あのゴールは思いっきり蹴ったら入った……日韓W杯第3戦で決めた森島寛晃がサッカーで得たものとは

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は森島寛晃さんに登場していただきました。ミスターセレッソと呼ばれ、現役時代はセレッソ大阪一筋を貫いた森島さんですが、日本代表でも98年フランス、02年日韓とW杯に連続出場し、日韓W杯のGL第3戦のチュニジア戦では途中出場ながらゴールを決めるなど、華々しい活躍で知られています。その中で経験したさまざまなエピソードをお話しいただきました。 (淀屋橋のグルメイタリアン

あのゴールは思いっきり蹴ったら入った……日韓W杯第3戦で決めた森島寛晃がサッカーで得たものとは

f:id:g-mag:20180626173111j:plain

森島寛晃は苦労した

現役時代は2回のJ2落ちを経験した

2002年日韓ワールドカップのときもJ2だった

引退は首が原因で今も治っていない

 

だが森島はいつも明るい

苦労話を笑いに変える力も持っている

日本が初めてワールドカップのベスト16進出を決めた

自身のゴールすら笑える秘話にする

 

成し遂げたことは偉大なのに

常に謙虚な姿勢を崩さない

食事に関する話でも

気配りをしながら語ってくれた

 

地元で決めた日韓W杯GL第3戦、チュニジア戦のゴール

2002年日韓ワールドカップのグループリーグ第3戦、チュニジア戦では「おいしい」思いをしました。あれ、長居スタジアムだったってとこがまたおいしくて。もし長居じゃなかったら自分の中でも気持ちが違ってたと思うんです。

 

何よりもフィリップ・トルシエ監督があそこで使ってくれたというのが意外で。僕は監督のことを「空気読めない男」だと思ってましたから(笑)。「ここのスタジアムがホームというチームの出身や言うても、そこあんまり計算してないやろうな」って。それでもまぁ、どっかのタイミングで出してくれるだろうとは思いながらいたんですけど、後半の最初からピッチには入れるとは思わんかったですね。

 

だからハーフタイムに監督から「準備できてるか?」って言われて、「できてます」って答えたけど、まさか後半スタートから出て行くとは思わんかったですからね。スネ当てをベンチ置きっぱなしでしたから。「やべぇ、どうしよう」って、スタッフに「スネ当て持ってきて!」って頼んだのを覚えてます。でも「やってやろう」っていう気持ちは強かったですね。

 

そこで後半3分にミドルシュートを決めて先制したんですけど、僕長い距離のシュートは、そんなに打ってないですもんね。それで自分では超ロングシュートを決めたと思ってたら、あとで映像見たら完全にペナルティエリアの中やって。舞い上がってたんやなぁって。

 

しかも左ポストのギリギリを狙って蹴ったわけでもないですし。思いっきり蹴ったら、ちょっとまいてあそこに入っただけやし、あのシュートができるんやったら、もっといっぱい点取ってますよ。

 

僕の得点パターンは、シュートを一回GKに止められて、GKがこぼしたところを自分で押し込むっていうヤツですから。1回で決めておけばそんなシチュエーションにならないんです。それで昔、一緒にセレッソでプレーしてた尹晶煥(ユンジョンファン)が言うんですよ。尹晶煥は契約でアシストボーナスみたいなのがあって、それで僕にいいボールを出して僕が1回で決めとけばいいのに、GKに当ててシュート入れるからアシストにならんと。そんなんが何回もあるからキレて、「モリシ、1回で決めてよ」って真剣な顔して怒られたんです。

 

4年に一度思い出す、W杯の記憶

あのワールドカップって、普段日本代表として国内でやっているような雰囲気でプレーできたのが大きかったと思うんですよね。だから南アフリカでベスト16に行ったのは、厳しさの中で日本が成長した結果じゃないかと思いますけどね。

 

ただ自分もワールドカップの歴史の中で1つゴールを挙げて、ワールドカップの時期がやってくると4年に一度「自分もサッカーをやってたな」って味わえるんですよね。

 

1998年フランスワールドカップでメンバーになったときは、自分では選ばれると思ってなかったんですけど、岡田武史監督が若さと勢いをちょっと買ってくれたかなって。それでフランスに行ったけど、クロアチア戦で11分ちょっとしか出られなくて。まぁでもそれもいい経験でした。

