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私がサーモンのマリネに舌鼓を打っていると、背中をチョンチョンとつつかれた。
「麗華お姉さん」
「雪野君!」
振り向くと、相変わらず天使のような雪野君が笑顔で立っていた。
久しぶりだね~、雪野君!最近なにかと忙しくてプティに顔を出せなかったので、雪野君とも全然会えていなかったんだ。
「隣に座ってもいいですか?」
「もちろんよ、雪野君。元気だったかしら?」
「はい」
雪野君がちょこんと隣に座った。
「でも麗華お姉さんに会えなくて、寂しかったです…」
ぐはっ!なんという破壊力!麻央ちゃんといい、プティは小悪魔の巣窟か?!ううっ、頭ナデナデしたい!
「私も寂しかったわ、雪野君!」
私も心の底からそう言うと、雪野君がニコーッと笑ってくれた。ぐおっ!幻の鼻血が!
「忙しかったんですか?」
「うん、そうなの」
新学期が始まって、クラス委員の仕事に新入生の部活見学に厄介な弟子の恋愛相談と、本当に忙しい。特にあの新参弟子が…。
「雪野君は2年生になってどう?」
「う~ん、まだよくわかりません。でもクラスに新しい友達もできましたよ?」
「まぁ、そうなの。良かったわねぇ。どんなお友達?」
「星が好きな子です。僕も星を観るのが大好きだから星の話をしています」
「まぁ、雪野君は星が好きなの?」
雪野君と夜空の星。なんて似合う!まさに星の王子様ね!
「はいっ。望遠鏡で観察もしてるんです。流星群の時には、夜更かししちゃダメって言われてるんですけど、どうしても観たくてこっそり夜中に起きて観てました」
「あら、夜遅くまで起きてて体は大丈夫なの?風邪を引いたりしなかった?発作は?」
「ふふっ、大丈夫です。部屋でひとりで観てたんですけど、兄様にはバレてたみたいで、あったかいココアを持ってきてくれました」
「まぁ!」
あの腹黒め、たまにはいいことするじゃないか。
「それでね、兄様と一緒にそのまま流星群を観ていたんですけど、僕ったら気がついたら寝ちゃってて。朝になったらベッドにいました」
えへへと恥ずかしそうに笑う雪野君が可愛い!
その後も、雪野君と楽しくおしゃべりしたり、ほかの子供達と戯れたりしている内に、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまった。
子供達は帰る時間なので、私もそろそろお暇しないと…。すると雪野君が私の袖をキュッと引っ張った。
「ねぇ、麗華お姉さん、僕の家の車で一緒に帰ろ?」
「えっ?!」
いや、それはさすがに…。一応私の家の車が迎えにくる予定だし、それがなくてもひとりで帰れるし…。円城家の車に送ってもらうってのはちょっと…。
「だってずっと会いたかったんだもん。もっとお話ししたい!ダメですか…?」
「ぐっ…!」
そんな可愛いことを言われたら…っ!私だって可愛い雪野君に会いたかったよ。それにもっと一緒にいたいけどさぁ…。ううっ、そんな目で見られると…。ダメだ、つぶらなお目々で見上げないでぇ…。
「う…ん。じゃあ送ってもらっちゃおうかな…?」
「わぁ!」
負けた。天使のうるうるお目々に完敗だ。しょうがない、送ってもらうだけだし、あとで円城家にはお礼を言えばいいか。
「雪野君、お迎えが来たわよ」
「はぁい」
雪野君に手を引かれて一緒に玄関に行くと、そこに立っていたのは円城だった──。
「げ…」
思わず心の声が洩れてしまった。わざわざ円城が弟の迎えにきたのか。最近円城も忙しそうだったのに。
「やぁ、吉祥院さん。こんばんは」
「ごきげんよう、円城様…」
外灯で髪をキラキラ輝かせ、王子度をアップさせた円城がにっこり微笑んだ。
「兄様、麗華お姉さんも家の車で一緒に帰ってくれるんだよ!」
「えっ」
「いえ、それは…。雪野君、私はやっぱり…」
「麗華お姉さん?」
うおお~っ!天使の顔に、約束したよね?って書いてある~っ!やっぱりやめたって言える空気じゃない~!
