あのセシリアさんに会いにいく。-2-
キリストの肖像〈エッケ・ホモ〉の修復で世界に知られる存在になってしまったセシリア・ヒメネスさんを訪ねた旅の話の続きをしよう。セシリアさんの家の居間には車椅子が置かれていた。52歳になる長男が出生時低酸素症でまひがあり、歩けないのだ。この息子と義弟が取材当時のヒメネス家の家族だった。
「夫は18年前に他界しました。子どもはもう一人男の子がいたんだけれど、筋ジストロフィーにかかって21歳で死んでしまったわ」
亡き夫との出会いも結婚式もサントゥアリオで
セシリアさんはボルハで生まれた。小学校に通う年頃には毎日絵を描いていたという。休みになると祖母がよく連れていってくれたのが、サントゥアリオ(例の修復画の教会のある施設。前編参照)だった。26歳のとき、後に夫となるホセさんと知り合ったのもサントゥアリオでのこと。2つ年上のホセさんは敷地内に今もあるバルで働いていた。結婚式を挙げたのは、もちろんサントゥアリオの教会だった。やがて夫はボルハの町中に「バル・モカ」というレストラン&バーを開く。店は繁盛した。セシリアさんはたまに店をのぞくことはあったが、ほとんどの時間は家にいて、障害をもつ子どもたちの世話をし、その合間に絵を描いた。保守的なカトリックが多いスペインでは、セシリアさん世代の女性は、夫の許可なしには外出することさえできなかった。「絵を描く自由があっただけでも私は幸せだった」とセシリアさんは言う。
次男をなくした翌年、夫婦はサントゥアリオの教会のすぐそばにセカンドハウスを買う。その家は今もあって、良いコンディションに保たれている。セシリアさんは夏場になると、週末ごとに自ら運転する車に車椅子ごと息子を乗せて、サントゥアリオの家に向かう。
「あそこは空気も水も良いから、きっと息子の体にも良いと思って」
サントゥアリオとセシリアさんは、長きにわたって分かちがたく結びついていたのだ。だから、教会のフレスコ画に修復が必要になったとき、基金の人がその仕事を彼女に依頼するのはごく自然なことだった。セシリアさんは純粋に信仰心から修復の仕事を引き受けた。夫と息子の一人に先立たれ、障害を抱えた息子の面倒を見る合間に趣味の絵を描く。傍から眺めると苦難の勝った人生に見えるが、彼女はそれを「幸せ」と評価し、神様に深く感謝しながら生きてきた。そして祈りのうちに修復作業を始めたのだ。腕には自信があった。が、いかんせんフレスコ画の修復に関する知識は持ち合わせていなかった。セカンドハウスと教会を行き来しながら4、5日作業をしたところで、セシリアさんはいったん絵筆をおき、息子を連れて車で2時間ほどの観光地、シエラ・デ・アルバラシンへ小旅行に出かける。その数日間の不在の間に、今回の騒動が起こってしまった。
「あれ以来、あの絵には一切手を触れさせてもらっていないの。大切な絵を台無しにしてしまって、本当に申し訳ないことしてしまったと思っています。でも、私の作業はまだ途中だったということだけは知っておいてもらいたいわ」
セシリアさんは声を絞り出すようにしてそう言うのだった。
町の人の多くはセシリアさんに同情的だった
町の規模からすると、立派すぎるように見える役場で町長の話を聞いた後、役場前の広場に面したカフェ「ボランテ」に入ってみた。タバコの自動販売機やスロットマシーンが並んだ後ろの壁に、テレビと並んで油絵の額縁が掲げられていた。絵にはセシリアさんのサインがある。カウンターの向こうでコーヒーを淹れていた男の話によると、絵は彼の兄が買って所有している5点のセシリアさんの絵のうちの1枚だということだった。セシリアさんのことを素人呼ばわりする報道もあったが、彼女は個展を開いたこともある、れっきとした絵描きで、そのことを町の人々もちゃんと認識していたことがわかる。カウンター席にたむろする地元の人たちに今回の修復画騒動についてどう思うか聞いてみたが、多くの人がセシリアさんに同情的だった。誰もが彼女の境遇、彼女の献身を知っているのだ。近くの村のワイナリーが〈エッケ・ホモ〉をラベルに印刷したワインを発売したが、面白がってそれを置く店は町の中にはほとんどないとのこと。そういえば、セシリアさん自身も、今回のことで地元の人たちから後ろ指をさされるようなことはほとんどなかったと言っていた。逆に、近所の多くの人が、何か自分たちにできることがあったら言ってほしいと手を差し伸べてくれたと。
あらためて、修復された〈エッケ・ホモ〉を見にいく。
旅の終わりに再びサントゥアリオの教会に行ってみた。途中、枯れ野になったぶどう畑のはるか彼方に雪をいただいたモン・カジョ山が見えた。“トレス・ピコス(3つの頂)”の愛称が示す通りの形をしている。坂道を上って丘の中腹へ。たくさんの猫がうろついている。アヒルのいる池のそばにバーベキューコーナーがある。セシリアさんが亡き夫と出会ったバル、子ども用の遊具、十字架のついた噴水。とりとめのない空間に石と煉瓦で造られた直方体の“聖域”が建つ。
入り口で1ユーロのお布施(騒動の後、徴収されるようになった入場料)を払って教会に入る。初冬の午後の清明な光が祈りの場を照らす。アクリル板の向こうの絵は、前日見たときよりもさらに暗色の度合いを増しているように見えた。ぼやけて輪郭を失ったような口元周辺は、いかにも作業が途中であることを示していた。町長の話によると、〈エッケ・ホモ〉の今後については3つの可能性が検討されているそうだ。1つ目は、このままセシリアさんの絵を残す。2つ目は、セシリアさんの修復した部分を削って元の絵に戻す。3つ目は、セシリアさんの絵をうまく剥がして元の絵と共に両方残す。セシリアさんの絵を残すよう嘆願する署名が何万人分も集まったことは早い時点で報じられていた通りだ。
セシリアさんの〈エッケ・ホモ〉と別れを告げ、“聖域”を出て車に戻ると、暮れかかった東の空に満月が浮かぶのが見えた。月の上方の空が赤く、下方の空が青い、奇妙な夕景だった。西の方に鎮座しているはずのトレス・ピコス(カジョ山)は闇にまぎれて見えなかった。トレス・ピコスは英語でスリー・ピークス。「ツイン・ピークス」よりも頂が1つ多いのかと、ふと思った。
※『あのセシリアさんに会いにいく』は雑誌「クロワッサン・プレミアム」No.64に掲載された「それはアートか、趣味か、信仰心か?」を改題、加筆・再編集したものです。記事や写真の無断転載はご遠慮ください。(筆者)
Photographs by Yasuyuki Ukita