義経北行伝説
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伝説と義経の謎
源平合戦で輝かしい戦果をあげながら、その功績をねたんだ兄源頼朝により追われる身となった源義経。再度身を寄せた奥州藤原氏をも狙う頼朝の策略により、当主秀衡亡き後、秀衡の子泰衡によって文治五年(1189)衣川合戦に身を投じ、藤原泰衡の兵二万に囲まれながら平泉高舘で妻子と共にその生涯を終えてしまう。義経、31歳であった…。
しかし、歴戦の猛者であり奇襲とゲリラ戦に長けた義経は藤原秀衡亡き後、不穏な平泉を密かに抜け出し北に向かったのではないか…。という義経北行伝説がいにしえの時代からまことしやかに囁かれ、現在も伝説として宮古、下閉伊はもとより、岩手県沿岸北部から青森、北海道に至る各地で語り継がれている。
義経北行伝説はなにを物語るのか
平治元年(1159)源義朝の九男として生まれた義経は、平治の乱で父を失い、母、常磐御前とともに平清盛に捕らえられ、7歳の時に京都鞍馬寺へ幽閉される。やがて義経は自分が源氏の血を引くと知ると、平氏討伐に備え密かに剣術の修行をはじめる。これが発覚し寺を追われた義経は遮那王と名乗り、後に金売り吉次に伴って奥州へと向かう。
一方、平氏は平安時代末期の仁安二年(1167)平清盛が後白河上皇の信任を得て太政大臣となり、一族が全国30カ所の知行国主として律令国家権力をにぎり強大な勢力を築いた。治承三年(1179)平清盛は後白河上皇を幽閉し安徳天皇の外祖父として六波羅政権を樹立した。養和元年(1181)熱病により平清盛が病死すると、その期に乗じて伊豆の頼朝が挙兵、世は源平合戦の争乱を迎える。
兄である頼朝挙兵の知らせを奥州平泉で知った義経は秀衡から授かった軍勢を従え参戦、鵯越、壇ノ浦など数々の輝かしい戦果をあげる。しかし、凱旋し京都へ入った義経は伊予守として官位を授かりながらも鎌倉へ入ることは許されず、最終的には兄頼朝の逆鱗にふれ、追われる身となり再び青年時代を過ごした奥州藤原氏の元へ逃げ延びることになる。
義経不死伝説が北行伝説を生んだ
源平合戦の英雄から一転し、兄頼朝に追われる身となった源義経は、奥州藤原氏の庇護で平泉に匿われるものの、結果的には藤原秀衡亡き後の内紛と巧みで狡猾な頼朝の策略により、高舘にてその短い生涯を閉じた…。この史実は義経を襲った泰衡の飛脚が鎌倉で報告したものでそれを九条兼実が日記『玉葉』に記し、のち、鎌倉時代の公文書でもある『吾妻鏡』に記録された。これに対泰衡は父、秀衡の遺言を守り義経を逃すため偽りの戦を仕立て、鎌倉に偽の報告をしたのではないか?と推測し、義経は衣川合戦以前に平泉を脱出していたのではないか?と唱えるのが義経北行伝説だ。この伝説の重要なポイントは次の通りだ。
- 義経を誅討(ちゅうとう)したと記した公文書『吾妻鏡』は義経の死後約80年後に記されたものであること
- 『吾妻鏡』衣川合戦の詳細の元になった『玉葉』では義経が没した日、及びその最期の表現が違うこと
- 手勢数十人の義経の居舘(高舘)を泰衡は約二万もの大軍で攻めたという不可解さ
- 討ち取った義経の首を鎌倉に送る日数がかかり過ぎており、義経の首実検が無理と思われること
- 義経には影武者がいたと囁かれていること
- 上閉伊、下閉伊に多くの義経伝説が残っていること
この他にも義経が密かに平泉を脱出して北行したのではないか…という伝説を固めるための事柄は多い。では、本当に義経は平泉で討たれず、生き延びたとすればどのような歴史が流れたであろうか…ということになるが、これについては宮古の義経研究家・佐々木勝三氏は自らの著書『義経は生きていた』において各地に散らばる伝説や古文書の年代をたぐり寄せて年表を作成している。
義経北行のタイムテーブルと身代わり説
佐々木勝三氏の義経北行タイムテーブルでは義経一党が平泉を脱出したのは文治4年(1188)4月半ばとされ、その月のうちに人首、五輪峠、物見山を経て気仙郡に入ったとしている。その4ヶ月後の8月には遠野、上閉伊を経て下閉伊郡大沢村(現・山田町大沢)に入り、9月には長沢村(現・宮古市長沢)に入り、その月のうちに黒森神社にて大般若経の写経をはじめていることになる。