 

フランスワールドカップの初戦のアルゼンチン戦で試合前に国歌が流れて、僕らベンチでしたけど、あの雰囲気は忘れられないですもんね。平野孝が周りを見たらみんな泣いてたという話をしてましたけど、オレは前しか見てなかったですね。そんな余裕はなかった。そのへんがあいつの冷静さで、だから今でも選手協会のお偉いさんになれる(笑)。

 

1998年フランスワールドカップの第3戦、ジャマイカ戦でゴン(中山雅史)さんが足を折りながら取ったゴールってすごかったですよね。日本のワールドカップでの最初の得点で。ホントはあのゴールを自分が取りたかったですよ。

 

2002年ワールドカップの前はスタメンでなくてもコンスタントに使ってもらってたから、出番はあると思ってたんです。それで「これは何としてもチャンスをつかんで、点を取ったりアシストをしたり結果を出したい」って思ってたんですよ。

 

試合に出たらハーフラインからでもシュートを打ってやろうかなって、そういう思いを持ってやったんですけど。いざ出番が来たら、初戦のベルギー戦はちょっと空回りしちゃって、次のロシア戦は出られませんでしたけど。

 

ただ、ベルギー戦で2002年ワールドカップという舞台も一度経験してチュニジア戦には出られましたから。それがまた長居ということでテンションが上がって。まさかそこで点が取れるとは思わなかったですね。

 

ただあのあと2点目が入ったんですよ。その点は市川大祐のクロスから、ヒデ(中田英寿)がダイビングヘッドで取ったんです。だから正直、試合が終わった後「やっべぇ、スターが取ったから話題をアイツに持っていかれる」って感じがあって。次の日に家に電話して「どう? 関西どう?」って聞いたら「大きく出てるよ」って(笑)。

 

やっぱりあんときのワールドカップというのは何年経ってもみんなの印象に残っているようで。僕にも「やっぱりチュニジア戦のゴールが忘れられません」と言ってきてくれる人はいるんです。いるんですけど、「あのときの得点が今でも頭から離れません。あのダイビングヘッド」って。違う、それヒデのゴール(笑)。ネタのように言われます。

 

現役時代、「持ってた」感覚はなかった

現役時代は「持ってた」というのがあんまりなくて。僕がヤンマーに入ったのは1991年で、ヤンマーが初めて2部に落ちた年で。プロ化を目指していくという話は聞いてたんですけど、「さぁこれからヤンマーでやるぞ!」と思ってたら、最後に負けて2部に降格になって。「オレのスタートってってこれか。今からやというのに」って半泣きになった感じを覚えてます。

 

そのときのチームには、楚輪博さん、西村昭宏さん、貴志俊治さんがいらして、僕も一緒にプレーしたんですけど、みんなその後セレッソの監督になっていったんです。

 

現役時代、僕が18歳のときに西村さんは32歳でしたけど、練習の走りでいつもデッドヒートしてましたね。西村さん、ずるいんですよ。ずっと僕の後ろを走ってて最後になったらかわして前に行こうとするんですよ。それに、西村さんは太ももにすごい傷があるんですけど、それを18歳の僕らに見せて脅すんです。そのときから「この人に言われたらやらなあかん」と植え付けられてました。

 

副島博志さんとも一緒にプレーしましたね。副島さんは2000年リーグ優勝をギリギリで逃したときの監督で、そのときは尹晶煥もいました。副島さんはその後、セレッソU-18の監督にもなって。

 

僕は2008年に引退して、その年にJユースカップの決勝が長居であったんで見に行ったんですよ。副島さん率いるセレッソU-18とガンバU-18との試合で、セレッソには高校3年の山口蛍がいて。

 

そうしたら蛍が先制点を挙げて、前半2-0でリードする完勝ムードで。「これでセレッソの初のタイトルか」と思ってたら、後半ガンバの宇佐美貴史が活躍して4点取られて負けたんですよ。

 

そのとき副島さんがやってきて「やっぱりオレが持ってないか」って嘆いてました。そう言われながら、こっちも「オレがここに来たからかも」って焦ってました。あ、でも今考えると、初タイトルを獲った2017年ルヴァンカップ決勝には副さん来てなかったな(笑)。

