福岡である殺人事件が起こりました。ニュースでもやっていたので、知っている方は多いでしょう。
被害者がHagexという有名ブロガー、それもはてなブログの方だということを、Twitterのタイムラインで知りました。
同じはてなブログではあるものの、Hagex氏と直接のかかわりはありませんでした。彼の存在も、この事件で知ったほどですから。
しかし、オフ会やセミナーなどで会ったことがある人は少なからずショックを受けているだろうし、私などとは違い影響力のある有名ブロガーなので、彼の読者の中でも動揺が広がっています。
私も一人のブロガーとして、決して対岸の火事視はできません。
犯人は「低能先生」
犯人は、Hagex氏や他ブロガーから「低能先生」と呼ばれていた悪質な荒らしです。こちらも直接の関わりはありません、たぶん。
この「低能先生」、調べてみるとidコールを利用して誰彼構わずはてブ欄で、
「低能」
と誹謗中傷を繰り返すことからつけられた仮の名前。Hagex氏が名付けたわけではありません。
こんな中傷を繰り返していると、やられた方は黙っていません。当然通報され、IDをBAN(凍結)されます。「低能先生」も、IDをBANされてはその度にまたIDを変え事に及ぶ。その繰り返しでした。
ID作成→誹謗中傷→BAN→またID作成を繰り返した期間は2年以上、使っていたIDは、わかっているだけでも206個*1。
この事実だけでも、「低能先生」の粘着ぶりと異常性がわかると思います。
その動機はまだ確かではないですが、「低能先生」が犯行後にはてなダイアリーに書いた「犯行声明」に動機が書かれています。
「俺を『低能先生です』の一言でゲラゲラ笑いながら通報&封殺してきた(以下略」
つまり、
・低能先生とバカにされた
・はてなに通報した
・自分の書き込む権利を侵害された(?)
ということが、人を一人殺めた動機のようです。
しかし、「低能先生」はHagex氏がつけたものではなく、本人のコメに「低能」という罵倒語がついていたから自然にそう呼ばれるようになっただけ。自分で蒔いた種なのですが、それに気づかないのです。その理由は後述します。
Hagex氏のブログトップには、事件当日の6月24日、事件現場となった場所で行われたセミナーの連絡が載っていました。
しかし、セミナー開催場所は不幸にも「低能先生」の居住地と同じく福岡市。おそらくこれを見て、殺してやると思ったのでしょうか。
荒らし行為で人様に迷惑かけまくり、苦言を呈したら逆恨みして刺し殺してくる・・・これでは被害者は救われようもありません。
「低能先生」の心理
「低能先生」は、ネット用語でいうメンヘラ。「頭おかしい」と言ってしまえば、彼のすべてが表現できます。
しかし、私は考えてみました。彼の狂気の原点は何なのだろうかと。
歪んだ自己主張
そもそも、「低能先生」は何故idを200回以上変えて、つまり200回以上BANされてまで人への罵倒を繰り返すのか。これだけでも十分異常です。通報されてBANされても、なぜ懲りずに同じことを繰り返すのか。
一言で言ってしまうと、それが彼の「存在意義」だったからではなかろうか。
ブログにしてもSNSにしても、同じネット上の発信者には変わりありません。ただ、表現方法がそれぞれ違う。同じ事柄について書いていても、どこかで人の個性があらわれ、視点や表現方法によって違いが生じる。だから面白い。
「低能先生」も、大なり小なり自己主張がしたかったに違いありません。承認欲求を満たしたかったのかもしれません。
ただ、それを荒らしでしか表現できなかった。他人を罵倒することでしか、自分を表現できなかったのです。
idコールで人を罵倒することで、
「俺はここに存在しているぞ!!」
と。
しかし、当然ですがその表現方法があまりにいびつすぎた。他人を罵倒し不快な思いをさせるしか自己の表現方法がない。思考が幼稚すぎなのです。
主観的、あまりに主観的な
実は「低能先生」と私は同世代です。だからこそわかるのですが、同世代の無職ということは、おそらく社会との交わり、人との深く突っ込んだ会話がほとんどなかっただろうと。それを、「ニート」とか「引きこもり」と表現する人もいます。
人が集団生活を送り、社会と交わるのは何故か。様々な考え・価値観の人と交わり、多角的な見方を養うことです。
それを無くすと、ものの見方がどんどん偏り非常に主観的となります。これは私も、一時期経験がありました。
「低能先生」は、「低能」と呼ばれたことに怒っていたフシも見受けられます。ただ、何度も書くように、それは自分が相手を「低能」と罵ることによって生まれた言葉。単に言葉の返り血を浴びたにすぎません。
が、主観的な見方しか出来なくなると、そんなことすらわからなくなります。
