悲劇の皇室一家の生き残りと名乗る人々
1613年に始まったロシア・ロマノフ王朝は、革命勃発により1917年に幕を閉じました。
そして翌年皇帝ニコライ二世とその家族が赤軍によって殺害されたため、ロマノフ家当主の血脈は途絶えました。
しかし、当時のソ連政府は皇帝一家殺害の事実が西側諸国の外交態度を硬化させることを恐れ、「皇帝一家は存命である」とウソの発表を続けました。
そのせいもあってか、わけのわからぬ人が大勢「私はロシア皇帝一家の一員だ」と主張することになってしまいました。
ロシア王族偽装の詐欺師は世界中に数え切れないほどいるのですが、有名な人物を8名ピックアップしてみます。
1. マルガ・ブッズ(1895-1976)
自分は皇女オリガ本人であると主張した女
自分を皇女オリガと自称したマルガ・ブッズの半生は定かではありません。
1926年にドイツ人の役人カルロ・ブッズと結婚したのですが、その時に彼女は彼に「これまで秘密にしていた事実」を伝えました。
「私は実は、ロシア皇女のオリガなの」
オリガはニコライ二世と妃アレクサンドラの長女。
そんな重要な女性と結婚したと知ったカルロ・ブッズはおったまげたことでしょう。
マルガが語るところによると、赤軍の銃撃により皇帝一家はほとんど死亡したが、私オリガだけは実は助かっており、コサック兵であるディミトリ. Kという男の助けでウラジオストクに逃げ、そこでドイツ人の将校に身柄を確保された後、しばらく中国を旅し、船でドイツに渡ったのだそうです。
マルガは叔父の皇帝ヴィルヘルム2世とは非常に懇意で、彼がもし自分と会えばすぐに分かるだろうと主張しました。しかし面会は叶わず1941年に皇帝も死亡し、過酷な第二次世界大戦も生き延びた後も彼女は自分はオリガであることを訴え続け、かつての思い出を本に記しました(出版はされなかった)。
1976年に死亡しましたが、墓には「オリガ・ニコラエヴナ」と掘られたそうです。徹底してますね…。
なお、ソ連崩壊後にエカテリンブルグで行われた発掘調査で、オリガの遺骨が発見され、マルガが詐欺師であったことが正式に判明しました。
てか、 全然似てないっすね…。
▽長女オリガ(15歳)
2. ラリッサ・チューダー(?-1926)
Photo from "Romanov conspiracy theories" Gill Paul
皇女タチアナであると噂された人物
ラリッサ・チューダーは、1923年にドイツ人のオーウェン・フレデリック・モートン・チューダーと結婚。平穏な結婚生活を送りました。
しかしわずか3年後、28歳の時に肺結核で亡くなりました。
死後、夫のチューダーには莫大な遺産が残されたため、驚いた近隣住民はラリッサの出自を疑い始めました。
そして、実はラリッサはロシア皇女でニコライ二世の次女タチアナなのではないか、と噂が立ち始めました。
ラリッサはタチアナに似ているし、事実ラリッサの墓石には「ラリッサ・フョードロヴナ」と記されていたのです(フョードロヴナは母アレクサンドラの姓)。
▽次女タチアナ(16歳)
彼女の死後から60年以上経ち、マイケル・オーショーという作家が「ラリッサ=タチアナ」説を主張する本を出版しましたが、タチアナの遺骨も発掘調査で発見されたため、誤りであることが証明されました。
3. アンナ・アンダーソン(1896-1984)
自ら四女アナスタシアであると主張した女
ロシア王族偽装者として最も名が知れているのが、ポーランド系アメリカ人のアンナ・アンダーソン。
彼女は若い頃に自殺未遂をして記憶喪失しており、1920年にベルリンの精神病院に入院していました。
当時はまだボリシェビキによって殺害されたロシア皇太子一家の安否は不明だったので、多くの人がニコライ二世の娘たちはどこかで生きていると信じていました。
ある時、病院の患者や関係者らが「実はアンナはアナスタシアではないのか?」と言い出しました。そう言われたアンナは、確かに自分はロシア皇帝の娘だったということを「思い出した」のでした。
▽皇女アナスタシア
「アナスタシアとアンナは見た目が似ている」のがその主な理由でしたが、どういうわけかアンナがロシア王室の諸々の知識を持ち合わせていたのも周囲の期待に拍車をかけました。
特に旧ロシア王室関係者の中には、アンナがアナスタシアだということを信じる者が多数おり、本人も自分がアナスタシアだということを死ぬまで主張し続けていました。
アンナは1968年にアメリカ国籍を取得し、アメリカ人ジャック・マナハンと結婚(彼はロシア皇女と結婚したオレはロシア皇帝だと主張していた)。
1984年に死亡するまで、自分はアナスタシアとして皇室支持者に昔の思い出を語ったりして、カネを受け取り暮らしました。
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4. ナデジュダ・ヴァシリイェヴァ(?-1971)
自らをアナスタシアであると主張した狂人
ナデジュダ・ヴァシリイェヴァの半生は定かではなく、本名もよく分かっていません。
1934年のある日、レニングラードの昇天教会に貧しい身なりの女が突如現れ、神父アタナシウスと司祭イワンシナイに対し「私は皇女アナスタシアだ」と告げました。
教会の者たちは驚き「確かにアナスタシアと似ている」ためこの話を信じ、彼女を教会に匿いました。彼女は神父らの尽力で「ナデジュダ・ヴァシリイェヴァ」という名前の偽造身分証を手に入れ、いくらかのお金を受け取ってヤルタに逃げました。
ところがヤルタで警察に見つかって逮捕され、カザフスタンに追放されました(神父たちも同時に捕まった)。
