連続テレビ小説 制作者座談会
NHKの看板ドラマの枠は、どのように生まれ、時代とともにどう変化していったのか。歴代のディレクター、プロデューサーたちの座談会をお伝えします。
前編
『連続テレビ小説』(朝ドラ)、第1作は、1961(昭和36)年4月から1年間放送された『娘と私』です。朝8時40分から20分間、月曜から金曜の放送でした。第2作『あしたの風』から、現在と同じ朝8時15分から15分間、土曜まで週6日の帯番組になっています。
『娘と私』が始まったころ、朝の時間帯は“視聴率不毛地帯”と言われていました。テレビ放送開始(1953年)から4年余りの間、放送時間は昼と夜間のみで、朝にテレビを見る習慣がまだ広まっていなかったからです。
制作者たちは、主婦層をターゲットに、視聴習慣につなげる工夫を重ねました。朝の忙しい時間に家事をしながらでも、耳で聴いただけでストーリーがわかるよう「語り」を逐一入れたり、金曜・土曜に次週の展開に気を持たせる仕掛けをしたりしたのです。結果、年間の視聴率集計が始まった第4作『うず潮』のときには平均30.2%を獲得。さらに、第6作『おはなはん』では平均45.8%、最高56.4%を記録し、『朝ドラ』の人気を不動のものにしました。
参加者紹介
今回は連続テレビ小説を担当された方々です。
齊藤暁さん(ディレクター)
昭和33年入局。芸能局第二文芸部で連続テレビ小説『おはなはん』『あしたこそ』を演出。その後、大河ドラマ『春の坂道』『国盗り物語』『元禄太平記』『花神』の演出や、『草燃える』のチーフプロデューサー(CP)を務める。ドラマ部長、制作業務局長、専務理事・放送総局長を歴任。
齊藤暁さん(ディレクター)
小林由紀子さん(ディレクター)
昭和35年入局。芸能局テレビ文芸部で『お笑い三人組』のアシスタントディレクターやラジオドラマの演出などを経て、連続テレビ小説『おしん』『はね駒』や銀河テレビ小説『たけしくんハイ!』のCPを担当。ドラマ部長、番組制作局長を歴任。その後、フリーのドラマプロデューサー。
小林由紀子さん(ディレクター)
西村与志木さん(ディレクター)
昭和51年入局。高松局を経て、番組制作局ドラマ部で連続テレビ小説『澪つくし』や大河ドラマ『独眼竜政宗』を演出。ロサンゼルス特派員としてハリウッド映画の制作研修後、連続テレビ小説『かりん』や大河ドラマ『秀吉』CP、ドラマ部長を歴任。その後、『坂の上の雲』を統括。
西村与志木さん(ディレクター)
遠藤理史さん(司会)(ディレクター)
昭和62年入局。長崎局を経て、番組制作局ドラマ部で連続テレビ小説『あぐり』『ちゅらさん』、大河ドラマ『元禄繚乱』、ドラマ愛の詩『六番目の小夜子』を演出。大阪局で連続テレビ小説『風のハルカ』演出と『ちりとてちん』CPを担当。その後、ドラマ部でドラマ8、土曜ドラマなどのCPを担当。
遠藤理史さん(司会)(ディレクター)
“テレビ小説”の誕生
遠藤 『連続テレビ小説』(朝ドラ)が始まって半世紀になりますが、そもそも何でこういう放送枠ができたんでしょうか?
齊藤 昭和30年代の初め、ラジオで『朝の口笛』という朝の連続ドラマの枠を毎日15分、放送していました。それと、『朝の小説』という高見順や尾崎一雄の小説をそのまま朗読する5分間のラジオ番組もあって、テレビでも同様のものがあってもよいのではという発想で始まったんです。
小林 テレビでは『朝ドラ』の前に、NHK初の帯ドラマ『バス通り裏』(1958~1963年)を夜7時台の月曜から土曜まで放送していましたね。十朱幸代さんや岩下志麻さんらが出演して人気があったので、その朝版ということで始まったんですよ。
西村 新聞小説が毎朝連載されているのをヒントにして、テレビ版の連続小説を作ろうということになったとも聞いています。
小林 その「小説」っていうのが大事だったんですよね。朝の忙しい時間帯に放送するので、画面を見なくても、音声だけで話の筋が分かるよう、小説の地の文を生かして、心理や情景の描写をナレーションで説明する新しい演出手法が採られたわけです。
齊藤 『朝ドラ』のスタート当初はまだ、テレビ放送が始まって8年しかたっていなかったので、オリジナルでドラマを1年分書くことができる脚本家がほとんどいなかった。ですから、第1作の『娘と私』(1961年)は、もともと1958年にラジオドラマで放送したものでしたし、その後も、壺井栄の『あしたの風』(1962年)や武者小路実篤の『あかつき』(1963年)といった文芸作品をドラマ化していきました。
女性の一代記が確立
遠藤 『朝ドラ』というとまず、新人がヒロインを務める、女性の成長物語というイメージがありますね?
