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若葉ちゃんの家から帰ると、これから伊万里様を連れて帰るとお兄様から連絡があった。これは伊万里様にもお土産を渡すチャンス!部屋で伊万里様用のお土産を選別していると、おふたりが帰ってきたと知らせがきたので、急いで出迎えに行く。
エントランスの照明をスポットライトのように浴びた伊万里様は、まるで舞台の主役登場かのように華々しくて、その眩しさに私は一瞬たじろいだ。
「麗華ちゃん、こんばんは~」
「伊万里様、ごきげんよう!」
スターが観客に手を振ってくれたので、全開の笑顔でそれに応える。
「お兄様もお帰りなさい」
「ただいま、麗華」
おふたりに挨拶をした後、私は伊万里様に差し上げたい修学旅行のお土産があることを話した。
「うん、貴輝から聞いたよ。それで貴輝が持ってきてくれるって言ったんだけど、せっかく麗華ちゃんが僕のために選んでくれたお土産だからね。麗華ちゃんから直接受け取りたかったから、来ちゃった」
「来ちゃった」と目を細めていたずらっぽく笑う伊万里様に、隣に立つお兄様が「大の男が可愛い子ぶるな、気色悪い」と毒づいた。
「ではもしかして、わざわざそのためにいらしてくださったんですか?」
「わざわざじゃないよ。麗華ちゃんに会いたかったから」
「まぁ!」
カサノヴァ村の村長は今夜も絶好調のようだ。いつもの伊万里様の軽口だとわかっていても、ときめく乙女心。
「ありがとうございます。今すぐ持って参りますね!」
「慌てなくていいよ。貴輝の部屋で待ってるね」
「はいっ」
自室へ向かう私の後ろで、伊万里様の「痛っ」という声がした聞こえた気がした。
伊万里様へのお土産を持ってお兄様の部屋に行くと、テーブルの上にはワインのボトルとお皿にきれいに盛り付けられたチーズが置かれていた。
「このチーズも、麗華ちゃんのお土産なんだって?貴輝に先に出してもらっちゃったけど、よかったかな?」
「ええ。お口に合うかわかりませんが、ぜひ召し上がってください」
ワイングラスを片手にソファにくつろぐ伊万里様が、おいでおいでと私を隣に呼んだので、その指示に素直に従うと、向かいのソファから伊万里様めがけてワインのコルクが飛んできた。
「う~ん、おいしい!」
ワインとチーズに舌鼓を打つ伊万里様。さすがカサノヴァ村の村長、チーズとワインが良く似合う。
かのカサノヴァはシャンベルタンのワインとロックフォールチーズは。消えかけた愛を蘇らせ、芽生えた恋を成就させると豪語したそうだけど、残念ながら今回買ってきたチーズはロックフォールではない。ブルーチーズは臭いがきつくて、万が一スーツケースの中で真空パックが破けたらどうしようという心配から、買ってこられなかったのだ。私はチーズは好きなんだけど、ブルーチーズの臭いだけはダメだ。ワインはともかく、あんな強烈な臭いのするチーズを食べて恋愛が成就するって、私には全く理解できない。そもそもあれだけびっしりと青かびが生えて、強烈な臭いを放つチーズを、よく一番初めに食べたフランス人がいたもんだ。臭い上にカビだらけの食べ物を食べるチャレンジ精神。グルメは命がけだな。
などということを考えながら、私は伊万里様にお土産を渡す。
「伊万里様これ、たいした物ではないのですが…」
「なんだろう。あ、ゴルフマーカー?へぇっ、いいねこのデザイン!こっちのも面白い。ありがとう麗華ちゃん。さっそく今度行った時に使わせてもらうよ」
良かった。気に入ってもらえたらしい。つい旅先のテンションでコロッセオやトレビの泉の絵のマーカーを買っちゃったけど、あんなベタなデザインの物を趣味のいい伊万里様に渡さなくて大正解。余っちゃった観光地マーカーは、もったいないのでお父様にあげたら、大喜びしてくれてたっぷりお小遣いをくれた。なんというわらしべ麗華。
「貴輝、せっかくだから次の休みに一緒にゴルフに行くか?」
「僕は忙しい。ひとりで行け」
「冷たいヤツだ。でもこれ本当に気に入ったよ。麗華ちゃんは、センスいいね」
「いえ、そんなぁ」
うふふふぅと笑ってごまかすけど、所詮私のセンスはコロッセオ。伊万里様に渡したのは、結局たくさん買った中でもどれがおしゃれなデザインなのか全くわからなかったので、円城が「これいいんじゃない?」と言っていた物にしたのだ。どうやら円城はセンスがいいらしい。
それ以外のお土産にも、ひとつひとつ大袈裟なくらい伊万里様は喜んでくれて、そのセレクトを褒めてくれながらも、「修学旅行は楽しかった?」などと聞いてくれるので、私も嬉しくなって身振り手振りを交えてあれこれと話し、それをまた伊万里様が楽しげに聞いてくれるものだから、私の気分がグングン舞い上がる。途中でお兄様が「お前もう、それ飲んだら帰れよ」と忌々しげに言うも、伊万里様はどこ吹く風。
「お兄様と伊万里様の時の修学旅行も、行先は私達と一緒ですよね。特にどこが思い出に残っていますか?」
「どこが?う~ん、そうだなぁ。どこに行ったかよりも、誰と過ごしたかの方が印象に残っているかな」
「そうなんですか」
「俺は旅では人との繋がりを大事にするから」
笑顔で話す伊万里様とは対照的に、お兄様の目が不穏に光っていますが…?