 

2部ということに関して言うと、2002年ワールドカップのとき、セレッソはJ2だったんです。J1はワールドカップのことを考えながらスケジュールが組んであるんですけど、J2ではそうでもなくて。だからスケジュールはタイトだったんですけど、代表に選ばれてた僕とアキ(西澤明訓)は頭の整理ができてたというか。自分たちはワールドカップに出してもらって、帰ってきてまたJ2なんですけど、それでも37試合には出たと思います。

 

代表で頑張ったら、そこで自信を持って帰ってきても頑張れたし。4年に1度のワールドカップイヤーで難しい年ではあったかもしれないんですけど、J1に昇格できたからじゃなくて、充実してたって感じはしましたね。

 

辛かった2000年のオーバートレーニング症候群

僕が一番辛かったのは、2000年にオーバートレーニング症候群になったときですね。エスパルスにいた市川も1999年になったやつです。僕は2000年アジアカップでレバノンに行った後にオーバートレーニング症候群になったんですよ。

 

そのアジアカップって、久々に代表での大会に呼ばれたんですよね。1998年にトルシエ監督就任後の一番最初のエジプト戦が長居であったんですけど、その試合に呼んでもらって、途中から出てすぐに足首捻挫して。印象悪かったでしょうね。そのままそっから1年半ぐらい呼ばれなかったんです。

 

で、2000年に久しぶりに呼ばれて、モロッコで開催されたハッサン2世国王杯のフランス戦で先制ゴールを挙げたりとか、ちょっとよかったんですよ。それでその後にアジアカップやったんで続けて呼んでもらって。

 

そのアジアカップにはヒデがいなくて、でも成績残さなあなんと言われる中で試合に出してもらって、緊張感を持ってレバノンに行って、帰ってきて体調を崩したんです。

 

僕はそれまであんまりケガとかもしなかったんですよね。なのに、やろうにもプレーできないし、なんかこう気持ちの部分で燃えずにいたりとか。それで検査しても何も悪くなくて。たとえば捻挫とか骨折とかというんだったら、治ればプレーできるというのがあるけど、先が見えない。

 

何試合かプレーしたんですけど、でもやっぱりできないんですよね。最後、千葉の遠征に行ったときに、行きみんなと一緒に行ったんですけど、何というのかな、フワフワして気持ちわるくなって。「これ、ちょっと試合できないです」って監督に話をして。

 

それでウチの嫁が大阪から迎えに来て、2人で一緒に大阪まで帰ったんですよ。飛行機で帰るのも辛そうやからって、新幹線で。で、クラブも「もうこれはアカン」と。「とりあえず1回リセットしてゆっくりせい」って、まだ天皇杯とかもあったけど、先にオフに入っていいって言ってもらってそこで休んだんです。

 

自分の中ではやらなあかんというのもあるし、やろうと思ってもできないし、ソワソワして。寝ててもパッと目が覚めるんですよ。ご飯食べなきゃって口に入れても気持ちが悪くなるし。それで一度病院に行ったら何の問題もないと。

 

ただ、そのときにウチの嫁が先生に「まぁ2、3日食べんでも死なへん」みたいなのを聞いてたみたいで。それで僕が「食われへん」って言ったら「大丈夫よ。2、3日飯食わんでも死なへんって言ってるから。サッカーもできないんだったら、やらなくていいじゃん」みたいなことを言ったんです。

 

僕は一種の気持ちの問題かもしれないと思ってましたし、自分でも神経質なんだろうなって思いました。だから「やらなあかん」と思ってたんですけど、嫁に言われて「そうか」って。嫁がそんな感じだったのは、少なからずいい影響があったと思います。嫁は「男前」なんですよね。

 

そこから休んで。実はゴルフに行ったりしてました。テンション上がらなかったんですけど、リフレッシュしようと思って。そのリセット期間がうまくいって、結局次のシーズンのキャンプぐらいからまたサッカーを始められました。

 

市川もオーバートレーニング症候群だったことを考えたら、日韓のときはオーバートレーニングつながりで決めたってことです。だからダイビングヘッドが決まった。つながりましたよ。いや、あのゴールはヒデ。オレじゃない(笑)。

 

