部の艦長たちはそれすらも懐疑的であった。
 戦艦大和の最期の出撃で「沖縄沖へ向かう」と決まったのは、4月5日である(すくなくとも4月3日までは、佐世保回航であった)。伊藤司令長官らは6日の直前まで抵抗した。
 しかも、「海上特攻」は、沖縄沖に到達することさえ「奇跡」とされた。

 また、GF命令は「沖縄西方海面ニ突入 敵水上艦艇並ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ」であり、乗り上げて陸戦隊を上陸させるなどは、神大佐の妄想に過ぎない(「陸上砲台」も荒唐無稽だが、上甲板までの高さ(19m)や水深(最低8m必要)も考慮すれば、敵艦隊や航空機の砲雷爆撃や陸上部隊が待ち構えるなかでの上陸、陸揚げ作戦などなおさらです)

 4月5日に追加の「可燃物の陸揚げ」命令があり、司令官のイスから塗装に至るまでことごとく可燃物を輸送短艇を使って降ろしている(博物館に大和の備品が数多く残されているのはそのためです)。
 火災を防ぎ身軽になるため、戦闘の妨げになるものはすべて降ろした。内火艇すら8隻すべて降ろした。大和は鉄と人だけになった。

次に、当時の沖縄の情況に目を向けてみる。

 「鉄の暴風」と言われるように、艦砲射撃や航空爆撃にさらされて、すでに4月の時点で、飲み水の確保すら容易ではなった。
 食べるものもなく、泥水をすすっていた避難民に、歯を磨いて、顔を洗い、クリームで美容に励めと言える者がいたら、それこそ鬼畜だ。
 吹き飛ばされた手足や生首がそこらじゅうの枝にぶら下がり、内臓が飛び出て頭が半分なくなっている人もいるのに美顔クリームなぞ使っていられるか
 戦前、美顔クリームは、遊郭の女性が使っていたかもしれないが、庶民には手を洗う石鹸すら貴重品であった。

 ゴム製のメンスバンド(月経帯)は戦前の東京ですらまったく普及していなかった。沖縄で使っていたはずもない。
 薪すら軍に供出させるのに、軍需品のゴムを避難民に配ってくれるのか。
 なにより栄養失調でメンス(月経)は止まっていた。
 砲爆撃の嵐で壕の外に出ることもままならず、ウンチも小便も垂れ流しなのに、月経帯なぞ付けていられるか。
 月経血よりも、手足を吹き飛ばされた人の止血や飛び出した内臓の始末を心配しろ。

 投降して収容所に入れられたときに配られたコルゲート(歯磨き粉)を食べてしまったそうだ。きっと美顔クリームも食べてしまうだろう。
 美顔クリームよりもメンスバンドよりも、どうせなら干し芋1枚を用意してくれたらよかった。

悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて・・・しかたがない。涙が出てくる

 さらに、アメリカ軍上陸前の「北部避難計画」で食料を運ぶことさえできなかった日本軍が、一体どうやってアメリカ軍の制圧した地域で敵艦隊や航空機の砲雷撃が集中するなかで大和の高い甲板から海上に荷を降ろし、最前線を抜けて歯ブラシやメンスバンドを運搬し、ガマに隠れ散らばった避難民に配布するというのだろうか。

この程度のことにさえ思いを致すことができない元海将補、元防衛大学教授が、

「この史実が明らかになれば、沖縄の反日本、反軍感情も少しは和らぐのではないかと残念でならない。」(平間洋一)と記す。
この与太話を教科書にも載せようとした。

笑止千万。恥知らずにもほどがある。マヌケども。

これも海軍の伝統か。

(参考) 海軍の伝統  「水ガソリン事件」
 昭和13年9月、化学者を自称する本多が、海軍航空本部教育課長であった大西瀧治郎大佐に、「水から航空ガソリンを作ることができる」と持ち掛けて、これを信用した大西大佐は、航空本部長・豊田貞治郎中将、海軍次官・山本五十六中将らの決済を受けて、実験を行う。
 燃料局部長・柳原博光少将が中止を勧告したが、大西実験委員長は聞き入れず、実験場所を大臣官邸から航空本部に変更して実施されることになった。
 山本五十六海軍次官は、饅頭の差し入れまで持参したという。
 実験は昼夜3日に及び、 山本海軍次官ら立会人の疲労が甚しくなった頃に「成功した」とガソリン入りの瓶が取り出された。
 しかし、渡辺伊三郎軍需局員は予め実験用ガラス瓶に番号を付しておいたため、ガソリン入りの瓶は途中で持ちこまれたものと見破った。
(渡辺伊三郎『日本海軍燃料史』)


 これほどの換金性の高い商品ばかり並んでいて、何かおかしいと思わないものだろうか。
 当時は紙幣すら信用されていなかったから、需要(信用)の高さでは第一級の品々。紙幣よりも信用があった商品。
(沖縄向けではないが)海軍によって集められたことは市橋立彦の手記から明白であり、その後にどうなったのかが気になるところである。

4000トンの重油

戦艦大和が搭載した燃料は、「片道燃料」ではなかった。
 連合艦隊は第1遊撃部隊の搭載燃料を片道分の2000トン以内とすることを指示していたが、実際には、大和は4000トンで、燃料タンクの6割以上に達する重油を搭載していた。往復が可能な量です

 「7日黎明時豊後水道出撃」の命令に対し、出撃時間を8時間も前倒ししたのは、連合艦隊司令部から「命令以上に積んだ燃料を降ろせ」と電令が入り、これを回避するためだったという。

第三十一戦隊戦時日誌には、「6日0827 に 出撃兵力および出撃時機は貴要望通りとせられたるも燃料について大本営戦争指導部の要求に基づくGF機密051446番電通り2000屯以下とせられたし。との電令(大和宛の傍受電)」と書かれている。


 後日、海上護衛総司令部は、重油割当量7000トンのうち4000トンが奪われたことに、参謀の大井篤大佐が「中国大陸からの物資輸送、日本海での対潜水艦哨戒に役立つ重油だった。大和隊に使う4000トンは、一体、日本に何をもたらすのだ。国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。バカ野郎」と非難した。

戦艦大和出撃は、 シナ海シーレーン防衛のためにもなどと言う者がいるが、戦艦大和出撃のおかげで、朝鮮半島からの輸送すら困難になったのである。

では、99.9%撃沈の運命にある戦艦大和に、なぜ4000トンもの燃料を搭載したのだろうか。

現金

乗組員の給料として現金51万805円3銭(現在の価値に換算して10億円ほど)を積んでいたという話もあるが、資料の提示はない。

銭の単位まで明確なところが、むしろ疑念を深める。
乗組員数や死者の数すらまともに数えられないのに、銭の単位まで

その他

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