千利休は明智光秀、魂を殺された豊臣秀吉、そしてチンギスハンと源義経 顔の一致 | DEGUDEGUのブログ

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大阪社会人大学 DEGUDEGU(出口恒)

<本論は、世界改造業者 出口王仁三郎が伝承した内容、そしてその真実性の検証を行った結果を発表するものです。>

図1 若き日の源義経
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チンギスハン(ジンギスカン)は  源義経だった!

 蒙古は百六王国があるが、それは源義経(一一五九年生誕・図1 上の写真)がつれて行った者が全部王になったのである。源義経がジンギスカンになったのである。支那

 「……王仁(オニ)(出口王仁三郎)はその直系の○○を元帥として王仁が大将でオロチヨン民族、ソビエトやらゴハイフやらと戦った。百六の王の中、五十王くらい集まってきて、十五万程の民兵を集めて戦争した。王仁はいつも裸で戦った。火縄銃もあれば、村田銃もある。大砲は木で造って縄で引っ張って戦争した」(「蒙古(もうこ)入り秘話」『新月の光下巻』)。[

 「蒙古の元老は日出雄を成吉思汗(ジンギスカン)の再来と信じ、かつ源義経汗蒙古平定後、世界を統一し、その根拠を蒙古外に移せしため、蒙古は再び今日の如き衰微を来す結果となったのだから、今回は蒙古平定独立の上は、蒙古の地を離れて下さるなと、折に触れて日出雄に哀願することしばしばであった」(「天の安川」『入蒙記』)。

 「蒙古とは古の高麗(こうらい・こま)の国の事である。百済(くだら)の国と云うのは今の満洲で、新羅(しらぎ)、任那(みなま)の両国を合したものが今の朝鮮の地である。之を三韓と云うたので、今の朝鮮を三韓だと思うのは間違いである。……義経はこの道(玄界灘)をとらないで北海道から渡ったのであるが、蒙古では成吉斯汗と名乗って皇帝の位についた。蒙古には百六王があって、汗と云うのが皇帝に相当するのである。……義経はアフガニスタン、ベルヂスタンにも行き、ついに甘粛(かんしゅく)にて死んだ。元の忽必烈(ふびらい)はその子孫である。元と言うのは【源】の字音から来るのである(「義経と蒙古」『神の国』)。

 「蒙古には、黒蛇が世界中を取り巻き、牛や馬が物言う時に成吉斯汗が再誕して我が国土を救うと云う予言があるが、それも現代の事である、即ち黒蛇とは鉄道の事であり、牛馬がもの言うと云うのは、人間がひどく堕落して、狐狸牛馬などの容器になって来る事を云ったものである」(「ミロクの世と物質文明」『神の国』)。

 出口聖師はここで、再誕の成吉斯汗は自分だという自覚があったのかもしれません。
出口氏「ハムという事はハンや。成吉思汗、汗はハンと読むのやで、あのハンというのは王という意味である。またハムは公(分解すればハム)ともいう意味でもある。」
 蒙古の元老は日出雄を成吉思汗の再来(入蒙記 天の安河)と信じたわけですが、聖師はそれを否定せず、また日本人としてのアジア統一の先駆となったわけですので、信長、秀吉、家康の日本統一の神業を語る前に記載します。

  成吉思汗と
   源義経の顔の一致


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 図1と図3の絵の特徴は、ともに額が広く、義経の方は若禿(はげ)。ふくよかな耳に口元が優しく、特に顎髭(あごひげ)白く、口鬚が疎。卵型の顔で頬が丸みを帯びて、全体に下膨れと、鋤柄(すけがら)平司郎氏は著書(『源義経はジンギスカンであり明智光秀は千利休である』三盛社)の中で評価しました。私は図2の義経堂に残る義経像全身像とジンギスカンの油絵を念のため比較しましたが、歳月の差はあるものの、同一人物そのものと見えます。加えてジンギスカンの父の名のエゾガイは「蝦夷海」、沿海州ナホトカとウラジオストクの間に「ハンガン」という岬と泊地。
成(なす)吉(よ)思(し)汗(かな)

