フロイドの狂気日記

いつ走り出すか誰も教えてくれなかった、お前はスタートの合図を聞き逃したんだ!

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殺されることが被害者の責任ということもある

azanaerunawano5to4.hatenablog.com

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hagex氏の死を因果応報と断じるつもりはない。だが殺人には殺される原因を本人が作る場合もある。

最もわかりやすい例は、ブランド物の衣服に身を包み金の装飾品をジャラジャラさせて財布にドル札をしこたま詰め込んでスラム街を歩くみたいなことだろうか。

 

当然だが世界には貧困地帯で治安が悪い地域があるのだ。そんなとこに金持ちぶった身なりで歩けばほぼ間違いなく犯罪に巻き込まれる。そんなことをして殺されてもほとんどの人にバカだと思われるだけだ。そういう極端な例を出せばやはり因果応報というか、自分の行動の結果死を招くというのはあると思う。生まれつき貧乏な人に金を見せびらかすのは悪行といっていい。そして殺されて金を奪われるのは自責であろう。

 

あるいは他のストーリーもある。

「スピード狂の男がいた。彼は新しいスポーツカーを買い、高速道路に向かう。マシンパワーを試したくて限界までアクセルを踏み、スピードは200kmを超えた。男は急に車線変更を行おうとした車と後ろから衝突し死亡した。」

 

この場合、急に車線変更した車に殺されたとも言えるが、そもそも200km超えのスピード違反という犯罪を行う男が悪いとも言える。逆に殺した側とも非難されそうだ。この場合の死は因果応報だろう。

 

こういうのはどうだろう。

「粗暴な父親がいた。生まれた子供に対してことあるごとに暴力を加え、母親にも暴力を加え、ろくに働かず、偉そうにする父親だった。成長した息子はついに刃物に手を取り父親を殺害した。」

このケースは裁判で情状が入るだろう。父親をかばう一般市民はいないように思う。

 

次はこれだ

「あるライターが他人を揶揄したり荒れるネタを取り上げ物議を醸す匿名記事をネットで書き続け賛否を受けていた。時は流れライターは実名社会に身を投じる決意をし、記事の書き方やノウハウを伝授する企画を行う。ネットでライターの記事を見ていた無職の男がいた。彼は他人から見れば明らかに精神がおかしく、近寄りたくない類の人物だった。男はたくさんの人々を憎んでおり、ライターもその1人だった。無職の男は彼なりの決意と理論を持ってライターを殺そうと思った。ライターが男の地元で公演を行うことを知った男はついに現実に行動を起こした。」

 

我々は殺される人が悪いという法律がある国で生きている

ここで言えること被害の責任の基準、閾値は人それぞれだから揉めるということだろう。人によってはどんなことがあっても殺されていい人なんていない、と断言する人もいる。僕はそうは思っていない。さらに言えば日本人がそのようなことを言うのは偽善だろう。どんな人も殺されてはいけないなら死刑制度はあってはならないということになる。

 

というわけで日本で死刑制度に賛成する人は仕方ない殺人があると考えなければならない。法律で整備された殺人はきれいな殺人です、と言い切れる人は尚更「殺人(死刑)の責任は殺される人(死刑される人)にある」という国に住んでいることに思いをはせるべきだ。

 

死刑はあくまで制度なので意識しないだろうが、法律にしたがって死刑を行って罪に問われる人はいない。それは死刑される人が悪いからだ。

 

今回のケースと死刑になる犯罪者を線でつなげられない人もいるだろう。それはピュアだからだ。だがhagex氏は悪くない、死刑される人は悪いヤツという考えなら理解不能だろう。だが我々は合法的に殺しても良いことが明文化された国に生きているということは理解すべきかもしれない。君の感情はどうあれ、死刑というのはすなわち私刑される人が悪いのだ。そしてそれは殺される人が悪いケースもあるということが明白に価値観として存在している証左である。そんなわけで、殺される人に原因を置くというのはこの国では許された意見だと思う。刑法に適用されなくても、公の価値観として存在している。

 

殺される人が悪いという個々人の基準

宗教的に過激な人は、神を信じない人が殺されたならば神を信じないからだ、仕方ないというかもしれない。いじめられた経験のある人は、いじめっ子が殺害されても過去の報いだというかもしれない。ここにあるのは感情論であり、個人の考え方であり、正しさを担保するものではない。

 

「金持ちの格好でスラムを歩く」から殺されるのは仕方ないのと「神を信じないから殺されても仕方ない」の間にある差は主観のみだ。

 

とすると「他人を揶揄・批判するビジネスをしていたから殺されることもある」という人がでてくるのもおかしくはない。ただあなたが同意するかどうか、という点のみが委ねられている。僕は殺されるのが因果応報だとは同意しないが、何らかの目をつけられるリスクを背負った、というのはその通りなんだろう。それは殺されるというよりは、「わけのわからない人」に絡まれる程度のリスクだとは思うが。その「わけのわからない人」に絡まれるリスクを高めた結果、運悪く絡んできた「わけのわからない人」は殺人に走るタイプのおっさんだった、と。

 

まあ運が悪い。運が良ければ道端で侮辱された結果、なんやかんやあって居酒屋に行って仲良くなるみたいな可能性もあったはずだ。色んな人に目を向けられる可能性を高めたが、初手で惹きつけたのがブチ切れたやべえやつだったのだろう。これを個人の責任にするのは酷だ。100万通りのルーレットで一番最悪の引きを出したのだ。

 

そういう意味ではブログをしてもアイドルをしても、金持ちの成功者になってもブチ切れたやべえやつを惹きつけてしまう可能性は大いにある。そこにあるのは確率と可能性のみだ。犯罪に巻き込まれる可能性を限りなく上げることはできる。それで巻き込まれるも巻き込まれないもただの運。神のサイコロだ。

 

小市民よりは犯罪に巻き込まれる可能性はhagex氏にはあった。

だが殺されたのは運が悪すぎたのだろう。

 

身も蓋もない言い方をすれば、善行を重ねる平凡な一般人もいきなりぶち殺されるなんてのは実際あるわけで、やっぱり責任というのはないのかもしれない。ただし殺されたヤツが悪いと発言する自由はこの国に存在し、実際に人を殺しても殺されたやつの責任が裁判で認められているので合法という制度が存在する。

(わかるよ、裁判で認められている死刑とは違うと反論するのだろう?ここで言いたいことは殺された人の責任が絶対にないなどという意見はこの国では成立しないということなんだよ)

 

何にせよ個別にできることは、マジキチと関わらないように生きることだ。SNSでの発言や個人情報の発信には慎重になろう、ネットは現実の延長上だと思って我が身を振り返ろう。

 

と警告することは暗に彼の死が自業自得だと思っていることになってしまうのだろうか??