「麗華お姉さん?」
「あ~、うん。そう、ね?」
私がしどろもどろしている間に、円城が状況を把握した。
「そうなんだ。じゃあ乗って?吉祥院さんの家まででいいのかな?」
「…よろしくお願いいたします」
そうして私は円城家の車に乗せてもらうことになった。後部座席に私、雪野君、円城の順で。乗り込んだ瞬間、ふわりと甘い香りがした。
「誕生会は楽しかった?」
「うん」
雪野君は円城に返事をすると、隣の私に向かって「まだスピカは見えないね。今日は雲がないから春の大三角がきっときれいに見えるよ」と窓を指差して言った。
「あぁ、星の話?」
「ええ。雪野君は星に詳しいんですね」
「うん。夜更かしばかりして困ってるんだ」
円城の言葉に雪野君は、「毎日じゃないもん」と言い返した。
「春休みに軽井沢に行った時も、夜に星ばかり観ていたから朝全然起きられなかったんだろう?」
「だって、空気が澄んでたから凄くきれいだったんだもん…」
あらら。雪野君は味方が欲しいと私の腕にくっついて、「東京で見えない星もよ~く見えるの」と訴えてきた。うんうん、わかるよ。空が近いよね。
我慢しきれず、私は雪野君の頭を撫でてしまった。髪、柔らか~い。雪野君はくすぐったそうな顔をして笑った。
「ねぇ、麗華お姉さん!一緒にごはん食べて帰ろ!」
「えぇ?!」
突然どうした、雪野君。
「ごはん?」
「うん。僕、麗華お姉さんと兄様とごはんを食べに行きたい」
雪野君は、私と円城に「ね、いいでしょう?」とおねだりをした。
「え、でもついさっきまで麻央ちゃんのお家でごちそうになっていたばかりですし…」
たらふくいただいちゃったから、全然おなかすいてないよ?
「でもぉ」
「こら、雪野。あんまり我がままばかり言うんじゃない」
円城が雪野君の頭に手を乗せ諌めると、雪野君はしょぼんとしてしまった。うわ~っ、罪悪感。どうしよう、困った…。雪野く~ん、お顔上げて?円城め、少し言い方がきつかったんじゃない?雪野く~ん。心の中で呼びかけても反応なし。
下を向いちゃった雪野君の頭ごしに円城をちらっと見ると、円城も困ったような笑顔を返してきた。どうする?
「吉祥院さん、このあと予定ある?」
「え」
「ごめんね。もう少しだけ弟に付き合ってもらえないかな?カフェでお茶を飲む程度の時間でいいんだけど…」
「あ~…はい。それくらいならお付き合いさせていただきます」
私の是の言葉に雪野君はパッと顔を上げた。
「本当?!」
「ええ」
「わぁ、嬉しい!ありがとう、麗華お姉さん!」
雪野君は私の腕にぺったりしがみついて喜んだ。もうっ、天使ちゃん可愛いぞっ!
私達はレストランが併設されているカフェに入った。
「僕アップルレモネード。麗華お姉さんは?」
「う~ん、どれにしようかしら」
せっかくカフェに来たのなら、普段飲まないような変わったものが飲みたいなぁ。あら、ケーキの種類が豊富ね。いかん!狸の呪いが…!
「ラベンダーティーにしますわ」
「僕はダージリンで」
私と雪野君は注文を終えたあとも、メニューを見ながらこのケーキがおいしそうなどとおしゃべりをした。今度ケーキセットを食べに誰か誘ってみようかな。
「雪野君もわりとスイーツが好きよね?」
「はい。でも兄様はあまり食べないよね?」
黙ってお茶を飲んでいた円城は、「そうだね」と軽く頷いた。
「甘いものはお嫌いなのですか?」
「嫌いってわけじゃないけどね。自分から進んで食べようとは思わないかな」
確かにサロンでも鏑木はお菓子をよく食べているけど、円城が食べているのはたまにしか見たことがないな。それもちょっとだけ。
雪野君と私は「おいしいのにね~」「ね~」と言い合った。そんな私達に円城は苦笑いした。
「そういえば雅哉にいいアドバイスをしたんだってね。女の子へのプレゼントが参考書って、吉祥院さんしか思いつかないよ。実用的すぎて恋愛に結びつかない気がするけど」
げっ!その話を今する?!なんか意味ありげな顔でこっち見て笑ってるし!参考書の話を聞いたなら、昨日のことも聞いてるんじゃないの?!