成吉思汗
吉野山で誓い・思いを成し遂げるかな 汗は白拍子の服装
 静御前の「しづやしづ しづのおだまきくりかえし 昔を今になすよしもがな」は義経への思慕を謡(うた)ったとみます。成吉思汗の「汗」をかん・かなと読むと、「なすよしもかな」と読めます。成吉は「吉野山での義経と静御前の約束が成る」と読み替えることもできます。「汗・かん」を分解すると「水」「干」となり、これは白拍子静御前の着る、舞いの着物水(すいかん)を指します。


 成吉思汗の記号は、大陸の王となった今、日本と国交を興して堂々と静御前を迎えに戻ることを決めた簡略語ではないか。鋤柄氏の仮説は興味があります。
 モンゴル帝国の文化政策として、成吉思汗が大ハーンに即した年に制定した蒙古暦は、日本と同じ十二干支が採用されました。在任中に制定したモンゴル文字、戸籍制度も日本由来であると思われ、モンゴル武将の頭目の呼び名が「タイショウ」、成吉思汗の側近からの呼び名が「クロー」であったことも、成吉思汗、源義経説を裏付けます (『成吉思汗=源義経だったこれだけの理由』中杉弘)より。
 次に時代を安土時代へ進ませます。

図2鎧兜(よろいかぶと)姿の源義経像
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図3チンギンハン 油絵
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  織田信長を殺(あや)めたのは女性 阿野(あの)局だった
 「私は女が断り無しに背後に廻ると、ブルブルと震えて来る。たとえそれが小さな小供であっても同様だ、私の霊は嘗(かつ)て武将としてこの世に生れ出ていた事がある。元来あの本能寺の変の時、信長は自殺して果てたと歴史には記されているが、実際はそうでなく、ああした不時の戦いであったため防禦(ぼうぎょ)の方法もつかず、万一雑兵(ぞうへい)の手にでもかかって死ぬような事があったならば、それこそ一代の名折れであるというとっさの考えから、阿野の局が後から薙刀(なぎなた)でものをも言はず殺(あや)めたのである。その時の記憶が甦(よみがえ)って来るのであらう、女が後に来ると反射的にブルブルとする。秀吉の身魂ではないかというのか、そう秀吉であり、同時に家康であり、三つの御魂(みたま)の活動をしていたのである、と神様に聞かされている」(「身魂の因縁」『月鏡』)。

 『絵本太閤(たいこう)記』では「本能寺の段」で春長(信長)は阿野の局と三法師君を宗祗(そうぎ)にたくし、逃げのびさせますが、信長であった聖師は阿野の局に殺められたとのこと。
 「穴穂(あなお)の産土様は稚日本根子彦大日日命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)である。若き日本の根本の神様ということだから開化天皇はおくり名である。世界を統一される神様である。王仁は今は開化天皇の御神業をやっているのである」(「開化天皇の御神業」『新月の光上巻』)。

 義経は日本人でありながら、ユーラシア大陸統一の偉業を進めたわけですが、亀山城の城主明智光秀は信長の天下統一を助け、さらに秀吉の天下統一を進めることになります。


明智光秀と織田信長
 本能寺の変後、明智光秀はどのように動いたのでしょうか。
 (聖師)この明智光秀は近江(おうみ)の坂本に十九万石、丹波に五十六万石、福知山に十八万石を領していた智仁勇兼備の英雄であるが、歴史上では悪逆無道(あくぎゃくむどう)、主殺しの如く悪く伝えられているが、光秀にとって信長はなんら三代相恩の主人でもなく、常に信長を扶け、幾多の戦場に軍功を顕はし、左右に策を献じ、信長をして天下に覇(は)たらしめた人であって、信長と光秀の関係は、現代政党の首領と首領が、合同提携していたようなものであります。私は、信長、光秀、ともに互角の英雄であると思っているものであります(「世界宗教統一・追々と大本の教え」『神の国』)。