「そうそう思い出した。旅行中はずっと貴輝と同室だったんだけど、ちょっと夜出かけてて朝そっと帰ると、すでに起きていた貴輝にそれはもう冷たい目で出迎えられてね」
「朝帰りって…。一体どこに行っていらしたんですか?」
「あ、それ聞いちゃう?」
「聞くんじゃない、麗華。耳が腐る」
伊万里様、私の耳が腐るような爛れた行動をしていたのですか…?
「そういえばある時は、貴輝に真夜中に着の身着のままで部屋から叩き出されたこともあったなぁ」
「それはお前が真夜中に電話でジュテームだのモナムールだのって、とち狂ったような台詞を吐き続けていたからだ」
伊万里様、現地女性とも交流があったのですか…?
「最終夜には貴輝に、“マジで殺すぞ”って首を締め上げられてさぁ。あの時のあの目は、絶対に本気だったね」
「…僕がそれまでどれだけお前の尻拭いをさせられたと思ってる。もう思い出したくもない」
その吐き捨てるような言葉に、当時のお兄様の苦労が偲ばれます…。
「でもさぁ、修学旅行なんてみんな羽目を外すものだろう?麗華ちゃんの時も、そんな連中たくさんいたでしょ?」
「どうでしょうか。少なくとも私のクラスでは誰もいませんでしたね。全員、門限順守でした」
「え、マジで?」
「はい」
「全員?」
「もちろんです。門限順守で5分前行動です」
「そりゃ凄い」
いや、それが普通ですよ。伊万里様の代のクラス委員は大変だっただろうなぁ。って、あれ、もしかしてその時のクラス委員ってお兄様だったりして…?うわぁ。
「そんなに怒るなよ、貴輝。大体、お前だって言うほど清廉潔白でもないだろ」
「えっ、そうなんですか?!お兄様」
「帰れ」
やだお兄様、どういうこと。あとでしっかり聞かないと。
ふと気がつくと伊万里様の片腕が当たり前のように私の背もたれに回されていた。こういうことを自然にやっているところに、伊万里様の私生活が窺えるなぁ、しかし一度その腕の存在に気づいてしまうと、当人にとってはたいして意味のない仕草であっても、なんだか意識してしまって、もうソファにもたれることはできない。あ、頻脈発動。
そんな私の心拍数も露知らず、優雅にワイングラスに口をつけ、その味を堪能する伊万里様の端正な横顔に、思わず感嘆のため息がもれてしまった。やっぱりかっこいいよねぇ、伊万里様は。大人の魅力だわぁ~。
うっとりと見惚れる私の視線に気づいた伊万里様がふっと甘く微笑み、未成年でワインが飲めない私の為にお兄様がハーブティーを淹れて差し出してくれる。
なんだなんだ、ここは。ホストクラブか?!CLUB KISSHOUINか?!
「あれ?麗華ちゃん。可愛いピンキーリングをしているね」
さすがは伊万里様。女の子が着けているちょっとしたアクセサリーも見逃さない。
「これですか?パリでお友達みんなとお揃いで買ったんです」
友情の証の指輪を、私は帰国してからずっとしている。男子がなんだ。私には強い絆で結ばれた女の友情がある!