齊藤 最初のころは新人とは限りませんでした。話の中身も『娘と私』は父親と娘の物語で、その後も家族の物語が続きました。私が演出を担当した6作目の『おはなはん』(1966年)からですね、いまの『朝ドラ』の形ができたのは。
西村 『おはなはん』から、ヒロインが10代後半から50代、60代近くまで演じる女性の「一代記もの」のスタイルが確立したわけです。
齊藤 『おはなはん』は爆発的にヒットしましたが、番組の初めからその予感はありました。新人のヒロイン、樫山文枝さんの人気がすごくて、最初のロケの時にもう、黒山の人だかりでしたからね。そして、ちょうど時代ともマッチしていたと思うんです。昭和40年ごろっていうのは、女性の社会進出がだんだん多くなってきた時代です。ドラマの中でも、そうした若い女性が社会に出て男性に伍して頑張る姿に、「ヒロインを応援したい」っていう気持ちで見てもらえたんじゃないかな。
小林 少し先取りしていく感じもありましたよね。世の中よりも、このヒロインたちのほうがちょっと前に進んでいるという。
西村 やっぱり日本の高度成長の時代と重なったんですよ。東京や大阪に出て、どれだけ頑張れるか。でも、そのバックには故郷がある。あのころの地方と大都会の関係がそのまま『朝ドラ』に投影されていて、シンパシーを感じてもらったんでしょうね。「あっ、うちのお父さんやお母さんも東京に出てきた人だ」とか、「自分もそうだ」とかね。
戦争の記憶に共感
西村 それから、『朝ドラ』の一代記といえば、戦争の記憶ですね。視聴者の方々、特に女性は、戦争ですごく苦労をして、「ああ、私も戦時中や戦後、苦しい生活をしてきた」という共感をもって見てもらえた。そのピークが、小林さんがCP(チーフ・プロデューサー)をされた『おしん』(1983年)の大ヒットでしょう。
小林 橋田壽賀子さんの書かれた最初の脚本を当時の上司だった齊藤さんが読んで、「大ヒットする」と太鼓判を押していただきましたが、私は心配だったんです。貧乏過ぎて朝から見る話じゃないと思われるんじゃないかと。当時、放送総局長だった川口幹夫さん(後の会長)にも脚本を持って行ったんですが、「いいんじゃないの。これで行こうよ。明るく元気な女の子の話だけじゃつまらない。きちっとドラマらしいことやろう」と言って下さったのを覚えています。
西村 その『おしん』あたりを境に、だんだん視聴者が世代交代していって、戦争をはさんだ一代記がなかなかシンパシーを得にくくなってきましたね。そこで、比較的現代に近い半生記になりましたが、今度は昭和40年代や50年代といった大体同じような映像ばかりで、ダイナミックさに欠けるんです。それで、ちょうど平成の最初の年(1989年)に『青春家族』が出てきて、現代物に切り換えていく流れになったんです。
小林 そうそう、あそこですね。しかも、母と娘の2人ヒロインというやり方でね。
現代はドラマになりにくい
齊藤 21世紀の現代では、もう女性の社会進出は当たり前で、だから女性が頑張っているだけではなかなかドラマになりにくいですよね。
遠藤 そのことは、私がCPとして『ちりとてちん』(2007年)をやるとき、すごく思ったんです。昔の『朝ドラ』って、ヒロインが「働くぞ」って言っただけでドラマになるみたいな感じがあったじゃないですか。
小林 そうそう。働くっていうことがテーマだったところがありますよね。
遠藤 それが当たり前になると、今度はあまり女性が進出していない仕事を取り上げるようになりました。弁護士(1996年『ひまわり』)とか、大工(1998年『天うらら』)とか。ところが、そうした職業もだんだん数少なくなっていって、それで今は、等身大の女性の生き方を描くようになってきている感じがします。私が演出を担当した『ちゅらさん』(2001年)も、ヒロインは看護師になりましたが、話の中心は別で、あまり看護師という職業の印象はないと思いますね。
小林 女性の生き方自体が90年代あたりから21世紀になって随分変わっているじゃないですか。だからそれに合わせていくのは、順当だと思います。ただ、やっぱりあまりにも等身大すぎるっていう感じになってきた点が、私にはちょっと不満なんです。もうちょっと、物語性っていうのかな、フィクション性があるといいのになあって。何だかその辺のおねえちゃんがそのまんまやっているという感じで…。
