なぜなら、テレビが与えるのは「刺激」であって「知識」ではないからだ。インパクトの強い刺激を延々と与え続けると、脳は防衛本能に入って刺激を受けても何も感じなくさせる。別の言葉で言うと「思考停止」に入る。
テレビを見続けていると、頭が朦朧としてくるのはインパクトの連続で脳が壊れないために思考停止しているからだ。実際、その間は前頭葉が働いていない。
このような状況が続くと、脳は最初からその部分を機能させなくなっていき、知的能力は次第に退化して集中力も途切れがちになる。
人間の知的能力を向上させるためには集中力が必要不可欠であるというのはよく知られている。
猛烈な集中力が手に入ると、人間は天才的な能力を手に入れることが可能になる。勉学、芸術、競技、仕事、実務……。集中力によって成し遂げられるものは非常に多い。
この集中力の力を最も知り尽くしているのがユダヤ民族で、彼らは子供の頃から旧約聖書やトーラー、タルムード等の宗教書を反復して何度も読み尽くすことによって人類でも傑出した頭脳を生み出してきた。(鈴木傾城)
何をしていても邪魔され、集中力が途切れる社会
「集中力」は多くのことを成し遂げられると分かっている。ところが現代人は、集中力を手に入れるのがかつてないほど難しい時代に生きている。
テレビ、スマートフォン、インターネット、SNS、ゲームの共通点は何か。それはすべて集中力を奪うものなのである。
大量の情報が刻一刻と流れて、それにとらわれてしまうとひとつのことに集中できない。
テレビやスマートフォンの中毒と化して、食事すらも落ち着いて取れなくなった人すらもいる。何をしていても邪魔され、集中力が途切れるようになっている。
集中力が続くよりも、あちこちに注意がいく方がむしろ大量情報時代に向いているのではないかと考える人も中にはいる。しかし、実際はそうではない。
現代では、化学物質のせいなのか、環境のせいなのか、ホルモン異常なのか、はっきりした原因は分かっていないのだが、生まれつき「集中しにくい性格」の子供も大量に出現している。
それは、ADHD(注意欠陥・多動性障害)と呼ばれる。ひとつのことに集中できない。集中できないから様々な不注意を引き起こし、衝動的になる。
きちんとイスに座って授業を受けることもできず、学級崩壊を引き起こしてしまうような重篤な症状を見せる子供も、珍しくなくなっている。
こういった子供たちは昔から存在していたのだが、1980年代になって、やっとアメリカの精神科医学界が症状をまとめて世界に知られるようになった。
集中力が保てないので、じっと座ってられない。じっと考えられない。それがゆえに深く考えることができず、学力が身に付かない結果となる。
ADHDは精神的な病気であり治療が必要だ。うまく治療されることによって子供たちは集中力を取り戻し、それによって日常生活に落ち着きが生まれ、学力も向上する。
集中力の欠如のために、経済的にも追い込まれる
ADHDは病気だが、現代人の多くはテレビ、スマートフォン、インターネット、SNS、ゲームなどで強制的にADHDと同じ状況に追いやられていく。
こうした集中力の欠如が続くと、いずれ自分自身の人生に大きな問題を生み出すことになる。集中力がなくて意識があちこちに飛ぶので、何も成し遂げられないからだ。
子供の頃から集中力が途切れるのが常態化していると、勉学すらも身につかない。そのまま社会に出ても、集中力の欠如のために経済的にも追い込まれていく可能性が高い。
集中力が欠落しているので仕事にミスが多い。また仕事自体が長続きしない。人の話を最後まで聞くこともできないので、対人関係のトラブルも非常に多い。
注意が散漫なせいで事故も起こしやすいという特性もある。またストレスに対する耐性も弱く、心理的に非常に動揺しやすい傾向が生まれてくる。
衝動性も高いので、衝動的な万引き、衝動的な暴力、衝動的な猥褻のような事件も起こしやすく、またアルコールやギャンブルや薬物にも染まりやすい。
集中力の欠落は、こうした悪い状況を生み出しやすい。「あちこちに注意がいく方がむしろ大量情報時代に向いている」どころではないのである。
集中力の欠如が常態化すると、まわりの人間関係から孤立して、場合によっては社会不適応の烙印を押されてしまう。
集中力の欠如と言っても、その程度は様々だ。軽度なのか重度なのかは人によって違う。軽度であれば自分を戒めて生きることもできるが、重度になればそのブレーキすらも利かない。
集中力を高く保ち続けられる人間は天才の域に達するが、集中力の欠如が著しい人間は、社会と接点を保つことすらも難しくなってしまう。
集中できるのとできないのとどちらが有利なのかと言われれば、もちろん集中できる方が社会的にも有利に決まっている。
ひとつのことに没頭できる人は、成功できる人
この「集中力」が人間的な能力向上の重要な要素であることは、今さら分かったことではない。
日本でも瞑想や座禅がある。インドにはヨガがある。スリランカやチベットでも修行や読経が重視されている。ユダヤにもトーラ(モーセ五書)の反復復唱の文化があり、イスラムにもコーランの反復復唱の文化がある。
方法論は違ったとしても、これらはすべて「集中力を高めるため」に行われるものだ。集中力が重要であるというのは、古来から知れ渡っている事実なのである。
精神世界はすべて集中することから始まる。集中できることが「悟る」ということにつながる。
集中力が「神がかり」な能力を生み出す。集中力が超人を生み出し、集中力が人間の知的能力を向上させていく。
そういった意味で、集中力を途切れさせる現代社会のワナには充分に気をつける必要がある。私たちが手に入れなければならないのは「集中力」なのである。
ところで、「集中力を途切れさせるのが現代社会のワナ」ということに気付いたのであれば、それを逆手に取っていけば逆に圧倒的多数の人間を追い抜くほどの能力が手に入るという逆説にも気付く人もいるかもしれない。
つまり、多くの人が集中力を途切れさせるワナに落ちるので、自分が逆に集中力を高められる日常生活を送るように気をつけていれば、それだけで成功の確率が高まる。
集中力の差が、確実に能力の差となって現れてくる。
どのような方法が自分の集中力を向上させるのかは、人それぞれ違っている。
しかし、いずれにしても集中力を向上させるための努力をして、重要な課題に取り組むという姿勢が維持できるというのは成功するための大きなステップになり得る。
最近、何かに没頭し、寝食を忘れるほど集中したことがあるだろうか。何か一点に没頭し、集中力をとことん高めることができれば、それは天才への道を歩んでいる可能性がある。(written by 鈴木傾城)
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集中力の差は、確実に能力の差となって現れてくる。多くの人が集中力を途切れさせるワナに落ちる。皮肉なことに、自分が逆に集中力を高められる日常生活を送るように気をつけていれば、それだけで成功の確率が高まる。https://t.co/gY2FYReLuS— Keisei Suzuki (@keiseisuzuki) 2018年1月13日
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