数年前から中学校の体育の授業で、武道を教えることが始まりました。私は、武道必修化は「道徳」であると言ったことがあります。
武道未経験者の体育の先生に、1週間程度の講習で段位を付与し、子供たちに「受け身」ではなく、危険な「技」を教える。こんなものは、怪我をさせるための授業でしかありません。つまり、子供たちに「骨を折る痛み」を教える「こころの教育」なのです。
来年度から「道徳」の必修化が始まり、評価も行われます。
この世は自由で、欲望に充ちています。日本が民主主義で自由主義の国家だからです。これを変えることは出来ないし、自由である以上は多様な価値観が生まれます。いくら「こうでなくては」といっても、なかなかその通りにはなりません。
その「こうでなくては」を、国が決めて子供たちに教え、忠実に理解をしているか否かを「評価」するというのです。
こういうことをすると、国民や若い世代の「思想統制」とか「特定の価値観の刷り込み」が可能になってしまいかねません。
事実として、今回の検定に合格をした教科書を少し垣間見ていても、かなり国などの「思惑」が見え隠れしています。
「福祉や医療のボランティアは大切です」とか、人生の目標像としては、澤穂希さん、高橋尚子さん、羽生結弦、大谷翔平といったスポーツ選手ばかり。
スポーツをやる子供や若者が減少傾向にある中で、スポーツ選手を目標像として持ち上げる理由がよくわかりません。確かにボランティアや、夢とか目標を持って生きることは大切ですが、今は夢や目標を持つために「自分にはこれがある」というものをなかなか見つけられない子供が多いわけです。
そういう子供たちが、スポーツをやるわけでも好きでもないのに、スポーツ選手からなにを習得すればよいのかと思うし、どのようなものを目標像として、どう生きるかが「道徳」なのか?と詰問したくなります。
野球賭博や(現役ではないですが)清原の麻薬事件などがあった中で、野球選手を「道徳」で取り上げることが正しいのかという問題もあります。
ようするに、なにかが教科書の裏側で暗躍しているようで薄気味が悪いし、国や大きな組織などが「こうであれ」とか「好意持て」といって示すものに対して、芳しくないことをいうと悪い評価を付けられるから、素直で感受的であることを求められるわけです。
「こうであるべき」「好きなってもらいたい」というのも、実際にそうするか、好きになるかは本人の良心や自発性に基づくのであって、それを理解しているか、好感を持ったかを評価するというのは、明確に思想・信条の中に入り込んでいます。
スポーツ選手を理想像とするのであれば、体育の授業とくつけてしまえばいいではないですか。
こうした「思想教育」は、独裁国家や共産主義国家がやりたがることであって、日本のような民主主義・自由主義の国でやる国はほとんどないはずです。
共産党とて道徳教育なぞとはいわないのに、それを推進する安倍自民党政権は「共産党よりも共産党らしい政権」と改めて揶揄しなくてはなりません。
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