高橋子績
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多くの古文書を残した宮古の漢学者
高橋子績は長燕(ながひろ)とも名乗り、宮古代官所の下役を務めていた南部藩士・高橋八郎左衛門治富(はるよし・以下八郎左右衛門)の長男として元禄13年(1700)に宮古に生まれた。享保12年(1727)に船手役となり元文2年(1737)に宮古代官所下役となったとされる(下閉伊郡史)。父、八郎左衛門は江戸初期、南部利直の御用船建造に際して紀州より南部家に派遣された一族を先祖とし、祖父の代から宮古代官所給人として宮古・野田の山林奉行を勤めていた。これらの記述は『高橋家文書』『沢内風土記』『下閉伊郡史』等に掲載されており、これらの資料から伺える高橋家は宮古代官所においてある程度の地位と家禄をもっていた名門であることが判る。しかし、南部藩庁とも親密な関係であった高橋家であったが鍬ヶ崎浦の埋め立て工事をきっかけに失脚してゆく。
鍬ヶ崎浦埋め立てに関する顛末
享保12年(1727)8月24日に宮古給人高橋平六により、「鍬ヶ崎浦の入り江の所、東は「大へいカ鼻」、西は「孫助屋敷」突出しの土手より見渡しの所、埋め立て許可願い(市史一)」が出されてる。高橋平六という人物は、後に不法埋立の咎で10年がかりで埋め立てた土地を没収され、南部藩に罰せられることになるが、この人物が子績と密接な関係の人物であったことは確実だ。この人物を子績の父親と同一人物とする、またはその兄弟であったとする見方もある。いずれにせよ高橋平六の埋立は享保21年(1736)に完了し同年6月に検地願いが出されるが、不法工事として8月に却下、12月には検地許可なき場所に家を建てたので取り払いが命じられる。
南部藩の申し渡しは「鍬ヶ崎浦は海辺の要地にて古くから御水主(おかこ)も配備しているところであり埋立を一切禁ずる、海辺の山林は漁業のため欠くことのできないものであり、その旨心がけの事」という判決だった。
元号が元文になった翌年の元文2年(1737)には宮古代官・高屋五右衛門が自殺しており、4月には代わりの代官、阿部兵部左衛門が就任する。この代官変更が高橋平六の鍬ヶ崎浦埋め立てに関係するのか真意は不明だ。
最終的に許可が下りず現状復帰となるはずだった鍬ヶ崎浦の埋め立て地だが、許可願いを出した時点で埋め立ては完了していたため元文4年(1739)荒れ地となったままの土地に農漁民が20軒ほどの家を建ていた。これを取り壊すことになったが、住居ら困窮につき取り壊しは中止となり居住許可となっている。
宝暦7年(1757)子績の父親、高橋八郎左衛門が、老衰につき御山奉行御免の願いを受諾されている(市史一)。そしてそれから約4年後の、宝暦12年(1762)3月7日、高橋半左衛門こと高橋子績に沢内村への給地替えの仰せが届き、子績はその年の暮れには宮古を去り沢内村へ向かう。この年子績の後釜になったと考えられるのは宮古給人・中嶋万左衛門という人物で、宮古御代官下役・船手役共に精勤につき、役料四俵二人扶持(ふち)となっている。
子績の失脚は父親(身内か?)が一貫して行ってきた鍬ヶ崎浦埋め立ての咎によるものなのか、まったく別の理由の失脚なのかは不明だが、左遷された子績は赦免となり宮古へ戻る明和7年(1770)までの約8年間を極寒の沢内村で過ごすことになる。
宮古へ戻った子績の執筆活動
学問の時代到来。幕府は歴史を重んじ文武を推奨 元文元年(1736)、五代将軍・徳川吉宗の時代、幕府は駿河から関東諸国にある寺社に対して、創建や縁起にかかわる古文書を謄写し提出させている。これは吉宗が推奨した文武の思想から発生したもので、これに習って江戸の歴史学者たちは関東甲信越の古文書を採訪した。また延享2年(1745)になると幕府は武士による古記録の採訪を推奨している。 これは世の中が比較的安定した時代となったため武士にとって武術だけではなく学問が必要な時代となったことを意味する。この一大ムーブメントは波紋となって全国各地に広まり、各地で古文書解読や古記録の採訪がはじまる。 この頃に各地の伝説や口伝などに歴史上の著名人が組み込まれ、格式や威厳のみを重んじた創作となって漢文調の文書が添削され再録されたと考えられる。それらの文書作りは上級武士階級から地方の下級武士や給人、下役やがては商人、豪農階級へとすそ野を広げていったものと考えられる。これらが近世になり掘り起こされるなどしながら、下閉伊上閉伊をはじめ当地に語り継がれた義経北行伝説などに結びついていったと考えられる。 そんな時代にあって子績は沢内村での暮らしを紹介した『沢内風土記』を執筆、宮古へ戻ってからも漢学者として執筆活動を続け天明元年(1781)に没する。子績の著作には『黒森山陵誌』『南部封域志』『新刀名鑑』『伊勢参宮紀行』『宮古八景詩稿』『子績詩文集』『横山八幡宮縁記』などがあり、これら文書が義経北行伝説、黒森山御陵説、宮古の地名発祥説などに組み込まれ後世に多大な影響を与えた