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子羊ちゃん達がのんびりと草を食んで日向ぼっこをしているような牧歌的な空間に、突如現れた恐ろしき漆黒の猛獣メリーさん──。
その黒豹の射殺すような鋭い眼光の前では、外敵から子羊を守るべき立場であるはずの牧羊犬の私も、尻尾を丸めて為す術なし。いや、そもそも私もか弱い子羊ちゃんの仲間ですし?
そんな人畜無害な子羊ちゃんの群れ改め手芸部員達は、突然の瑞鸞の皇帝の来臨に、恐れ戦き、慌てふためいた。さっきまで憧れの眼差しで皇帝を語っていた新入部員達は、目と口を開けたまま石化している。
「吉祥院!メールを無視するなと昨日も言っただろう!」
私の姿を見つけた鏑木の怒鳴り声に、部員達が全員ビクッと大きく震えた。
「これはこれは鏑木様、手芸部へようこそ。メールの件ですが、着信にたった今気づいたばかりだったものですから、大変失礼いたしました」
震える子羊ちゃん達を庇うように、私は口角を引き攣らせながら笑顔で応えた。
「毎回毎回、なんの為の携帯だと言わせるんだ」
それはこっちの台詞だ。毎回毎回、相手の都合を考えろと言わせるな。
「行くぞ」と当然のように顎で私に指図する鏑木に、私はとても済まなそうな顔を作って頭を下げた。
「ここまでわざわざ出向いていただいて恐縮ですが、生憎、私は今手芸をしている最中ですので、鏑木様とご一緒できそうにはありませんわ」
「…手芸?」
「ええ。見ておわかりになる通りここは手芸部で、私は部活動をしておりますの。それに私はこの部の部長ですから、途中で勝手に抜けるわけには参りません」
どうだ。いつもいつも皇帝の思い通りになると思ったら大間違いだ。世界は自分中心に回っていると思うなよ!
しかし味方が私を裏切った。
「麗華様。鏑木様とご用事があるのでしたら、行って差し上げた方がよろしいのではないでしょうか?手芸部は私達があとを引き受けますから」
副部長が私を売った。
そしてその副部長の発言に、みんなが「そうですとも」「ご遠慮なさらないで」と同調する。厄介払いしたいという心の声がひしひしと伝わる…。普段周りを取り囲む取り巻き達がいない今こそ、皇帝に近づく千載一遇のチャンスのはずなのに、それよりも平穏な学院生活を望む手芸部員達。しかし譲らん。
「いいえ。私もまだ作業の途中ですから、それを放り投げては行けませんわ。申し訳ございません、鏑木様」
ふふん、どうだ。私は鏑木にタティングレースのシャトルを印籠のように見せつけた。
「なんの作業だ」
「後輩が愛犬に手作りの髪飾りを、ビーズとレース編みで作ってあげたいと言うことなので、そのお手伝いをしていますのよ」
さりげなく後輩に慕われている私をアピール。ほっほっほっ。
「犬の髪飾り…?」
すると、鏑木は目を眇めたまま大股でこちらにやってきた。それに動揺した1年生達はガタガタと椅子を倒し、チャコペンが音を立てて床に転がった。
「…どれ?」
「は?」
問いの意味が理解できなかった私に、鏑木はますます不機嫌そうな空気を出すと、作業机に目をやった。
そして机の上に置いてあった名取さんが編んだビーズを手に取り、その髪飾りの編み図をしばらく目で追うように見て「ふん」と鼻を鳴らすと、先程まで私が座っていた椅子にドカッと座った。
「貸せ」
「は?」
私に向かって手を出す鏑木。まさかこいつ…と思っていると、焦れた鏑木は私の手からシャトルを取り上げ、長い脚を気だるそうに組むと、悠然とビーズレースを編み出した!
瑞鸞の皇帝がレース編み。あまりの非現実的な光景に、部室は水を打ったような静けさとなり、チッチッチッと時計の音だけが大きく響いた。
「お前、ここ編み目がおかしいぞ」
「…そこはもう、やり直すのが大変だからそのままでいいんですよ」
「チッ、なんだよ、これ。ここのとこ糸が絡まってる」
「…どうもすみません」
全部員に知れ渡る、部長の不器用の数々。なんという屈辱!私は恥ずかしさに震えた。許すまじ。
私は目力で怨敵のつむじに圧力をかけた。開け、サードアイ!鏑木め、自室とトイレを往復し、くだしの苦しみにのたうちまわるがいい!
すると、不穏な気配を察知した鏑木が、斜め後ろに立つ私をパッと振り返った。
「…なんだ」
「いえ、なにも?」
サードアイ終了。
鏑木は絡まったレース糸も難なく解し、スルスルとタティングレースを編んでいく。コツを掴んだのか、もう編み図を見る様子もない。
「お上手ですね…。もしやレース編みのご経験が?」
「あるわけないだろう。説明書き通りにやっていけば、こんなもの誰にでも出来る」
さっきまでの私の苦労を一刀両断された。ムカつく。開け、サードアイ…。わっ、睨まれた。なぜ気づく。
「吉祥院」
「はい…」
「俺の後ろに立つな」
あんたはどこの殺し屋だ。
そして全員が皇帝の一挙手一投足を固唾を飲んで見守る中、鏑木が小さく息を吐いて手元から顔を上げた。
「出来たぞ」
迷いのない動作で編み上げた小さな花型のビーズレース。放り投げるように渡してきたそれを私は受け取って、出来栄えをチェックした。完璧だった。
手芸部員達からも「この短時間で…」「さすが鏑木様だわ」と感嘆の声が聞こえた。悔しいが、私が途中までやったのより、ずっと綺麗に出来ている。
私は名取さんの手を取ると、その手のひらに「どうぞ」とビーズ細工を乗せた。
「えっ…!」
名取さんは目を見開き、嘘でしょう?!といった半泣きの表情で、私に向かって現実逃避するように頭を横に振ってくるが、それは貴女のものよ、受け取りなさいと、私も慈愛の笑みで首を振る。
そんな私達の無言のやり取りを見ていた鏑木が、名取さんの手に乗ったビーズレースを取り上げた。そしておもむろに一部分を指差すと、
「この、糸が歪んで編み目が飛んでいる部分はこいつだから」
と、私を親指で指差し、部長としての面目を木っ端微塵に打ち砕く指摘をしてくれた。絶対に許すまじ…!私は後で、鏑木の靴の中に極小のビーズを一粒落とす決意をする。歩く度に足の裏の不快感に苦しむがいい!