  千利休は
   明智光秀の成れの果て

 聖師は「明智光秀は千利休である」と『水鏡』に書かれています。

 千利休と云う人は、明智光秀の成れの果てである。明智光秀は山崎の一戦に脆(もろ)くも敗れて、遂に名もなき一土兵のために竹槍にてつき殺されたと、歴史に伝えられてあるが、あれは嘘である。天王山の一戦で勝敗の決することは、初めからよく承知しておったが、光秀は将士の度々の迎えを受けながら、態(わざ)とグズグズしていて、ついに勝を秀吉に譲ったのである。実はとっくに光秀と秀吉との間には妥協が成立していたのである。聡明なる光秀は、たとえいかなる事情があったにもせよ、いったん主殺しの汚名を着たものが、天下の将軍となっても永続きがせぬということをよく承知していて秀吉に勝ちを譲ったのである。そして彼は頭を丸めてお茶坊主となり、萩の枝折戸(とおりど)四畳半の中にあって、天下の大事を論じ、謀(はかりごと)を廻(めぐ)らして秀吉を太閤(たいこう)の地位まで押しのぼしてしまったのである。

彼は実に秀吉の好参謀であったのである。朝鮮征伐(せいばつ)なども、彼の献策(けんさく)に出たものである。茶室に入るには丸腰となってにじり口より入らねばならぬ。元亀(げんき)天正時代の荒武者を制御操縦するに、もって来いの場所方法であつた。第一秘密を保つに絶好であった。後、彼は娘の美貌が禍の因をなして自殺を余議なくせしめられたと世に伝えられているが、全く跡形もない事である。英雄、英雄を知る諸般機微の消息(しょうそく)は俗人には分らぬ。
 筆者(『水鏡』の筆録者加藤明子氏)がこのお話を伺って、ある時の事、二三の方々にお話しておりました。たまたま座に岡山の太田栄子夫人がおられて、この話を裏書する面白い物語をされましたので、御紹介致します。


  大秘密暴露
   心臓病で倒れた三人


 「太田夫人は、大正九年の頃、聖師様から「千の利休は明智光秀である」と言う事を承って、それを師匠(お茶の先生)の名倉某氏に話されたそうです。そうすると名倉氏はそれをまた家元(当時第十三代円能斎氏・道号法諱 鉄中宗室一八七二年ー一九二四年)に話されました。すると円能斎氏の顔色がサッと変ってしばらくは物も言われなかったそうですが、太い吐息と共に口を突いて出た言葉は、「まあどうしてそれが分ったのですか」といふ事であったと言う事です。そして、さらに語をついで、「その事こそ、千家に伝わる、一子相伝の大秘密であって、後を嗣ぐ長男のみが知って、次から次へと言い伝え語りつぎて、世に知るものが絶えてないはずです。

どうしてそれが分ったのでしょう」と聞くので、名倉氏は「霊覚によって分ったのです。丹波の国綾部町に、大神通力を供えた聖者がありまして、その人の霊覚によって、その秘事が分って来たのです」とて、聖師様に関するお話をせられました。円能斎氏はいたく驚き、かつ感じ入り、ついに執事を派して綾部に参拝せしめ、次で自らもまた参拝せられたそうですが、深くこの事を秘して人に語らなかった。名倉氏もまた秘してしまったのですが、不思議な事には三人が三人共、相前後して同じ心臓病のため倒れてしまったそうです。

 太田夫人は「これは秘してはならぬと思い、皆さんにお話しております」と語られました。一座のものはこれを聞いて、今さらの如く驚き、聖師様の称えつくせぬ御霊覚の程を感じ入りました。そして聖師様がもし、この霊覚によって訂正されるならば、世界の歴史も随分変って来るかも知れないと思いました」(「千の利休は明智光秀」『水鏡』)。

  千利休に殺された豊臣秀吉
 「千利休のごとき俳人は、水呑み百姓までが、天下を奪わんと猛り狂っている真只中に、落葉の響き、声に耳を傾けて四畳半裡(うち)に大宇宙をつつみ、欠け茶碗に天地の幽寂を味わって、英雄の心事を憫んでいた。十里の長城、いな土居をめぐらして帝都を復興し、聚楽第を築いて、花洛とともに花も月もおのれ一人の所有となし、桃山城を建設して天下の美人を専し、驕奢(きょうしゃ)と栄華に耽溺(たんでき)し陶酔した豊臣氏に、荒壁造りの茅舎(ぼうしゃ)を見せびらかして飛びつかせ、茶杓(ちゃしゃく)で丸木柱にふんじばってしまった利休は、俳諧史上の逸品である。

