学校は勉強するための場所ではなく「あるもの」を奪う場所

学校は勉強するための場所ではなく「あるもの」を奪う場所

あなたは、学校と言うのは勉強しに行くところだと思っているかもしれないが、それは大きな勘違いだ。学校は勉強しに行くところではない。

学校はその人が持っている「あるもの」を奪う場所だ。

「あるもの」とは何か。それは、個性や、人間性や、独自の考え方である。学校は、それを完全に奪っていく。

学校とは「他人と同じになる教育」を受けるために行くところなのだ。

学校に行くと、同じ制服を着せられて、同じ規則を守らされて、整列させられて、強制的に同じ考え方を強制される。他人と同化するための訓練を受ける。

勉強を教えるという名目で人間を画一化するのが、実は学校の隠された本当の目的でもある。

なぜ、画一化されなければならないのか。それは、社会が画一化された機械の部品のような人間を求めているからだ。

画一化は、人間にも応用されるようになった

同じようなものが世界中に流行っていく。そして、何もかも画一化されていく。女性のファッションもそうだ。何もかもが同じに見える。

人々の好みも「個性重視」どころか、まったく同じにしか見えない。

ミス・ユニバース等の美人コンテストは世界中から美しい女性が集まるものだが、これを見て薄気味悪いと言う人がいる。「どの国の女性を見ても、みんな画一化されて同じに見える」からだ。

つまり、今や美しさも画一化されているということだ。いろいろな国で、いろいろな美の概念があったが、それが消えて画一化された美に統合されようとしている。

世界がグローバル化で結びつけばつくほど、人々の思考・ファッション・美的センス・生活様式・衣食住が、すべて「同じ」になってしまう。

いったいなぜ、こんなことになってしまっているのだろうか。それは、資本主義が持つ「効率性」や「コスト意識」が画一性を求めているからである。

画一化していた方が、効率的だ。
画一化していた方が、コストが安くなる。

だから、商業製品はいろんな意味で画一化されていき、それに伴って社会の無意識として、画一化の方向に向かって行くのである。

最初は商品やサービスが画一化の対象だったが、やがてはそれが人間に応用されるようになった。

みんな同じになってしまったミス・ユニバースの女性たち

学校は、あなたを型にはめるために存在している

石と、ブロックを考えて欲しい。

「石」はひとつひとつがすべて違う。大きさも模様も形も重さもすべてバラバラである。つまり個性がある。

しかし、「ブロック」はその逆だ。大きさも模様も重さもすべて同じなのである。つまり個性がない。

本来、人間は考え方も見てくれも身体の形も体重もすべてバラバラのものであり、それがゆえに多様であると言える。つまり、人間の本質は「石」である。

しかし、あまりにもバラバラ過ぎると社会が成り立たないので、ある程度の共通性が必要になる。

つまり、人間を型にはめる必要があって、ある程度、ブロック化させなければならない。

それは学校という名の「強制画一化指導所」で行われている。そこでは、集団生活を強要され、同じ思想を注入される。

そして、ほどほどの「画一化された人間」になったら卒業して社会に出される。

何のことはない。学校というのは自分自身を「画一化」されに行く場所であって、自主性を育む場所ではないのである。子供たちを社会の「部品」にするために存在していた。

学校の目的は本人にとっては教育を受けることだ。しかし、組織にとっては画一化を洗脳するところでもある。

なぜそうするかというと、企業や組織が同じ規格の「ブロック」を求めているからだ。なぜ組織が「ブロック」を求めるかというと、入れ替え自由の人材が欲しいからだ。

壊れたら適当に入れ替える部品が必要なのである。そのためには人材が「ブロック化」していなければならない。石のように様々な形があってはならない。

取り替え可能なブロック。このブロックのひとつひとつが人間だ。

個性を殺すために徹底的な画一化教育をする

独裁主義国家でも事情は同じだ。それは軍隊を見ればよく分かる。軍隊では個人が「ブロック」にならなければならない。

兵士が「ブロック化」すれば、その人間が死んでもいつでも取り替え可能だ。なぜなら、補填されるのも同じ規格の「ブロック」だからである。

みんな同じ「ブロック」になれば、スペアはいくらでもある。ブロックは扱いやすく、取り替えがいくらでも可能だ。壊れても、壊れたところを捨てて入れ替えればいい。

それが社会の目指している「理想の未来」である。

資本主義の中でひとつの組織ができると、その組織は人間を「人材」として扱う。人材というのは、「人間という材料」を短くしたものだ。

もし、あなたの会社が「人材」と社員を呼んでいるということは、まさに社員を部品扱いしているということでもある。実際、経営者にとって社員は部品であることが多く、壊れたら取り替えたいと思っている。

取り替えが自由になるためには、人間は「ブロック化」していなければならず、今やすでにそうなってしまっているのだ。

取り替えが可能であるというのは、別にあなたのやっていることは、あなたでなくてもいいということなのである。

社会は全力であなたをブロック化しようと試みる。

何か決まりを作って、それに従わせる。従わない人間がいたら排除して、型にはまるブロックに入れ替える。画一化されていれば、それができる。

人間が画一化されるとはそういうことだ。

言うことを聞かない部品は、簡単に他と取り替えられるのである。学校で規則に従わない人間は不良と言う。社会で規格に合わない製品は不良品という。

個性は、不良品を作る。だから、学校では個性を殺すために徹底的な画一化教育をする。あなたは画一化されたのか? もちろん、そうだ。あなたは石からブロックになった。

みんな同じなら、補填はいくらでもできる。それが画一化の目的だ。

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