遠藤 厳しいですね。
小林 その点、『ちりとてちん』は、そういう物語性がすごくあったと思いますよ。役者さんたちがちゃんと自分のキャラを作っているっていう感じがあったじゃないですか、ヒロインのお母ちゃんとか。
遠藤 あっ、ありがとうございます。
※NHKアーカイブスカフェ(No28、2009年1月)より転載、加筆、写真追加
中編
『連続テレビ小説』は、第14作の『鳩子の海』までは1年間の放送でしたが、脚本家や出演者、制作陣への負担が大きいといった理由で、1975(昭和50)年の第15作『水色の時』から半年間に改められました。そしてそれ以降、東京と大阪のドラマ制作チームが交互に制作することになったのです。ただし、テレビ放送30周年の『おしん』(1983年)、連続テレビ小説30周年の『君の名は』(1991年)、放送開始70周年の『春よ、来い』(1994年)という節目の作品は、1年間の放送でした。
こうした長丁場の番組制作を統括するのがチーフ・プロデューサー(CP)です。CPは、ドラマの放送が始まるおよそ1年半から2年前に指名されます。そこから、ドラマのテーマを探すため、時には街を歩きまわり、書き下ろしの小説を読みあさり、時には家庭や職場など身近な生活のひとコマからヒントを探るといいます。そして、脚本家とともにストーリーを組み立て、配役を決めていくのです。
撮影はドラマ放送開始の4か月余り前からスタート。毎週、リハーサル室で2日間の本読み(台本の読み合わせ、立ちげいこなど)の後、3日間のスタジオ収録に臨み、1週間で15分×6本分、計90分を撮りきっていきます。
演出・技術・美術のスタッフから出演者まで常時100人前後が動く『朝ドラ』全体を仕切るCP。座談会は、その苦労と面白さについて、歴代の担当者が語り合います。
ヒロインの成長を楽しむ
遠藤 『連続テレビ小説』(朝ドラ)のヒロインといえば、新人の女優さんが多いですよね?
齊藤 『おはなはん』(1966年)で樫山文枝さんを、次の『旅路』(1967年)で日色ともゑさんを抜擢したころから、「次も若い新人女優を」という流れになりましたね。成功のカギは、主婦層を中心にみんながヒロインを応援してくれるかどうかです。個性が出来上がっている女優なら、「私はこの人あまり好きじゃない」といった反応がありますが、新人の場合は真っ白ですから、そのフレッシュさで主婦層の支持を集めるのが、ポイントですね。
遠藤 昔は、ヒロインのお芝居がうまくなっていくのをいっしょに見るみたいな楽しみ方がありましたよね。
西村 沢口靖子さんが『澪つくし』(1985年)のヒロインになった時に、私たち演出(ディレクター)陣が、中村克史CP(チーフ・プロデューサー)に言ったことがあるんです。「彼女は相当ヘタですよ。大丈夫ですかね?」って。そうしたら、中村CPが「いや、いいんだよ。だんだんうまくなるのをお客さんが楽しんでいるんだから、最初からうまかったら客は付かないよ」と。多少は強がりもあったかもしれないけれど、ヒロインが毎日成長していくのを、視聴者のみなさんといっしょに見ていく。これも、『朝ドラ』のノウハウなんですね。
出演者とスタッフが家族になる
西村 『朝ドラ』っていうのは、制作スタッフにとっても“青春”なんです。ヒロインといっしょに成長する。
小林 確かに、スタッフと役者さんがだんだん家族になっていくっていう感じがありますね。その週の収録が終わるといっしょに飲みに行こうとか、カラオケやディスコに行こうとかっていうのが結構ありました。
齊藤 毎週ずっといっしょにやっていると、自然と家族的な雰囲気になりますね。それで周りの出演者もスタッフもみんながヒロインをサポートして。そういう雰囲気とか、人情の機微といったものが画面にも出てくるのが、『朝ドラ』の良いところですね。
小林 昔から、CPの登竜門でしたね。私も、CPになって2年目に『おしん』(1983年)を担当しました。
遠藤 そういえば、私も『ちりとてちん』(2007年)のCPが最初です。西村さんは、「君、朝ドラのCPだ」って言われた時、緊張しました?