主観的をこじらせてしまうと、自分の言動は棚に上げる・・・のではなく、全く考慮の範疇に入らなくなります。「ブーメラン」とネットでは言いますが、ブーメランが刺さったことすら気づかない、否、あまりに無自覚すぎて刺さらないのです。
主観的になると、その中で「絶対的な正しさ」というものが生まれます。
そうなると、自分の言動は300%正しい、相手は300%間違っているという認識に至り、被害妄想が自分の中で増大します。ME &ME &ME!と相手の心情、状況を全く理解できなくなります。
人の意見を聞く度量は失せ、人が離れていき、その結果ますます偏るという悪循環に。
これが怖いのは、自分では全く気づかないこと。
私の場合は久しぶりに友人と会った際、
「どうしたの?顔つきも目つきも(昔と)変わってる・・・」
と言われ、こりゃあかんと気づいたこと、おかしいと思ったら原点回帰することにしているので(原点回帰点みたいなものを作っている)、まだ傷が深くならずに済みました。
が、第三者的に自分を見てくれる人がいないと、修復不可能なほどに病巣が深く入り込みます。
ネットではないリアルな人間との交わりというのは、自分の軌道修正に必要なもの。「二次元」でいいやと言っても、「二次元」は自分を第三者的に見てくれないですから。
「あなたのやってること、おかしくない?」
そう言ってくれる人が周囲にいなくなると、自分でも気づかないうちにどんどん暴走していきます。
思考は偏り、常識から外れた妄想となります。妄想は自分をヒーローに押し立てます。客観的に見るとこれも現実逃避であり、自分のプライドを守る防衛機制の一種なのかなと。
ヒーローは完全無欠です、完璧です。完璧な人間なのだから、なにをしても正義。正しくないと指摘する人こそ正しくない。だから俺は悪くない。他人が悪いのである。
主観的論者は、こういう論理となります。
結局は人恋しい
「低能先生」の犯行声明には、こんな文章が書かれていました。
>俺と議論しておのれらの正当性を示すこともなく
「低能先生」のブコメを見れば、明らかに議論しようだなんてものではありません。それ以前に、はてブはレスを返せないシステムなのですが?
よって、彼のこの発言は、自分の頭の中=世界の常識と思ってしまう妄想の一種と解釈できるのですが、私は、
「ああ、この人なんだかんだで人恋しいのだな」
と感じました。人が恋しいから人と交わろうと試みる。それを「低能先生」は、上段に構え「議論」と呼んでいます。しかし、そもそも触れ合い方が根本から間違っているので、相手にされない。
そりゃそうでしょう。しかし、彼にはわからないのです。
「議論」して欲しいがためにさらに過激になっていくものの、さらに相手にされなくなり、BANされる回数だけが増えていく。蟻地獄ですね。
idがBANされることにより、「議論」する場と不満のはけ口、そして人と交われる(おそらく唯一の)場所を奪われた。
Twitterでの「低能先生」ウォッチャー(?)によると、今年の5月あたりから「死ね」から「殺す」に変わり過激になったそうですが、おそらくそのあたりから、怒りが殺意に変わったと推測できます。
さらにHagex氏が、
「私が『低能先生』の鬼の首を取りました」
という記事を書いたことで、怒りの矛先が全力でHagex氏に向かっていってしまった。
さらにHagex氏は、よりによって「低能先生」の地元でセミナー行うことになってしまった・・・なんという不幸か不運か。
ただ、Hagex氏の記事に対しは、
「鬼の首を取ったような記事は如何なものか」
とたしなめる人も、ブコメやTwitter上ではちょくちょく見受けられました。当然、殺害される前です。
親を困らせることにとって愛情を確かめる子どもがいますが、「低能先生」もその一人ではなかったか。当然、だからといって弁護の余地はありませんが。
ある歴史的人物が語る、狂人対策
はっきり言ってしまうと、「低能先生」は狂乱者です。
idをBANされたことにより、ネットという檻に閉じ込められていた狂乱者が現実世界に出てきてしまい、人を一人殺してしまった。
動機があまりにも独りよがりすぎる。これを狂乱者と言わずしてなんと言いましょう。
「低能先生」は極端中の極端ではありますが、そんな極端な人もふつうにネットに接続し、歪んではいるけれど発信しているのです。
情報や意見を発信していると反感を買ったり、恨まれたりすることはあります。
私も長年ブログを書き続けているので、少なからずそういうことは経験済みです。
ブロガーどころか、SNSで気軽に書き込んでいる人も、みな発信者です。自分はそんなのあり得ない・・・それこそ妄想です。
そんな発信者として、今回の事件を起こさないようにするにはどうすればいいか。
考えました、よ~く考えました・・・。
ありません!!