外面的には利休は、ついに豊公に殺されたが、内部的精神的からみれば、豊公は利休に殺されたのである。時めく天下の関白が、利休のために、四畳半裡に引きずりこまれて以来の豊公は、もはや以前の豊公ではない。豊公は内部的に利休に殺されて、英雄の分際からただの凡爺(ぼんや)にたちかえって、未見の世界が見られたのは、小不幸中の大幸福だったのである。また利休は豊公に殺されたおかげで、永遠の生命を獲得したのであった」(『明光』昭和四年三月号)。

 「聚楽第(じゅらくだい)と云うのは秀吉の別荘であって、今の千本、即ち監獄跡の辺、三万坪ばかりを取入れて、地上天国を建設せんとしたのである。あらゆる美術を蒐め、花苑を築き、池には船を浮かべ、さながら極楽浄土を此世に現出せしめたのである。楽焼も其時の芸術品の一つであって、もとは聚楽焼(じゅらくやき)言うたのであるが、後、聚楽の字を取って、単に楽焼と称うるようになったのである」(「聚楽の第」『水鏡』)。


図4 豊臣秀吉画像
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図5 聚楽第図屏風(三井記念美術館蔵)
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図6 千利休 屋敷跡(安倍晴明神社内)
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  秀吉に殺され永遠の
   生命を獲得した千利休


 かつて豊公秀吉が内部的に利休に殺されて、英雄の存在からただの凡爺(ぼんや)となり、利休は豊公に殺されたおかげで永遠の生命を獲得した。信長、秀吉、家康という聖師の、日本統一に向けての三つの御魂の活動、その中で、聚楽第の焼物は楽焼と呼ばれるようになったが、聚楽の語源を示す「長生不老の樂を聚むるものなり」『聚楽第行幸記』、すなわち天国を耀わんという楽茶碗で表現し続けたのが出口王仁三郎聖師であった。耀(よう)わんは利休茶碗の対極といってよいほど華麗であり、天国の喜びに溢れたものであった。


  秀吉と光秀の密約
 さて、明智光秀は千利休であるという聖師の言明を信じて歴史を探求した方が、やはり鋤柄平司郎氏です。鋤柄氏の、調査の上での推理を著書から紹介します。

 「信長殺しの秘密を一切他言しないこと、秀吉の陰となること。これが秀吉の提示した条件であった。光秀は茶道に堪能であったことから、茶道で天下をいただくことを約束され茶人となった。秀吉が考えたことは、光秀を丸坊主にし、眉を剃らせ、泉州堺の奉行職のかたわら茶道に精励させることであった。当の光秀は竹槍で農民に殺害されたことにするため、死者に光秀の鎧兜(よろいかぶと)を着せて偽装した。光秀と千宗易(せんのそうえき)(利休の法名とされている)は全く似た人相をしていた。
宗易に頭と眉を剃らせ、光秀と見分けがつかないような顔となった。二人はほとぼりのさめる当分の間、二人で一役を演じた。光秀はいままでの宗易の立場で堺奉行職に就任し、堺の町のために尽力した。本来の奉職にあった宗易は、かつて出入りの大名屋敷へ頻繁に出かけることにした。この秘密は宗易の妻子と極々近親者のみに打ち明けられた。秀吉は、「この秘密を他人に知らせたら一族皆殺しにするが、二人で無事に過ごせば千家を日本一の茶人に仕立て、さらに財界の第一人者とする」ということを確約した」(著書名 前述)。

 明智光秀は一五二八年に出生し、本能寺の変のあった一五八二年に死没、千利休(宗易)は一五二二年出生、一五九一年に死没とされており、両者は同時代の人となります。利休が著名となったのは、本能寺の変の後の一五八五年の禁中茶会から。千宗易は、歴史には表れないことながら、まもなく病気になり天正十一年三月までに死去しています。本能寺の変があったのは、天正十年(西暦一五八二年)六月二日ですから、わずか九ヶ月以内のこととなります。その証拠として、鋤柄氏は利休の妻宗恩が天正十一年三月に聚光院(じゅこういん)に米七石の永代供養料寄進をしたことを突き止めています。千利休屋敷は、元々めぐりで参拝した京都晴明(せいめい)神社の境内にあり、晴明神社の目と鼻の先、一条戻り橋は、豊臣秀吉が千利休の生首を晒したことでも知られています。