でも市川のクロスから僕が飛び込んでダイビングヘッドでポストに当たった場面もあったんですよ。あれが入ってワールドカップで2点取ったらその後天狗になっててオレのサッカー人生終わってました。入らなくてよかった(笑)。

 

f:id:g-mag:20180626173000j:plain

 

現役引退といまも続く首の痛み

引退のときは首が原因でした。2007年にC級コーチライセンスを取りに行って、その最終日に全部が終わってジョギングしてたら、最後に首の後ろの延髄から頭のてっぺんまで水が走るような感じがして痛くなって。

 

「あ、これ血管切れたんじゃないか」という感じで、走ろうと思っても走れないんですよ。それで慌てて宿舎に帰ってすぐにチームドクターに電話して。「水がかけられたみたいで頭がゾクゾクして、すごい気持ち悪くて」って報告して。

 

そうしたら、片足で立って両手を広げて、腕を伸ばしたまま体の正面に動かして、右手と左手の小指がくっつけられたら大丈夫って言われたんです。それでやってみると、何度やってもできる。「先生、これ大丈夫」って(笑)。でも絶対明らか何々かおかしい。ゾクゾクするし。また不安じゃないですか。なんや、これって。

 

ただ、ジョギングなんかはできたんで大丈夫やろうって、オフ期間やったからそのまま放っておく感じで。で、シーズンが始まったんですけど、走っててちょっと経ったらやっぱり首の後ろがズーンと来るようになって。何かわからなかったオーバートレーニングのときとは違って、明らかに延髄のとこなんですよね。

 

なんかこう、神経がピーンとするから走れないんですよ。ダッシュはできるんですけど、ジョギングでゆっくり走ると痛いんです。そっから練習をちょっとやったりやらなかったりしてて、これおかしいっていろんなところの病院を巡って。

 

そのときもプレーできなくて、2007年は「動けるようになったら合流せい」って言われたんで、ほとんど1人でトレーニングしてました。でも2007年の終盤までそんな状況が続いたから、自分の中で気持ちを整理して、「もう目処が立たんから引退しよう」って。

 

それで「引退しようと思ってる」とクラブに話をしたんです。そうしたら、もう1年治るかどうか、もう一回、期間をくれたんですよ。

 

それでやったんですけど、夏場まで何をやってもよくなる要素がなくて。その間、自分はチームのミーティングだったりトレーニングなんかで選手を見ながら、気持ちが整理できる期間があって。チームが若い選手たちに変わっていくところも見ることができて、ある意味勉強にもなりながら過ごして。

 

そこで最後に「もう先も見えないから引退しよう」って気持ちになって、そこで選手生活を辞めて引退するという決断になったんですけど。

 

みんな「引退したから首治ったやろ」「気持ち的に楽になったやろ」って言うんですけど、首はまだ悪いんですよ。原因はわからないんです。サッカークリニックで子どもたちと一緒にボール蹴ったりするのはできるし、大きいゲームも人の引退試合に出てるから、できないことはないんですけど、素走りでトラックを走ったりするのはダメなんです。

 

今年またグラウンドをゆっくり一周走ってみたんですけど、やっぱり2周目ぐらいから気持ち悪くなって、それでも走ってるとズーンと来て。同じ方向をずっと向いていても首が張ってくるんです。ただ現役じゃないから、今はそこにもうリスクを持つことは無いなって。何か生活に支障というのは全然ないですし。

 

首を痛めたことが次のステップへ行くためのきっかけに

オーバートレーニング症候群と首の痛みを比べると……オーバートレーニングのほうがキツかったですね。首は首で大変やったというのはありますけど、そのときはチームの中で自分がどうかということを見ながら、最後は「引退」という覚悟もあってのことでしたから。

 

でもオーバートレーニングのときはまだ28歳のバリバリで、自分もまだやろうという意欲がある中でのなかなかプレーできないという……あのときの不安な部分はね。首を痛めたのは35歳で、まだまだやれるという意欲はあったんですけど、そこを比較するとオーバートレーニングのほうがキツかったかもしれないなと思いますね。

 

逆に、最後の首を痛めたのは、それが自分のサッカー人生の中で1つのきっかけというかね。自分の中では自分がどうやって引退するのかというのはわからなかったですし。次のステップに行くためのきっかけにはなったのかなと思いますけどね。