彼女を診断した医師は、パニック障害と誇大妄想癖を持つ精神病と診断し、彼女を刑務所病院に収監しました。
彼女は刑務所を脱出するため、イギリス国王ジョージ5世に「親愛なる従姉妹を助ける」ようドイツ語で手紙を書き、スウェーデン大使館のグレタ・ヤンセンに送付していました。
しかし願いは叶わず、ナデジュダ・ヴァシリイェヴァは1971年に刑務所病院内で死亡しました。
5. ナタリア・ペトロフナ・ビリホーゼ(1900-2000)
Photo from "Русская царевна" Билиходзе оказалась самозванкой" Lenta.ru
101歳まで生きた「アナスタシア 」
ジョージア(グルジア)の女性ナタリア・ペトロフナ・ビリホーゼは長年、自ら赤軍の銃撃を生き延びたニコライ二世の四女アナスタシアであると主張していました。
ジョージアのナタリアの支持者は、彼女こそロマノフ王朝の正当な皇位継承者であり、ロマノフ家の遺産のすべては彼女に受け継がれるべきだと主張しました。ここら辺でもうきな臭いっすね…。
2000年に101歳でナタリアは死亡。その後エカテリンブルグで発掘された遺骨の調査の結果、アナスタシアの骨であると確認されたため、正式にナタリアは詐欺師であったことが証明されました。
6. ミハウ・ゴレニフスキー(1922-1993)
長男アレクセイであると主張したポーランドの三重スパイ
ミハウ・ゴレニフスキーはポーランド出身のスパイで、軍事諜報部GZI WPの副議長を務めた後に、ポーランド諜報機関の技術・科学部門のヘッドを務めました。
1950年からはソ連諜報機関KGBのためにも働き、1948年から1952年まで元ナチス高官を尋問する立場にありました。
その一方で彼は西側諸国の諜報機関にも通じ、アメリカCIAやイギリスM15に東側の情報を流していたためいわゆる「三重スパイ」でした。
1961年、ゴレニフスキーはアメリカに亡命。
すると突然、彼は自分は実は皇子アレクセイであり、 兄弟たちは実は生きていて、ヨーロッパのどこかに隠れていると主張し始めました。
▽長男アレクセイ(14歳)
ゴレニフスキー はアレクセイと18歳も年が離れており、しかもアレクセイは重い血友病であることは有名でしたが、ゴレニフスキーはいたって健康。
にも関わらず、ゴレニフスキーは死ぬまで自分はアレクセイであると主張し続けました。
7. ヘイノ・タメット(?-1977)
カナダに移住した長男アレクセイの伝説
カナダのジャーナリスト、ジョン・ケンドリックによると、1977年にカナダのバンクーバーで死亡したヘイノ・タメットという男は、ニコライ二世の長男アレクセイであったそうです。
ジョン・ケンドリックによると、赤軍によって銃撃された皇帝一家の遺骸は船に乗せられてエストニアに運ばれ、農夫のヨハン・ベルマンという男に処分が命令された。しかし、ベルマンはアレクセイがまだ息があることに気づき、妻ポーラに頼んで密かに家に匿った。ベルマン家では数ヶ月前にエルンストという名の幼児が腸チフスで亡くなっており、ポーラはアレクセイをエルンストの戸籍に移し変え養育し始めた。
エルンストの名を変えたアレクセイは新聞記者として働き始め、1937年にヘイノ・タメットという名前を名乗り始め、1944年にスウェーデンに移住し、1952年にカナダのトロントに移住。何度かの結婚を経て、1972年に生涯の妻と巡り会い結婚し、1977年に他界。
死の間際に、これらの逸話をジョン・ケンドリックに密かに話してくれたそうです。
8. アナトリー・イオノフ(1936-)
アナスタシアの息子と主張する男
アナトリー・イオノフは2018年現在存命の人物で、自らをニコライ二世の四女アナスタシアの息子であると主張しています。
彼によると、四女アナスタシアと長男アレクセイは1918年に殺害されずに生き延び、アレクサンドル・コルチャークの白軍に保護されてシベリアへと逃げた。アレクセイは病弱だったため、すぐに亡くなってしまった。
白軍崩壊後、アナスタシアは赤軍司令官セミョーン・ブジョーンヌイの妻クセニア・カレトニコワに秘密裏に引き渡され、アナスタシア・カレトニコワと名乗るようになった。アナスタシアはその後、ウラジミール・イオノフという男と結婚し、一男一女を儲けた。
そのためアナトリー・イオノフは自分こそロマノフ王朝の正当な皇位継承者であると主張しています。
まとめ
こういう人たちを見ると、伝説とか神話などはこういうトンチキ話から生まれてくるのだろうかと疑心暗鬼にかられてしまいます。実際、面白いのがやっかいです。
幸いなことに現代は科学の力があるので、こういった連中の話は嘘八百であると証明できますが、昔はどうやって彼らの主張を退くことができたでしょうか。
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参考サイト
"6 People Who Claimed to Have Been Romanovs" MENTAL FROSS
"Pseudo-Anastasia comes to Moscow with 1 trillion dollars and distemper" PRAVDA
Иванова-Васильева, Надежда Владимировна — Википедия
"The last 'real' Anastasia is showing her age at 101" The Telegraph