 鋤柄氏は絵描きであり、その立場から顔の輪郭(りんかく)や目、鼻、口、顎など各部分の長さと全体の顔との比率を残された絵などから計測し、ジンギスカンと源義経、千利休と明智光秀の顔は同一人物であったと言明し、数値の表を残しています。 図七は明智光秀、図八は千利休の銅像ですが、若さによる違いはあっても目、鼻、口など全く同じ特徴をしていると考えます。

図七 明智光秀像(滋賀県大津市・城本城跡)
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図八 千利休像
(堺市博物館前)
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  市場の八重垣を払った
   織田信長

 織田信長は、一五六十年、駿河の今川義元を桶狭間の一戦で倒し、天下統一に立ちあがります。一五六八年十月、正親町天皇の勅命を拝して京都に上り、皇居の修理、関所を廃し道路を修し貨幣制度を整えて商工の発展、さらに市民の賦税を免じて戦火などで荒廃していた街の再興に尽力しました。

 既存の独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ工業者(市座、問屋など)を排除して自由取引市場をつくり、座を解散させる楽市楽座政策は市場の八重垣を取り払う信長の大きな功績と思います。本能寺の変後、秀吉は、主君の霊を弔うために寺を建立しようと正親町天皇の勅許を得ます。天皇から天正寺の寺名を賜わり、船岡山で着工したが竣工半ばで中止。以来、船岡山は、織田信長公の霊地として山全体が保護され明治維新を迎えることになりました。明治二年、織田信長公の功績をたたえて明治天皇から「建勲」の神号を賜り、社地を船岡山に得て明治八年(一八七五年)に建勲神社が創建されました。

  七月十七日は
   ノアの方舟漂着の日

 京都奈良元々めぐりで建勲神社が所在する船岡山を私たちが訪問したのは、祇園祭の山鉾巡行の日、七月十七日です。同日には四国の剣山本宮で例大祭があり、山頂を信者たちが威勢良く神輿を練って歩きます。 京都の祇園祭は古代イスラエルの祭りによく似ており、七月十七日はノアの方舟がアララト山上に漂着した日とされています。
 「船の形をしとるからそれで船岡山というのや。船岡山は救世の船だ。あそこ(南側の二代教主の歌碑のある所にあった)の三角の岩をおこしておけ~」(「船岡山の命名」『新月の光下巻』)。
 「ここ(天恩郷月照山)は舟の形をしているから、ノアの方舟で船岡山である」(「船岡山(月照山)」『新月の光下巻』)。

 京都と亀岡で場所は異なるものの、「ふなおかやま」の言霊には救世の方舟、ノアの方舟という意味が示されています。ご参考までに亀岡の熊野館のお蔵の敷地は船の形をしており、二代すみ子はそのお蔵を「宝の船」に擬えました。
 そこでノンフィクション小説『大地の母』が出口和明により執筆されました。この「宝の船」は火災を免れて現存しています。

 建勲神社は聖師が主典として奉職した神社であり、今も上田王仁三郎名で出勤簿が残され、京都奈良の元々巡りでの参拝時、初めて私たちに公開してもらえました。
 そのノアの方舟漂着の七月十七日に東京はやぶさ分苑と大阪中央分苑が認証されたのは、改革への使命が込められているのでしょうか。元々めぐり当日夜の、『霊界物語』拝読箇所が意図せず第七巻第十七章「亀の背」で、大亀である琴平別に父と息子の恋人が救われる場面が顕れたのは、救いのお示しでしょうか。琴平別の琴平は四国の金毘羅宮で、その祭神は本稿のテーマ大物主櫛甕玉饒速日尊です。

 さて、平安京の造都に際して船岡山は都の北の基点となったとされます。古来、船岡山は景勝の地でした。その美観が尊ばれ、清少納言も枕草子で「岡は船岡」と、一番手として名前を挙げています。

