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「あー、やっと落ちた…」
指に付いた赤マジックをなんとか落とした鏑木が、小会議室に戻ってきた。
「強く洗いすぎて手が乾燥した。吉祥院、ハンドクリーム持ってるか」
手のかかる坊ちゃんだな~、全く。私はカバンからハンドクリームを出して貸してやった。鏑木はハンドクリームを手に擦り込み、気になる乾燥が解消されると満足気な顔をして商品名を確かめていた。気に入ったらしい。それ日本未発売だから。あげないよ。返して。
「それで、これからのことについてだが」
これからのこと?あぁ、若葉ちゃんとの恋の成就のお手伝いね。私としては、鏑木が私を若葉ちゃんいじめの犯人だと思っていないってことを確認できて、さらに吉祥院家に手を出さないという念書ももらったから、あとはお好きにどうぞって感じなんですけどね~。
「これからですか~」
ついでに私もハンドクリームを塗り塗り。爪にもしっかり塗りこまないとね。ちょっと指先が乾燥しているかなぁ。帰ったらネイルオイルを爪に塗っておかなくちゃ。
「おい、なんだよその気のない返事は。しっかりしてくれよ。恋愛成就の髪様なんだろ?数々の恋愛を纏めてきたという」
「私は神様になった覚えはないんですが…」
それに数々って誰のことさ。委員長も岩室君も、まだ片思いの段階だと思うぞ。そういえば桜ちゃんは秋澤君とバレンタイン以降どうなったのかしら。あとで連絡しよっと。
「おい、吉祥院。俺の話ちゃんと聞いてるか?」
「もちろん、聞いていますわ」
鏑木が物凄~く疑わしい目で私を見てきた。そんなに私の、どうでもいいって気持ちが態度に出ていたかしら?あ、もしかして怒ってる?まずい…。
私が慌てて「これからのことについてですわよね?さ、続きをどうぞ」と、取り繕うように促すと、鏑木はしばらく私を胡散臭げに見た後、諦めたようにため息をついて話し始めた。
「吉祥院はさ、俺の好きな相手が誰か、知っているか…?」
「高道さんですわよね?」
私が当然のように答えると、鏑木はギョッとした表情をしてから「やっぱり吉祥院は気づいていたか…」と呟いた。やっぱり吉祥院は…?
「あの…、私だけではなく、たぶん、ほとんどの生徒が知っているのでは?」
「えっ…!」
私の言葉になぜか鏑木が驚いた。そりゃあ、あれだけ態度に出されりゃ誰だって気づくでしょうよ。まさか本人は、隠しているつもりだったとか?!
「普段女子生徒と必要最低限にしか口を利かない鏑木様が、高道さんにだけ熱心に声を掛けているんですから、わかりますって」
鏑木は口元を押さえながら、「そうか、そうだよなぁ…」と言った。
「あれで隠しているつもりだったのですか?」
「いや、特に隠すつもりはなかったんだが、そうはっきり言われると…」
恥ずかしかったらしい。しかし若葉ちゃんの立場を慮れば、むしろしっかり隠せよ。
「高道さんが嫌がらせを受けている一因は、鏑木様にかまわれているという女子のやっかみもあるのですが」
私がそう言うと、鏑木は途端に厳しい表情に変わった。
「俺のせいか…」
「まぁ、それだけではありませんけど」
一般家庭の出身の外部生で、見た目は愛嬌はあるけど、ちょっぴりおとぼけ風味で決してお嬢様にも才女には見えない若葉ちゃん。そんな普通の子が、瑞鸞の輝かしき象徴として君臨している鏑木達を成績で脅かす。瑞鸞ブランドを大事にしている内部生には、若葉ちゃんの存在が気に食わなくてしょうがないって人も多い。
「昨日の犯人に心当たりはあるか?」
「わかりませんわ…」
昨日のことは学院側も知ることとなったので、調べているようだけど。
「学院の調査はどうなっているのでしょう?」
「あいつらは本気で犯人を突き止めようなどとはしていない。事を荒立たせないように、すべてを曖昧にしようとしている」
鏑木が悔しそうな顔をした。
まぁ、学院側としては、万が一藪をつついて、とんでもない大蛇が出てきたら困るものね。たとえばピヴォワーヌメンバーとか。過去にもピヴォワーヌが生徒を退学に追いやったなんて話もあるから、ありえない話じゃない。ピヴォワーヌを糾弾すれば、歴代のOBOGが黙ってはいないだろう。被害者は力のない外部生だし、保身を考えれば穏便にお茶を濁そうと考えるか…。
「俺も個人的に犯人捜しをしているけど、まだわからない」
「そうですか」
若葉ちゃんの机に落書きをしたりしている人と、昨日の犯人が同一人物とは限らないしねー。
しかし昨日のことに関しては、私をまだ疑っている人達もいるはずだ。これはどうにかしないとな。まずは蔓花さん達が自分達がやった嫌がらせを、私のせいにしていると噂を流そう。望田さんの告発もあったし、蔓花さん達がいじめの常習だとみんなも思っているのですぐに信じるだろう。麗華様はいわれなき罪をかぶせられた哀れな被害者。よし、これでいこう。そのあとで、真犯人を捜し出す!
「高道を助けるには、どうしたらいいかな」
「高道さんのことを考えれば、鏑木様が今後一切高道さんに関わらないのが一番なんですけどねぇ」
「おいっ!」
愛する人のために身を引くという選択は鏑木には…うん、その顔からだとなさそうだね。
「卑怯な連中に対し、俺に屈しろと言うのか!」
「そういうわけでは…」
「俺はそんな妨害には決して負けない。高道を守ってみせる。俺は諦めないぞ!」
「そうですか…」
なんか変なスイッチ入っちゃったかも。面倒くさい。
ひとりで熱くなっていた鏑木が、「ん?」と言ってポケットから携帯を取り出した。
「あぁ、秀介からどこにいるんだってメールだ。サロンで俺達が今日はこないのかって話題になっているらしい」
ちょうどいい。やっと帰れる。
「では続きはまた今度ということで。私はこのまま帰りますが、鏑木様はサロンに寄られますよね?嫌がらせの犯人については、私も女子の間から情報を集めてみますから」
「そうか?嫌がらせについてはそれでいいとして、まだ肝心の恋愛の相談が全くされていないんだが。あぁ、でももうこんな時間か。わかった、今日はこれまでにしよう」
「ええ。では私はお先に」
ヤツが余計なことに気づく前に、私はカバンを持って急いで小会議室を出ようとしたが、「ちょっと待て」と引き止められた。
「そうだ、吉祥院。これからのことも考えて、アドレスを教えろ」
げ!
「私、携帯は…」
「持っていないとか言うなよ。もうその手は通じないからな。さっさと寄こせ」
げーっ!
私は渋々携帯を出した。できればアドレス交換はしたくなかったんだけどなぁ…。メールが着ても、充電が切れていましたで逃げ切れないかな。
小会議室を出た途端に、鏑木から確認の空メールが送られてきた。返信をしなかったら5分ごとに空メールが届いた。アドレス変えたーい!