西村 最初のころはそんなに大変だと思いませんでしたね。でもやっているうちに、気付くんです。何たって毎週15分×6日分、『大河ドラマ』の倍の90分というすごい量を撮っていくでしょう。脚本だって間に合わなくなりそうになるし、役者さんたち、特にヒロインの体調も気になるし、いろんなことがどんどん起こって、「これはとんでもないことだ」って分かってきますね。
小林 私の場合、『おしん』の主役の田中裕子さんが体調を崩して入院しちゃったことがあったんですよ。嫁と姑の大バトルが始まる「佐賀編」の直前でした。お医者さんから「1か月休ませて下さい」って言われて。代役を立てようかという話も出ましたが、私はスタジオに演出担当やカメラマンなど全員集めて「1か月、待ちます」って、宣言しました。
遠藤 それじゃその間、収録がストップしたんですか?
小林 完全に1か月お休みにしました。橋田壽賀子さんの脚本はほとんど全シーンに主役が出てくるので、他の部分は撮れないですよ。編成担当者には「すみません、ドラマを1週間休ませて下さい」って頼みました。代わりに、子役の小林綾子ちゃんが、おしんの故郷・山形を紹介するドキュメンタリー番組を作り、8月に1週間、放送したんです。その後、田中さんが復帰してからの4~5か月間は、撮影してはすぐに放送に出すっていう自転車操業でしたよ。
齊藤 ヒロインを支えながら、脚本家と半年、1年という長丁場を完走するっていうのが、CPの最大の役割ですからね。
綱渡りの脚本作り
齊藤 私が演出を担当した『おはなはん』は、脚本の小野田勇さんが遅筆な方で大変でした。撮影当日の昼になっても、夜の撮影分の脚本がまだ届かないということもあったんですよ。昼の部を撮っている間に、ようやく生原稿が届いて、本読みをやりながらカメラのカット割りをして、俳優さんはその場でセリフを覚えるという即興演出でしたね。
遠藤 脚本が届いたその日に撮るんですか!
齊藤 とにかく、その日のうちに撮ってしまわないと、放送に穴が開いてしまう状況でした。そういう綱渡りを結構しましたよ。制作現場は毎度、大騒ぎでしたね。
小林 私の場合、『おしん』は、脚本の橋田さんがどんどん書いていかれるから良かったけれど、『はね駒』(1986年)の時は本当に、半年以上、作家さんのところに“夜討ち朝駆け”の連続でした。
西村 私が『かりん』のCPだった時は、ストーリーを作っていくうちに話が足りなくなって、脚本家とキャッチボールしながら自分の手持ちのアイデアを全部出したんです。すると、交通整理されないままに次々と脚本になってしまうこともありました。いま振り返ると、もう少しちゃんと整理すれば良かったと思います。
小林 途中、思いつきでも行くしかないという時もありますよね。
ストーリー展開は柔軟に
西村 逆に言えば、『朝ドラ』はオリジナルの物語なので、放送を出してはその都度、視聴者の反応で脚本を変えることができるんです。ここが、歴史的事実がまずあって、基本的にストーリーが動かない『大河ドラマ』との一番の違いですね。
小林 そうそう。『はね駒』は当初、“女性初の新聞記者”という職業婦人物語でしたが、お母さん役の樹木希林さんの人気がやたら出たので、斉藤由貴さんとの母娘話を中心に据えるよう、脚本家と相談してストーリーを変えたんです。役者さんだって誰が輝くのか分からないでしょう。やりながら、ちょっとずつ配分を変えて作っていくのが、CPの醍醐味です。
西村 『かりん』でも当初、ヒロインは東京に出て成功して、そのままのはずでしたが、あまり面白くならないので、また長野に戻ってくるように変えたんです。
小林 それは予定外?