 ジンギスカンは源義経、千利休は明智光秀なり。二組の顔はそれぞれその特徴、顔の全体・
細部の比率がほぼ完全に一致していました。時代を超えて存在する人々の真実は如何にして聖師に見抜かれたのか。
 次号以降は元々めぐりの積み残しの寺社にも触れながら、徳川家康の日本統一、聖師の父、有栖川熾仁親王の未発表の事実も含め、開化天皇の世界統一の神業の一環である明治維新の真実にも踏み込んでいきたいと思います。数表についてはシュメールまで遡って考察したいと考えます。ご期待ください。写真は、番号順に掲載しています。

出口王仁三郎と明智光秀

 なお、この話の後日談をお話しします。明智光秀の天下取りの居城 亀山城を買い取ったのが出口王仁三郎です。そして、出口王仁三郎が有栖川宮熾仁親王の唯一の子であることから、天下取りの野望を疑われて、大本教が大弾圧をくらったのが、大正十年二月十二日(命令は十一日)です。王仁三郎は、「自分が本当の天皇である」と裁判官の前で証言し、「今の天皇はにせもの」と証言しましたが、何も咎められることがなく、政府・裁判所は、なんとかこの裁判を終わらせ幕を引こうとしました。


 そして、明智光秀が天下取りを果たしたのが、本能寺の変の年、天正十年です。明智光秀は、老の坂を越えて本能寺の信長を襲い、京都府警は、京都から老の坂を越えて、本能寺ならぬ大本教の出口王仁三郎を襲いました(ただし、すべてを察知していた王仁三郎は、混乱をさけるために、一次は梅田、二次は松江に滞在していました)。王仁三郎は以前から「自分の前世は織田信長」と語っていました(信長、秀吉、家康のミツの御魂)。つまり、京都府警は、老の坂を越えて、大本の織田信長を襲ったことになります。

そして、第二次大本事件は昭和十年十二月八日に起こり、「松」の松江で王仁三郎は逮捕されました。ちなみに亀岡の買収した城で王仁三郎は、皇室の安泰を祈願し、月宮殿という皇室のシンボルの建物をつくりました。政府は月宮殿を含めて城をすべて破壊しました。月宮殿を破壊した大日本帝国は、後に滅亡し、天皇は人間宣言をする。
 王仁三郎は、「十」は神を示すと語り、「神」の文字にも「十」が入りますが、天正十年、大正十年 昭和十年と、すべてが神の年十年に起きました。天正から一をひいたら大正となります。大正の「大」とは王仁三郎思想では、「一人」となります。これは かみ御一人、国のトップが正しくなれという祈り。
 亀山城の城主は、明智光秀のあと「松」の文字がつく親藩の「松平」家でした。アヤベは「梅」、教の拠点で、亀岡は、「松」、まつりごとの拠点です。出口王仁三郎は、第一次大本事件では「梅」田で逮捕され、第二次大本事件では、「松」江の「宍道湖・しんじこ」で逮捕され、第三次事件では、「竹」田が発火点となった。第二次大本事件は昭和十年十二月八日に起こりましたが、その六年後の同年同日同時刻(未明)に起こったのが、日本が米国を急襲した太平洋戦争です。「宍道湖・しんじこ」ならぬ「真珠湾・しんじゅわん」をめざし、ともに「とっこうたい(特高隊・特攻隊)」の奇襲攻撃でした…まさに相似形です。
それは、日本から世界へのひな型となって拡大する。
それ以降は、予言に関する記載がある下記HPをご参照ください。
DEGUDEGU(出口恒)
http://osakasu.com/

本文前段のご紹介

二柱の天照大神と饒速日尊
 顔の一致!義経はチンギスハン、光秀は千利休、
 そして信長、(光秀)、秀吉、家康
 三つの御魂 日本統一の神業(中編ー七)
 出口 恒

八月十四日、出口和明の、木庭次守(こばつぐもり)氏への昭和四十六年一月二十二日の取材メモが見つかりました。下記の内容は聖師が同氏に語られたもの。一部『大地の母』や『新月の光』に引用されていますが、『新月の光』で伝えられていないこともあり、お知らせします。

 (大正という意味)大の字さかさまの世であったが、大正に入って大の字が元に戻ったという解釈。今まではみろくの世をつくるという所で開祖を中心に拝んでいる。これが大間違いで
あった。明治は和光同塵(わこうどうじん)の時代であったが、大正になって大本も日本も大いに正しくなった。大本自体としては大正五年に大の字がもとに戻った(神島開きが大正五年)。みろくの世になるぞよという、その世の中心になる「みろくの神」を長年ひどい目にあわせてきた。天の系統にみろくの神は降りられる。天津神系に。国祖は国津神系に。自分は本当の天皇で、天皇家は分家である。