皇帝より下賜されたビーズレースを、震える手で恭しく受け取る名取さん。瑞鸞の皇帝が編んだビーズレースを手中にし、皇帝直々にお声まで掛けられた名取さんは、ヘタな小細工をせずとももう、明日からクラスの話題の中心人物になることであろう──。
「さぁ、今日こそスーパーに行くぞ」
結局鏑木と共に部室を去ることになった私は、周囲に誰もいないことを確認すると、にっこり微笑んで反撃に出た。
「私にも都合があると、何度申し上げたらご理解いただけるのでしょうか。今日もこの後予定が詰まっておりますから、無理です」
「なんだ。今日も塾とか言うつもりじゃないだろうな」
「いいえ。今日は家庭教師の方がみえる日です」
なによ、その目は。あんたこそ遊んでばっかりいないで勉強しなよ。中間テストはもう間近だよ。
私はカバンから昨日の内にネットからプリントアウトしておいた、数店舗のスーパーのチラシを出した。
「どうぞ」
「…これは?」
「スーパーのチラシですわ。これで大体の傾向がわかりますでしょ。さ、これを持って帰って、予習なさってくださいませ」
私からチラシを受け取った鏑木は、興味深そうにそれを読み始めた。「お肉の日…、魚の日…?」などという独り言も聞こえる。よしよし。チラシに気が逸れている今の内に「では私はこれで」と立ち去ろうとすると、鏑木がボソッと呟いた。
「…さっき、お前のカバンの中に焼き菓子が見えた」
私はその場に固まった。
「あれはピヴォワーヌの茶菓子だよな」
「……」
別にサロンのお菓子を持って帰ってはいけないという規則はない。ないのだけれど…。後ろめたい。
「吉祥院」
「…鏑木様、ぜひお供させていただきますわ」
鏑木ピヴォワーヌ会長は、にやりと笑った。
憎い。己の食い意地が憎いっ!なぜ持って帰ってきてしまった、私!そしてなぜそれを鏑木に見られるようなヘマをした、私!
私はこの言いようもない敗北感をどうにか胸に納めると、気持ちを切り替え、鏑木を連れて行くスーパーについて考えた。やっぱり広尾や青山辺りの高級スーパーがまずは妥当かな。だけどあの辺の街は、私達を知っている人の目があちこちにありそうだからな~。
「どうした?」
「いえ、どこのお店に行こうかと…」
すると鏑木は私が渡したチラシの中から、「ここがいい」と1枚選んで見せてきた。それは“日替わり超特価!”“冷凍食品半額!”などの文字が踊る、およそ鏑木とは縁のない家計に優しい庶民派スーパーだった。
「ちなみにどうしてこのお店を選ばれたのでしょう?」
「数あるチラシの中で、ここが一番売ってやろうというやる気に満ち溢れているから」
「なるほど」
このスーパーで、知り合いに絶対に見つかりそうもない遠く離れた店舗はどこかなぁ。あ~あ、面倒くさいなぁ…。
「あ~あ…」
「なんだよ」
思わず出てしまった心の声を、鏑木に聞き咎められてしまった。
「いえ…。そういえば、よく私が手芸部にいることがわかりましたね」
「あぁ、サロンに居たお前の友達に聞いた」
「友達?」
う~んと考える。あ、もしかして芙由子様か?
「さっきまで一緒にいたけど、吉祥院は部活に行ったと教えてくれたぞ。部活は手芸部で部室の場所もな」
芙由子様、余計なことを…。
でも芙由子様って、私が手芸部だって知っていたのね。同じグループだけど芙由子様は浮世離れして、あまり特定の子と仲良くしているのも見たことがなかったから、私を含め、あまりみんなに興味がないんだと思ってた。
そこでふと、さっきの名取さんの話を思い出した。芙由子様はピヴォワーヌのメンバーで、初等科からの内部生で、一応私達の最大派閥に所属しているしで、名取さんとは全く置かれた立場は違うけど…。
私に悩みごとがあるんじゃないかと、話しかけてきた芙由子様。一緒にヴィジャボードをしましょうと楽しそうに言ってきた芙由子様。
いつもグループの輪にはいるけど、自分からは話を振らず、おっとり微笑んでいるだけだから、そういう人なんだと思っていたけど、本当はもっとみんなと話したいと思っているのにタイミングが掴めないだけだったりしたりして。さっきも私と仲良くしたいと思って、頑張って話しかけてきてくれたのだったりして。私の勝手な想像だけど。
でもだとしたらさっきの私の逃げるような態度は冷たかったな。
「どうした?」
「いえ…」
明日、芙由子様に話しかけてみようかな。…オカルト以外の方向で。
「おい吉祥院!時間がない。ほら早く行くぞ!」
「は~い…」
「なんだ、その気のない返事は!覇気を持て!」
まずはこの、目の前の問題を片付けないと。