西村 全くの予定外。でも、そういう柔軟性って、意外とテレビには大事ですよね。まあ、今だから客観的に言えますが、当時は死にものぐるいでした(笑)。
心身搾りきってゴールする
齊藤 常に“今”を意識しながら作れるメリットが『朝ドラ』にはありますね。半年、1年かけて毎日表現する場って、他にはなかなかないですから。
西村 そのために、CPは全部搾りきって、本当に全力でやらないと、とても最後までゴールできないですね。最終回の収録が終わった瞬間は、本当にヒロインと抱き合って泣きたい気持ちになりましたよ。
小林 本当に身ぐるみ剥がされるっていう感じですよね。今の若い人たちも、もっと頑張ってほしいと思います。観ていると時折、「頑張ってないな、これ」っていうのが分かりますものね。
遠藤 …厳しいですね。
※NHKアーカイブスカフェ(No29、2009年2月)より転載、加筆、写真追加
後編
近年、マンネリ批判も出る中、テレビ界の“老舗”は、伝統を守るだけでなく、毎回、新しい挑戦をしています。
この10年、例えばヒロインの設定を見てみても、『ファイト』(2005年)で15歳のヒロインを登場させたり、逆に『芋たこなんきん』(2006年)でヒロイン37歳から物語を始めたり。伝統的なヒロイン像の殻を破り、ドラマの幅を広げる試みです。
また、『私の青空』(2000年)ではシングルマザーのヒロインを通じて家族のあり方を考え、『さくら』(2002年)ではハワイ生まれ・日系4世の“外国人”ヒロインの目を通して日本の文化や人情の素晴らしさを見つめ直しました。さらに、『私の青空』では『朝ドラ』史上初の続編を別のドラマ枠で放送。『ちゅらさん』(2001年)の続編はパート4まで作られ、視聴者のみなさんの声援に応えるとともに、半年間の放送枠を越えて新たな魅力を生み出す可能性を示しました。
看板番組『朝ドラ』の何を変えたらよいのか。そして、守っていくべきものは何なのか。後編の座談会をお読みください。
変化球でパターン打破を
遠藤 『連続テレビ小説』(朝ドラ)は、最近はよく、“大きな節目”とか“転機”とかって言われますね?
西村 大いなるマンネリなんて言われますが、それだけに現場では毎回、新しいものを作っていかなければっていう意識が強いですね。
遠藤 定番のヒロイン・オーディションについても、ドラマ部内では最近、「もうそろそろ、やめてもいいんじゃないか」「いや、やっぱり毎年やった方がいい」という議論が出ています。
小林 多くの新人女優を育て、その人たちが後々スターとして見事に育っていったことはNHKの誇りに思って良いと思います。1年、半年経験すると、彼女たちはびっくりするほど輝き、演技もうまくなっていきますから。
遠藤 局の看板番組で、視聴率も高いドラマの主役がオーディションで選ばれる。これは、若い役者さんたちにチャレンジする勇気を持ってもらえるし、我々制作者にとっては毎年多くの若手役者に出会える機会を作っているから、大変意味のあることですよね。
西村 でも、若いヒロインを選ぶと、ストーリーはどうしてもパターン化しますよね。そこで、私がドラマ部長だった時に1年間だけオーディションを止めてみたんです。それが、2006年前期の宮崎あおいさん主演『純情きらり』と、後期の藤山直美さん主演『芋たこなんきん』です。特に、藤山さんのヒロイン起用は、“変化球”勝負です。“直球”の新人ヒロインよりも、もう少し年上だったらストーリーの幅も広げられるとあえてトライしたんです。
小林 あれは良かったと思いますね。いつも若くて元気な女の子というイメージに制約されることはないし。
西村 ええ、それに直球ばかり投げていると、球筋を見抜かれる。すなわち、視聴者に飽きられちゃうと思うんです。もちろん、新人オーディション的な要素も大切ですよ。ただ、定式化しないで、いくつかの球種があれば、今までマンネリだと思われたことが逆にフレッシュに感じてもらえる。オーディションをやるにしても、例えば40歳ぐらいの人を選ぶ時があってもいいんじゃないですか。そこから新たな展開があると思いますよ。
どこまで冒険できるか
齊藤 確かにヒロイン像も、時には冒険をしていかないとね。今の時代に合わせて、例えば丸の内で働くバリバリのキャリアウーマンが出てきても、いいと思うんですよ。朝といえども、口当たりがいいだけじゃなくて、時代の感性に合った企画を考えないと。