「…鏑木様、今日なにか言ってましたか?」
「なにかって?」
だからたとえば、私に酷いことを言われたとか、傷ついたとか。あっ!この俺に無礼を働き許さん!とかだったらどうしよう!
「特になにも言ってなかったよ」
「そうですか」
なんだ。あの時相当ショックを受けているように見えたから、今日も引き摺っているかと思ったけど、私のほうが気にしすぎだったか。良かった~。
「でも今日は少しおとなしかったかな」
「えっ…!」
やっぱり…!まだ落ち込んでるのか?!そこまで傷つけちゃったか?!言い過ぎちゃったよなぁ。別に鏑木に悪気はなく、ただ単純バカだからってだけだったんだし。う~ん…。
あぁ、雪野君が「なになに~?」と無邪気な笑顔で問うてくる姿に、胸が痛い…。
「ふっ…。吉祥院さんって本当にお人好しだよねぇ。ほら、ケーキ注文する?」
「結構です…」
なにそれ。食べ物与えておけばご機嫌になると思ったら大間違いだぞ。私はそんなに単純ではない。だいたい、フォローすべき親友の円城が、さっさと帰っちゃったのが悪い!そうだ。そういうことにしておこう。
話し合いかぁ。鏑木はいったいどんな結論を出したんだろう。明日が怖いなぁ。また新たな詩人にはまってたらどうしよう。あぁ、あの倉に封印してあるハイネの詩集もどうにかしないと。あれが私の恋愛運を下げている呪物な気がする…。
「麗華お姉さん、そのお茶おいしいですか?」
「そうねぇ、おいしいわよ?」
でもハーブティーって3割…4割くらいは味より雰囲気だよね?
「僕も一口飲んでみたいな?」
「いいわよ?どうぞ」
私がテーブルのラベンダーティーを雪野君の前に滑らせると、雪野君はわくわくした表情でそれを飲んだ。そして眉が下がった。
「どう?」
「えっと…ありがとうございます」
雪野君はそっと私の元にカップを戻した。どうやらお口に合わなかったようだ。
「ねぇねぇ、麗華お姉さん。また僕の家に遊びに来て?」
「えっ?!」
「だって僕の誕生日に一緒に遊んでくれたのがとっても楽しかったんだもん。またゲームをして遊んで?」
「そうねぇ…」
円城家に行くのは遠慮したいなぁ。でも雪野君のお願いだし…。あ、だったらプティのサロンで遊べばいいんじゃないかな?うん、そうしよう。
「ゲームかぁ。あれは面白かったね。雅哉がボロ負けで」
円城がさりげなく酷いことを言いながら話に入ってきた。
「雅哉兄様、最後借金まみれだったね。約束手形しか残ってなかった」
「しかも大家族。雅哉がおんぶ紐してベビーカー押しながら子供達をあやしている姿を想像してごらん」
「ぷっ」
「あはは」
瑞鸞の皇帝が赤ちゃんおんぶしてガラガラ持ってあやしている姿を想像したら、吹き出してしまった。似合わな~い!
「でも案外似合うかもよ。雪野が生まれた時にはよく寝ている雪野にちょっかい出して泣かせたり、雪野を抱っこするために無理やりベビーベッドから出そうとしたりして、周りを慌てさせたりしたこともあったしね」
「まぁ、そんなことがあったのですか?」
「うん。僕の家にいる時は、たいてい雪野を膝に抱っこしてたなぁ。最初は落としそうになって危なっかしかったけど、コツをつかんだら抱っこも堂にいったものだったよ。雪野のためにピアノで子守唄を弾いたもしてたなぁ。でも雪野は全然寝なかったけど」
「僕、覚えてない」
「そりゃそうだよ。雪野は赤ちゃんだったんだから」
へぇ。鏑木って子供好きなんだ。そういえばプティや雪野君の誕生日パーティーでも子供達とよく遊んであげてたな。精神年齢が近いからだな、きっと。
それから雪野君の可愛い赤ちゃん時代の話で3人で盛り上がっていたら、円城の携帯が鳴った。画面を確認した円城から、さっきまでの笑顔が消えた。
そして円城は私達のほうを見ると、「さて、そろそろ帰ろうか」と言った。
「え~っ」
「雪野。もう時間も遅いよ」
「……わかった。麗華お姉さん、また今度一緒に来てくれる?」
「ええ、もちろん。今度はケーキも食べましょう」
「うん!」
私は雪野君と手を繋いで車に乗り、家まで送ってもらった。