 ににぎの尊は天皇系で、三種の神器で日本を治める。にぎはやひの尊は丹波にその系統があって、それが出口家で、かげから日本の天皇家の無事を鎮魂してあげようという立場である。二代さんは教祖さんより艮の金神を押し籠めたのは天皇であるということをよく聞かされたので、天皇を憎んでおられ、聖師が艮の金神を押し籠めた天津神系、天皇の落胤ということを聞いてびっくりされる。

 聖師を好きやけど反面憎まれる。先生は有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひとしんのう)の御落胤(らくいん)やと言うので、そんな馬鹿なことがと穴太へ馳(は)せ、母のよねさんに聞く。産着(うぶぎ)と短冊を見せられ、無意識状態のまま京都へ。梅田常次郎宅にいる三代直日さんの所に駆け込む。どこをどう歩いたか、気がつけば二条城だったという。聖師は「うちのお母は発展家でなあ、伏見へ預けられたらわしできたんや。丹波よいとこ女の夜這いというやろ」と仰られたこともあった。

 父はだから可哀想であるとも言われたし書いてある。短冊が二枚あったが、火事で焼けた (実際には短冊の一枚は火事から救い出され綾部に現存している)。落胤の証拠になる物件を置いておくと危ないという考えが母よねにはあった。それを十分に知っておられたので、聖師は青春時代から阿呆に見せかけられた。十年ほど顔を洗わなんだり、歯茎にはぐそをいっぱいつけたりして。

 現在の天皇には体系だけ伝わってわしだけ霊体一致や。継体天皇で天皇の霊系は終わってしもうた。開化天皇がわからなんだら物語はいくら読んでも駄目だ。昭和二十年八月十五日から開化天皇の時代に入る。結構なお日柄に入ると仰られる。「わかき日本の春は近めり」とは古い日本はあかんという反語として言われたのである。(以上取材メモから)

 私が昨年からの本論で饒速日(にぎはやひ)を取り上げたのは、「王仁は饒速日だ!」という聖師の『新月の光』の中での言葉と、本当の天照大神は誰なのかという探究心からです。しかし「自分は本当の天皇で、天皇家は分家である」との言葉が記録に残されていることは知らなかった。そして、聖師が自分を有栖川宮熾仁の落胤であることを高熊山ご入山前に知ったという『大地の母』の設定は誤りで、聖師の母よねは聖師が幼少の頃から、世間にはその事実を隠そうとしながら、喜三郎に伝えようとしたことがわかりました。

 そして「開化天皇がわからなんだら物語はいくら読んでも駄目だ」とはすでに『新月の光』で発表されています。ゆえに私は一連の原稿の中で開化天皇の神業に言及したのですが、「昭和二十年八月十五日から開化天皇の時代に入る。結構なお日柄に入ると仰られる。「わかき日本の春は近めり」とは古い日本はあかんという反語として言われたのである」という言葉はさらに私に衝撃を与えました。その理由については別稿で示します。

 開化天皇の世界統一の神業は、『霊界物語』十九巻記載のように、高熊山ご入山一八九八年の三十五年前、一八六三年から始まりました。そして世界統一の神業は、日本統一の神業の完成、明治維新を世界に応用する形で成し遂げられるものでした。その応用の形の一つが実際には第二次大本教事件と第二次世界大戦などで示された型の思想ではないでしょうか。そして、それは玉鉾の光、切り紙神示、聖師数表とも密接不可分のものではないかというのが私の推理です。

 はじめに、「開化天皇」の世界統一の神業の前段階ともいうべき信長・秀吉・家康らの活動、日本統一の神業、そのさらに前段階である鎌倉時代に、頼朝に滅ぼされ、かつ実は蒙古に逃れてジンギスカンになったと聖師が示される源義経について記載します。ジンギスカンと義経、明智光秀と千利休の写真を比較しながら、聖師の霊格・ご教示の卓越さを私は信じることができました 以下 冒頭の文章に続く

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