小林 ただ、難しいのは、そのバリバリのキャリアウーマンを描くことに共感してくれる視聴者層が、朝、あるいは昼の放送時間帯にどれくらいいるか、ですね。もし、そこまでやるなら、『新・連続テレビ小説』とか、別のタイトルで、放送時間帯自体も考え直すぐらい思い切らないと。中途半端にやると、かえって、今『朝ドラ』を愛してくださっているターゲットと齟齬が生まれかねないですね。
遠藤 これまでも、男性の主人公だったり、シングルマザーだったり、いろいろなトライをしていますよね。でも、視聴者側の望んでいる範囲って、そんなには広くないという印象もあるじゃないですか。だから、その範囲はどこまでなんだろうと、いつも壁を叩きながら少しずつ広げている感じですね。それが、見ている側の意識も少しずつ動かしていると思います。
時代を読み、共感を得る
小林 私のときは、ヒロインの“時代の一歩先を行く”生き方だけじゃなく、“従来の価値観”とのバランスを意識しました。『はね駒』(1986年)ではこんなシーンを出したんです。斉藤由貴さん演じるヒロインのりんが女性初の新聞記者になって、「お給料をたくさんもらえるようになったから、3人の子育ても家事も、家政婦さんを雇ってやってもらいましょう」って言う。すると、樹木希林さん演じるお母さんが激怒して「母親が子どもの面倒を見なくてどうする」って懇々と説教して、りんは結局、子育てしながらパートタイムで働くんです。このシーンが放送されると、「そのセリフのコピーをください」「娘にそのまま言いたい」という電話やファックスがたくさん来ました。
西村 戦前、戦中世代の方々が共感してくれたんですね。
小林 ええ、当時は、“戦後の民主主義の価値観”と、“古き良き日本”みたいなことの両方をバランスよく描いて、初めて納得してもらえたんです。でも、先日、講演会でこのシーンを見てもらったら、「古い」って言われたんです。「お金で済むことならいいじゃないの」って。時代が変わると評価がころっと変わってしまうんですね。
遠藤 私が担当した『ちりとてちん』(2007年)では、ヒロインの性格をこれまでと違って「心配性でマイナス思考」に設定してみたんです。
齊藤 まぁ、『朝ドラ』のヒロインといえば、活発で、愛嬌があって、そして前向きに生きているというイメージですからね。
遠藤 でも、明るく迷いのない人生を送っている人なんて、たぶんほんのひと握りだと思うんですよ。そんなヒロインの活躍を見てスカッとするのもいいけれど、今の時代、ダメな女の子が懸命に頑張る姿に共感してもらえると思ったわけです。そんな彼女が、ドラマの最後、落語家として高座に上がるのをやめて、落語の常打小屋を支える裏方にまわる決断をするんです。いろいろな生き方、その人らしい輝き方があるって肯定的に伝えたかったからです。でも、放送後、ものすごい抗議が来たんですよ。「仕事を辞めるという選択が許せない」「NHKだから、そんな古い価値観を押しつけるのか」って。びっくりしました。新しい描き方に挑戦したのが、ちょっと、説明不足だったかもしれません。
ベースは地方と家族
齊藤 これからも『朝ドラ』は、常に新しい方向性を模索しなければならないでしょう。でも、「ヒロインを中心に、家族のあり方、家族の絆をきっちり描く」という基本は、ずっと守っていって欲しいですね。『つばさ』で、舞台となる地方が全国47都道府県を一巡しますよね。それぞれの地方ならではの絆の強さや、風景、方言も含めた地方色も『朝ドラ』の楽しみだし、それをベースに、日本の家族の姿をいろんな形で描き続けることが『朝ドラ』の原点なんじゃないかな。
西村 「巨人軍は永遠に不滅です」じゃないけれども、「朝ドラと大河は不滅です」ということですね。器は古くても中味を新しくしていくことで、その時代に受け入れてもらえるようにチャレンジするのが、私たちプロデューサーやディレクターの使命なんじゃないかな。
小林 そうですね。やっぱり一番大切なのは、制作者が的確に時代を読む、ということじゃないでしょうか。
遠藤 今回、お話をうかがって、『朝ドラ』がたくさんの人たちに愛され続けてきた理由が、改めてわかった気がします。これまで先輩方が受け継いできたバトンを預かりながら、冒険を恐れずに作り続けていきたいと思います。
※NHKアーカイブスカフェ(No.30、2009年3月)より転載、加筆、写真追加