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2012年2月10日 (金)

勝手に解釈 映画「スタンド・バイ・ミー」【ネタバレ】

今更ですが、あまりにも有名なミドルスクール進学を前した男の子4人によるロードムービー。
あまりストーリーの解説は不要だと思われます。

主人公のコーディーは作家。彼はクリスという幼なじみの悲報を告げる新聞記事を目にし、ある地を訪れていた。それは彼にとってクリスとの忘れられない旅をした場所だったのです。

その旅は友人4人で行ったのでしたが、ことの始まりは友人4人の内の一人であるバーンが自分の宝物の在り処を描いた地図を母親に捨てられてしまい。その宝物の在り処を探しているところへバーンの兄が友人にブルーベリーを摘みに行ったブラワーという少年が汽車に撥ねられ、ハーロウにその死体があるということを話、それを盗み聞きしたバーンが他の3人、主人公のゴーディ、ガキ大将肌のクリス、戦争好きのテディとともに死体を見にいくというストーリー。

「生」の反対側にある「死」の世界への旅
バーンからその話を聞いたゴーディを除く他の2人は死体に興味を持ち、また発見者として新聞やテレビに出れると胸躍らせました。しかし主人公のゴーディだけはあまり死体には興味がなかったのです。なぜなら彼の兄は4ヶ月前に交通事故で無くなったばかりだったからです。
彼の兄はフットボールの名プレイヤーで大学からのスカウトが期待されていた父の自慢の息子でした。ゴーディはその兄から可愛がられていて、父親は兄が亡くなり落胆し、そして父親はゴーディにこう言ったのです。
「お前が変わりに死ねばよかった」と。
つまりクリス、テディ、バーンは「死」という彼岸を見に行く、
そしてゴーディは彼らとは対極に一人いるということになります。

銃を持ってきてしまうクリス
旅立ちのために再会したゴーディとクリス、クリスは人目の付かない場所へクリスを誘い父親の目を盗んで持ってきた銃をゴーディに見せるのです。ゴーディはクリスに「弾は入っていないんだろう?」と確認し引き金を引いたのですが、そうしたら銃が火を放ち驚いた二人、そして近くのレストランの従業員が「また、かんしゃく玉遊びをして」と飛び出してきたのです。
かんしゃく玉は英語でCherry bomb、Cherryは童貞という意味もあるから童貞の爆発と解釈できます。
クリスはゴーディに弾が入っていることは知らなかったと釈明しますが、これはある意味既にクリスには生殖能力があるという比喩なのかもしれません。

「橋」という通過儀礼の関門
バーンは橋を上手く歩けません。それはバーンだけこの通過儀礼の関門に不必要な物をもっているからです。それは「櫛」という虚栄心
バーンは死体の発見者としてTVや新聞に自分の姿が掲載されることを見込んでヘアースタイルに気を配ろうと櫛を持参していました。
しかし通過儀礼の関門である「橋」はそんなもの持っていることを許しません。あくまで12歳という精神年齢のその素の状態だけが通ることができる「橋」なのです。
バーンは他の3人に比べて精神的に発達が遅れています。ですから列車に轢かれそうになり、ゴーディにせっつかれて間一髪で橋を渡ることができたのです。

野営時に語られたゴーディの話
太っちょのデビーホーガンは町に住人から毎日からかわれていました。ある日パイの早食い競争に参加することになったホーガンは、これを皆に仕返しをする絶好のチャンスだと思い大会の始まる直前にヒマシ油を一気飲み。ホーガンは大会途中に思いっきり吐いてしまいました。これを見た他の参加者や観衆がもらいゲロをしてしまう。
という話なのですが、この話、何を意味しているかというとホーガンは毎日皆から態度や言葉による暴力を受けていていて、その鬱積を皆の前で思いっきりぶちまけ、それを見た他の人々、例えば旦那は妻に、双子の兄弟はお互いに、婦人会は男共に普段の鬱積をぶちまけ合うという話です。
父親に普段から兄と比較されディスカウントされているゴーディーの鬱積する心の内がよく表れているエピソードだといえます。

車と徒歩
ゴーディら4人は徒歩、そしてエースらの不良グループは車でそれぞれハーロウに向かうわけですが、この車でというのをどう見るか?だと思います。ここで様々な解釈があると思われますが、僕は「車=器」と見ています。「器」というと母胎、子宮です。つまりエースらは粋がっていますが、親離れ出来てはいないのでは?と思ってしまうのです。車で走りながら野球のバットで他の家の郵便受けを壊していくのですが、飽くまで車の中からそういった破壊行動に出ています。バットは男性器という意味合いも考えると、エースらは母親にすがりながら威力行動に出ているということになり、それではまるで子供です。
一方、ゴーディらは自分の足で向かって行くので、エースらより自立の道を進んでいると言えます。

ゴーディは女性っぽい
男らしいクリスと一緒にいるからかゴーディは妙に女性っぽい。まるでクリスのガールフレンド的な立ち位置なのです。そのゴーディが沼に入った時、ヒルがパンツの中に入り込みます。それを取り出したときゴーディの手に血がついていたのですが、これは女性で言えば初潮に見えます。ゴーディは自分の手に血がついているのを見て気絶してしまいますが…。
やはり冒頭で述べましたが、ゴーディと他の3人と違うのは人間の「死」というものを見に行くにあたってゴーディは兄の死で既に「死」というものを十分に解っていたと思います。自分を可愛がってくれていた兄、その兄が死に、父親は落胆しゴーディに辛くあたります。そこでゴーディは心の拠り所を無くし、挙句の果てにはエースに兄の形見である野球帽を取られてしまって、ゴーディはフットボールの名プレイヤーの兄の弟ではなくなってしまい、心的に追い詰められていたのではないでしょうか?
そこで、兄が居なくなることでゴーディの男性でも女性でもない中性的な性質が浮き彫りになったということを監督は表現しようとしてゴーディは女性っぽく見せるようにしたのではないか?と思います。
そのゴーディは、クリスら3人が寝ている間に線路脇で鹿と出会います。

鹿は再生の象徴(「シンボルの謎バイブル」ガイアブックス)であり、キリスト教では、鹿は泉を求めて、生命の泉にいたる魂を表しています。(「イメージシンボル事典」大修館書店)
ということはゴーディは兄の死で失意のうちに「死」という彼岸への旅に出ることで新たな魂と出会い、心的に再生したのではないでしょうか?「兄の弟のゴーディ」から「一人の精神的に自立したゴーディ」へと。
ゴーディは、ゴーディに比べて男らしいクリスに進学コースに行くようアドバイスをします。クリスと共に未来を歩もうとするゴーディの自信の表れだと思います。

そしてこの映画のクライマックスでゴーディはエースら不良グループを撃退するためにクリスの銃を空に向けて発射します。
それは男としての射精であり、中性的だったゴーディが男性として心的に生まれ変わったことの証ではないでしょうか?

そして最後に
そして話は現代に戻ります。無二の親友で弁護士になっていたクリスの死、それはゴーディにとって兄の死に次ぐ衝撃だったのではないでしょうか?クリスとの思い出の地を訪れたゴーディは、過去を懐かしむとともにクリスがいて、あの旅があったからこそ今の自分があると思ったのではないでしょうか?

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