このフォロワーのリプに対し、「アンチは先天的に頭がおかしい」と軽く返してしまったが、実は細かい分析は済んでいる。
伊豆でのひらめきも大きかった。まぁその分静養できたのかどうか、もったいない気がしたが。


まず備忘録に立ち返るが、アニメは「極端」な表現だということだ。
すべての描写が過度に強調され、過度に簡略化される。
だから解りやすくて広く理解される反面、それを「リアル」だと思い込むと多大なる危険性を孕んでくる。

オタクはそれに「当てられ」て、共感して、それに「リアル」さを感じてしまって、残念なことに、オタクになる。
それはどうしようもない宿命だ。しかし、その弊害は十分に理解し、自覚しなければならない。

感情も感覚も過度に強調され、簡略化されたアニメという表現を、僕達はもっと警戒しなければならないのだ。
普通の感覚の一般人は、それが無意識にできている。

それが、社会性や、乱暴に言うと「常識」のない人間、あるいは本当に先天的な欠損のある人間は、簡単にこの罠に嵌ってしまう。
リアルな社会、リアルな人間関係を理解できない人間が、この簡略化され強調された歪な精神や感覚、世界観を、リアルで正しいものだと思い込んでしまうのだ。

これが長年高畑勲が危惧し、警鐘を鳴らしていた「アニメの罠」だ。


こうして皆、「そしてオタクになる」。

原理原則として、アニメは危険な罠であると、ここに断言しよう。


しかし、ここでまた「オタク・イズ・デッド」を引用して世代論を持ち込んでしまうが、僕らの世代はまだマシだった。
アニメに対する愛情があったからだ。

今もあるって?
嘘を吐け!

第三世代は「アニメを利用している」世代だ。
アニメよりも自分のアイデンティティが大事。
自分を護るためにアニメに仮託し、アニメに「自分を護れ!」と強要する。
「自分が変なのはアニメのせいだ!」と、押し付ける。
だから愛情よりも批判や罵倒が優先する。

今のTwitterを見れば一目瞭然だ。
日々作品やクリエイターに対する理不尽な要求や上から目線の批判ばかりだ。
しまいには差別的な嘲笑までしてしまう。

お前ら、本当にアニメ好きか?

そこに愛を感じられるか?
僕にはまったく感じられない。


オタク第二世代までは、アニメに対する滅私の精神、奉仕の精神があった。
クリエイターに対する皮肉や批判はもちろんあった。しかし少なくとも粘着してネチネチ叩くなんて心理は、まったくなかった。
作品やクリエイターに対する、無条件のリスペクトがあったからだ。

そして、アニメの歪さと、自分の精神の歪さにも自覚的であった。
ならばアニメとは一蓮托生、共闘の精神で、社会から隔絶された僕らの文化にこそ、俗世を糾弾し、真実を描き出せるチャンスがあるのだと、本気で考えていた。
それは正しく「カウンターカルチャー」だったのだ。

しかし、第三世代以降は、それがない。
ひたすら自分を護るだけで、アニメにおんぶにだっこ、「俺達豚を楽しませるのがお前らの使命だろががぁ!」と、耳を疑うような言葉で、業界を脅迫する。

それは確かに、間違いなく、「豚」の姿だ。
人間ではない。けだものだ。


ここでもう一度、「オタクという病」について考えるしかない。
アニメという奇形の表現が、そういう人間を招き寄せ、あるいは育て上げているのは明らかだ。自業自得だ。
しかし、だからこそ、アニメに関わる人間すべてが、自らの奇形さにもっと自覚的でなければならない。
冷静に分析すればする程、オタクの非社会性や、犯罪性までもが簡単に確認できるからだ。

巷で犯罪が起きる度に容疑者のオタク趣味が暴かれ、それに対し「犯罪とオタク文化を容易に結びつけるな!」と無様な反論が起きるが、いや、もう諦めようよ、原則、オタクは犯罪的なのだ。
歪な心性によって結びついたコミュニティが真っ先に疑われるのは、しょうがないことなのだ。


ならばせめて、己の醜さ、異常さの身代わり、人柱としてアニメを利用するのではなく、ひょんな縁でアニメと結びついたこの絆をもっと冷静に、できれば批判的に分析する必要があるのではないだろうか?
そして、自分にとってアニメとは何なのか?自分はアニメを愛しているのか?隠れ蓑みたいに利用しているだけじゃないのか?それだけは、最低限じっくり考えてほしい。


それができない限り、お前らごときにアニメが好きだとは決して言わせない。