これが私が出した結論です。正直、今のネット社会には発信者に対するケアはありません。すべて自己責任、自分の身は自分で守る。
現時点で可能な対処療法は、放置しかない。そう思っています。
私は常々言っています。
「ネット発信者に必要なスキルは、文章のセンスではない。スルースキルだ」
荒らしや根も葉もない誹謗中傷に対しては、スルーがいちばんです。これができなかったが故に、火に油を注ぐことになった経験からの教訓です。人によっては、スルーされて激昂する人もいますが、これはどうしようもない。
Hagex氏のブログのはてブ欄に、おや?と目に入ったブコメを見つけました。
「放置推奨。(中略)idと暴言くらいならなんてことはない。この集団を断つのは危険」
ガス抜きであるidを絶たれることにより、不満がたまった狂乱者がネット世界から現実に入り危害を加えかねない。彼はそう警告しています。
狂人の危なっかしさを十分にわかっていたのでしょう。
ところで、元総理大臣に岡田啓介という海軍大将がいました。
二・二六事件発生時の総理大臣ですが、昭和11年(1936)、彼を殺そうと決起将校たちが首相官邸を襲撃・・・。
という経緯で出てくる人物です。
そのせいか、なんだか頼りないマイナスの印象を持っている人がいます。
しかし、さにあらず。
歴史のIFですが、もしも岡田が二・二六事件で殺されていたら・・・高い確率で我々は存在すらしていません。日本という国も、おそらくありません。
昭和20年8月の『終戦』を一本の映画とするならば、監督兼主演は首相、岡田はプロデューサー*2。私はそう表現していますが、戦後の総理吉田茂は、岡田をこう評しています。
「岡田さんはタヌキもタヌキ、昭和の大タヌキだ。しかし、あれだけ国の将来を考えたタヌキはいない」
そんな岡田が遺した言葉があります。
「いくら激している者にも常識はあるんだからね。そこを相手にする。
狂人だったら別だ。ただ逃げろ。これがわたしの兵法だ」
226事件の際、岡田は逃げに逃げました。女中部屋の押入れの中に隠れ、救出されるまでじっと我慢でした。事件当日、逃げるさなか官邸の中庭で「自分」、実際は身代わりになった秘書官の松尾伝蔵、が殺されたのも目撃しています。軍人、海軍大将、首相としては屈辱だと思います。
実は、岡田は決起将校側の兵隊に何度か見つかっています。
が、幽霊と間違われて兵の方が逃げ出したり、岡田と知りつつ兵一個人の独断で見逃したり、上官(栗原安秀中尉)に報告しても相手にされなかったり、運にも恵まれていました。
上の言葉がいつ発せられたのかはわかりません。おそらく226事件を命からがら逃げ延びた後の言葉だと思います。
おそらくですが、この言葉の裏には、弁説の士らしく「狂人」を説得しようとして凶弾に倒れた、515事件の犬養毅首相が頭に浮かんだのでしょう。
誰がどんな存在なのか、ネットという網で向こう側が見えない現代社会。ある意味恐ろしい社会です。
そんな世界では、どこに「狂人」が隠れているかわかりません。ネットなしでの生活がもはや考えられない以上、防ぎようもありません。
ただ、「低能先生」レベルの狂人はただ逃げる。正論は一切通じないから、とにかく逃げる。
岡田啓介が黄泉の国から、発信者にアドバイスを送ってくれているかもしれません。
これも歴史のIFになってしまいますが、Hagex氏がもし岡田の言葉をどこかで知っていれば。はてなに通報しても、通報しましたなんて記事は書かなかったのではないか。そう思うと、残念で仕方ありません。
おわりに
ネット発信者として、このような事件は二度と起こってはいけません。しかし、私がこんな所で吠えても「狂人」は止められません。厄介なことに、近寄らないようにしても向こうから近寄ってくる。追い込んではいけないといっても、相手は自分で仕掛けた地雷を踏み、勝手に追い込まれてくる。
そのためには、「逃げる」ことも選択肢に入れ、身バレするような書き込みや写真などは極力控えつつ、絡まれたら放置しつつ、粛々と管理者に通報。
そして重要なのは、通報して相手がなんらかのペナルティを食らったとしても、絶対に公にしないこと。
Hagex氏にとって今回の件は、本当に不運でした。しかし、ネットウォッチャーというプロだからこその盲点があったのかもしれません。上手の手から水が漏れるということか。
亡くなってしまったことは事実ですが、残ったブロガーがこれを教訓にしていく。
それがHagex氏への最大の弔いかもしれない。
*1:参考:https://anond.hatelabo.jp/20170921212825
*2:自分の分身として、娘婿の迫水久常を書記官長(今の内閣官房長官)として入閣させています。