「そうなんだ、よく見せて」
そう言いながら伊万里様は流れるような動作で私の手を取ってご自分の顔の近くに持っていった。今日のお兄様の部屋は、なぜかムーディーな間接照明のみなので、至近距離でないと見えにくいのだ。
「この部屋少し暗いですよね。もう少し明るくしましょうか。どうして間接照明だけなのかしら」
「うん?このままでいいよ。間接照明はね、女性を一番美しく見せてくれるんだよ。今夜の麗華ちゃんは、いつも以上にきれいだね」
「ええっ!」
きゅきゅ~んっ!このお店で一番高いワインを開けます!
「おい、人の妹に気安く触るな!こっちに来なさい、麗華」
向かいから今度はチーズに刺してあった金属のピックが、伊万里様めがけてヒュンッと飛んできた。お兄様、今確実に目を狙いましたね。しかし伊万里様は動じない。
「へぇ、花のように愛らしい麗華ちゃんにぴったりなデザインだね。凄く良く似合っているよ。とっても可愛い」
うひょ~ん!伊万里様の大人の魅力にときめきが止まらない。このお店のすべてのワインを!
「あ、ありがとうございます」
「じゃあこれは丁度良かったかな。はいどうぞ」
伊万里様はそう言って私の手のひらにリボンでラッピングされた小さな包みを乗せてくれた。中から出てきたのは、天使のボトルの可愛らしいネイルオイル。
「麗華ちゃんのイメージにぴったりだったから、つい買っちゃった。貸して、塗ってあげる」
ピンキーリングをした指を含めたすべての爪に、機嫌良さそうに鼻歌を口ずさみながら伊万里様が薔薇の香りのネイルオイルを丁寧に塗ってくれる。ときめきメーター、振り切れ寸前!恋愛ぼっち村の村長にあるまじき異性からのお姫様のような待遇に、許容量を超えて口からエクトプラズムが出てしまいそう…。
「ねぇ麗華ちゃん、知ってる?女の子は19歳の誕生日に、男性から銀の指輪をもらうと幸せになれるってジンクス。麗華ちゃんが19歳になった時には俺がとびきり素敵な銀の指輪をプレゼントするよ」
「まあぁっ!」
ぬおおおっ!ときめきメーター、限界値越えたぁっ!虎の子の通帳と実印を今すぐ持ってきます!狸に貢がせた金目の物をすべて持ってきます!
私はこのまま、子供の頃からコツコツと貯めた身銭を、このナンバーワンホストに根こそぎ持っていかれてしまうのか?!もしや、伊万里様こそが私を没落させる真打か?!
そこへゆらりと立ち上がったナンバーツーホストが、私達の座るソファの後ろに立ち、私と伊万里様の手をむんずと引き離した。
「麗華、すべての電気を点けてあちらのソファに移動しなさい」
はっ!底冷えするお兄様の声に、妹の呪縛は解けました。
私は部屋中のありったけの灯りを点けて、先程までお兄様が座っていたソファに座る。
「なぁ、伊万里。今度の週末には一緒に湯殿山に行こうか。伊万里には僕からはなむけに鈴をプレゼントするよ」
「え、俺入定させられんの?!」
「末期の酒だ。味わって飲め」
お兄様は伊万里様の後頭部を掴み、その口にボトルからワインをゴボゴボと流し込む。伊万里様は週末、即身仏にお成りあそばすらしい──。
衆生を救いたまえ、伊万里様。南無~。
部屋に戻って試験勉強の追い込みをかける。修学旅行カップルが大量入村した恋愛謳歌村の連中が、恋だなんだと浮かれている間に、私は学年10位以内に上り詰めてやる!まずは苦手な数学の復習からだ。数問解いたところで、ある問いに躓く。え~っと、これはなんだったっけ?参考書を開く私の手から、先程伊万里様に塗ってもらった薔薇のオイルがフワッと香った。
薔薇といえば、バルコニーの鳩避けに設置した薔薇にお水をあげておかなくちゃ。霧吹き、霧吹き。薔薇以外の植物も育てたいなぁ。若葉ちゃんの家の庭にはハーブがあったな。私もハーブを育てて自家製ハーブティーを作ってみようかなぁ。
これからの季節に咲くハーブが気になったので、それを調べてから寝ることにする。