翌年の文治5年(1189)には義経を差し出さなければ奥州を征伐せざるをえないとの鎌倉からの通達が泰衡の元に届き、4月には義経を誅討せよとの宣旨が下り泰衡VS義経の衣川合戦となる。
伝説の時系列ではこの時、義経は宮古の黒森山におり写経をしていることになる。では、衣川合戦において高舘で討たれたのは誰だったのか?という疑問が発生する。この矛盾を埋め合わせるのが義経の影武者とされる「杉目太郎行信(すぎのめたろうゆきのぶ)」という人物に関する伝説だ。
伝説によると杉目太郎行信は義経の従兄弟に当たり、年齢も義経と同等で容姿も似ていたといわれる。秀衡は早くからこの人物を義経の影武者として取り立て鎌倉の追究を逃れたという説もある。杉目太郎行信に関しては宮城県金成町の信楽寺跡にある小高い丘に石碑があり、碑文には「古塔泰衡霊場墓・文治五年・源祖義経神霊見替・杉目太郎行信碑・西塔弁慶衆徒霊・四月十七日」とある。碑の「見替」が「身代わり」をほのめかすことから、この人物が義経の影武者であったと推測されても不思議ではない。石碑は明治になってから建て替えられたものだが地元では昔からこの碑を義経の墓として、長い年月の間、何度も建て替えてきたという言い伝えがある。
義経北行伝説においては、この身代わり説、あるいは泰衡による偽戦がキーポイントで、杉目太郎行信といい、酒に漬けたとはいえ討ち取った義経の焼け首を約40日もかかり鎌倉に運んで首実検するという成り行きに不審を感じる。また、首実検は「運ばれてきたのが義経の首ならば間違いないだろう」という程度の検証であり、もはや判別がつかないほどに腐敗腐乱していたと考えられる首が本当に義経であったかは大きな疑問が残る。
結果的に頼朝は義経を泰衡が討ち取ったという報告と、それに伴う首実検の結果を得て、奥州藤原泰衡追討の宣旨を賜り、数ヶ月後には平泉を攻め落とす。泰衡は秋田方面へと遁走するものの、従者・河田次郎の裏切りで討たれ、裏切った河田次郎は泰衡の首を頼朝に届けるが、頼朝、これを殺している。
義経北行伝説ルート紹介 平泉~気仙~遠野~上閉伊~宮古~久慈
義経北行伝説は平泉周辺をはじめ、気仙地方、上閉伊、そして宮古を含めた下閉伊、宮古以北の海岸線に広がっている。その伝説の足跡は一行が宿泊あるいは休息のため立ち寄ったというものから、風呂や穀物を借り入れたという口伝と証文、来訪にあたり神社を建立したというものから、巨岩、巨石などの由緒にこじつけたものまで多種多様にわたっている。ここでは、佐々木勝三氏の著書をもとに県内に散らばる北行伝説を紹介する。
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平泉・気仙・遠野・上閉伊
- 平泉町「高舘」
- 藤原氏から義経が与えられた居舘小高い山の上にあり眼下に北上川が流れる
- 平泉町「佐藤基治の役邸」
- 高舘を脱出し義経一行が最初に立ち寄った
- 大東町「観福寺」
- 亀井六郎重清の笈が寺宝として伝わる。笈には砂金が満載されていたという言い伝えもある
- 奥州市江刺区「弁慶屋敷」
- 義経一行が立ち寄り、粟5升を求めその場で炊いて食し、近くの五十石神社に3日ほど滞在したという
- 奥州市江刺区「多聞寺跡」
- 義経一行が宿泊したという寺伝がある。また、かつては鈴木三郎重家の笈が遺されていたという。寺には弁慶が腰掛けた、腰掛松もあったという
- 奥州市江刺区「玉崎神社」
- 義経一行が参拝したという伝説が残る神社一行はこの神社に5日間滞在したという
- 奥州市江刺区「源休舘」
- 義経一行が宿泊したと伝えられる稲荷神社土地では義経の「舘」あるいは「城」として伝えられる
- 住田町「判官山」
- 別名は黒山。200メートルほどの小山で義経一行が野宿したと伝えられる。別名の黒山は義経の「九郎」の名に通じるとされる
- 住田町「判官舘」
- 住田町「判官手掛けの松」
- 気仙川に沿って北へ向かった義経一行が通過した難所
- 遠野市「風呂家」
- 上郷の旧家。赤羽峠を越えた義経一行が立ち寄り、風呂を所望したと伝えられ、以来家では「風呂」を名乗るようになった
- 遠野市「駒形神社」
- 上郷にある駒形神社。赤羽峠を越える際に死んだという、義経の愛馬「小黒」を祀るとされる。また小友町にある伊豆権現境内に愛馬「小黒の碑」がある