 

首の痛みはまだ続いてますけど、サッカー選手って病気やケガしたりとか、いろんな苦しい思いをしてますし、リハビリずっとしてる選手もやっぱりいますしね。そういう選手たちの大変さというのは、やっぱり苦しい思いをした人しかわからないし、自分にもわかるようになったし。

 

そんな選手はサッカーやりたいという意欲があると思うんですけど、リハビリしてるとき、いかに心折れずにやれるかというのがすごい大事やと思いますからね。そういうメンタルトレーニングの話をさせてもらったりもするんですけど、自分で経験ができたのはよかったと思いますけどね。

 

僕は、最初にヤンマーに入ってプロになって行く中で、強いチームを倒していきたいというのが夢だったんですよ。当時で言うとヴェルディとか。そういうところをどんどん倒していって、そこで活躍すると自分たちがどんどん評価されていくんじゃないかって。強いものを倒していくというのが自分の生き甲斐というか。

 

本当はその時点でダメなのかもしれないですけど。自分が上にいて、這い上がってくるヤツをどんどん払いのけるってのが王者というか。一回ね、オレが引退するときに名波浩と話をしたんですよ。ナナは高校時代も静岡選抜で一緒にやってますけど、同級生でありながら最高にすごい、やっぱり尊敬できるプレーヤーでもありますし、指導者としても成功してますし、活躍してるのを見るといい刺激にもなりますね。

 

ナナ(名波)は「将来監督になる」って言ってて、僕も「監督を目指していく」って。僕はナナに「オレが監督になったときって、まずはナナがもうJリーグの監督として活躍してるでしょ。そこにオレが後から行ってナナをやっつける。それがオレの夢よ」っつったら、「だからダメだ」って。「最初の時点で下からじゃねぇか」って。言われてみたら確かにそのとおりでした(笑)。

 

f:id:g-mag:20180626172943j:plain

 

森島寛晃がおすすめする間違いないお店

飯の話は、2002年つながりで紹介しましょうか。

 

2002年に、もともと知ってる人が独立してオープンした大阪・新町の「トラットリア・パッパ」っていう店があるんです。オーナーが違うところで修行されていたときにウチの嫁が知ってて、僕も2002年から結構チョコチョコ行って。

 

誰か「おいしいとこ、ない?」って言ったら必ずそこを紹介してます。そこのオーナー、関西の「ちちんぷいぷい」というテレビ番組に出てたりするんですよ。

 

魚料理がメインですね。何の魚が食べたいか言ったらカルパッチョとか作ってくれます。僕はそのカルパッチョとパスタ、それからお勧めは、パンの上にウニが載ってる料理と、ゴルゴンゾーラチーズにパンを付けて食べる料理ですね。それがメチャうまいです。

 

で、いつも食べるのが、僕は貝が好きなんで、手打ち麺のパスタに、そんときの旬の貝を入れてもらったパスタですね。貝がね、手打ち麺に合うんですよ。それが最高においしいです。

 

それから、お肉料理だとミートダイニングの「River:ve(リバーベ)」っていう大阪・本町の店ですね。元々お肉屋さんだったイタリアンレストランで、あるときちょっとお世話になって、それからずっと行ってます。熟成の肉とか、そういういろんな肉料理しっかり食べられます。御堂筋のど真ん中にドンと、結構いいところにありますよ。年末はイルミネーションもありますし、ちゃんと光が中からも見える感じで、すごい雰囲気もいいです。

 

この2店は間違いないです。ぜひみなさんに行ってほしいところですね。どちらも抜群です。

 

r.gnavi.co.jp

r.gnavi.co.jp

 

森島寛晃 プロフィール

f:id:g-mag:20180626173144j:plain

1991年、東海大学第一高校からJSL2部のヤンマーディーゼルに入団。ヤンマーはセレッソ大阪へ改称後、1994年にJリーグ入り。1995年からは日本代表として活躍。W杯には1998年、2002年と2大会連続出場した。

2008年に引退し、現在はセレッソ大阪の強化部長を務めている。
1972年生まれ、広島県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

f:id:g-gourmedia:20150729190216j:plain

佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

バックナンバー

                             
ページ上部へ戻る