- 遠野市「日出神社」
- 義経の娘、日出が義経の後を追ってきたがこの地で病死し、それを祀るとされる
- 遠野市「続石」
- 怪力の武蔵坊弁慶が巨岩を運んだという言い伝えがある。また周辺には「泣き石」「弁慶の昼寝場」等の巨岩がある
- 釜石市「判官堂」
- 橋野にある判官神社。釜石に入った義経一行はこの神社の別当をしていた家に宿泊。地元ではこの家を「判官」と呼び、義経が残したとされる鉄扇と関係した古文書があったが現在は紛失している
- 釜石市「法冠神社」
- 鵜住居の山崎家が別当をしている神社。義経一行が山越えをしてこの地で野宿したという言い伝えが残る
- 大槌町「駒形神社」
- 沢山にある神社。義経一行が休息し馬をつないだという。大槌は金売り吉次の生まれた土地とされ、ゆかりの伝説も多い
- 大槌町「判官堂」
- 宮の口にある神社。義経一行が野宿をしたという場所に建てられたという
- 大槌町「判官大明神」
- 和野にある神社。弁慶の刀とされる大太刀が奉納されている。この太刀は昭和22年頃別当が境内を掘って発見したという
- 大槌町「弁慶の手形石」
- 古来より砂金を産出した金沢種戸口沢にある高さ約1メートルの奇岩。上面に幅60センチほどの巨大な手形状の窪みがある
- 大槌町「鞍掛松」
- 義経一行が休み、木に鞍を掛けたという伝説が残るが場所は特定されていない
- 義経一行が休み、木に鞍を掛けたという伝説が残るが場所は特定されていない
宮古・下閉伊~久慈
- 川井村「泉沢家」
- 小国江繋にある旧家。この家は平泉の泰衡の弟、泉三郎忠衡の三男を先祖としている忠衡は義経より先に泰衡の手にかかったとされるが、早々に逃げ、この地に根を下ろしていたという
- 川井村「道又家」
- 小国の道又家には弁慶直筆の書と伝わる軸があったと伝えられる
- 川井村「小黒地区」
- 義経の愛馬「小黒」の産地とも言われる
- 川井村「判官神社」
- 箱石の旧家、山名家が祀る神社。山名家は古くから山伏の家系でその先祖は義経とともに北行した山名駿河守義信と同族と伝える
- 川井村「鈴久名神社」
- 義経を追いかけて奥州に入り閉伊の地までやってきた静が籠もったという伝説がある神社
- 宮古市新里「判官堂」
- 宮古に潜伏していた義経は閉伊川と刈屋川の合流する日蔭平地区の神社に般若経を奉納したという
- 宮古市新里「日月山鏡宮」
- 土地の豪族、源内家が祀る神社。先祖は義経に関係するという
- 宮古市新里「女陰石」
- 峠ノ神山に登った義経一行は、頂上付近ある巨岩に刀傷をつけたという
- 宮古市新里「出雲家」
- 蟇目二又にあった出雲家は源氏ゆかりの血筋。それを頼って義経一行が立ち寄り穀物を借り入れたという
- 山田町「佐藤家」
- 山田は義経の従者として秀衡が同行させた佐藤信政のゆかりの地。佐藤家に立ち寄った義経一行は佐藤信政が使っていたという陣中釜、酒壺、椀などを遺したという
- 山田町「判官屋敷」
- 山田町大沢にある旧家。義経一行はこの家に泊まり、十二神山越えにそなえる。一行が立ち去ってからこの家は「判官」と呼ばれるようになったという
- 宮古市「長沢判官神社」
- 長沢の竹下家が祀る神社。訪れた義経一行の意志に感服した当主は同行を求めるが断られ、以来社を建立し武運長久を祈願したという
- 宮古市「判官舘」
- 津軽石の舘の下地区の背後にある舘神社。十二神山を越え長沢に向かう義経一行がこの地で休息したと伝えられる
- 宮古市「判官洞」
- 八木沢にあるという岩屋。ここに義経一行が隠れたと伝えられるが、場所は特定できない
- 宮古市「横山八幡宮」
- 卯子酉神社まで同行した鈴木三郎重家が一行と別れ、宮古に戻り横山八幡宮の神官をしたと伝えられる。
- 宮古市「法霊権現」
- 近内の鈴木家の神社であり義経の従者、鈴木三郎重家を祀る。横山八幡宮の神官をしていた重家は近内の地で病死したという
- 宮古市「黒森神社」
- 義経が長きにわたりこの神社に籠もり、大般若経を写経したと伝えられる
- 宮古市「判官稲荷神社」
- 黒森に潜伏していた義経が状況偵察のため訪れていたという伝説が残る神社。また宮古を後にする際甲冑を埋めたという伝説も残る
- 宮古市「籠石」
- 小沢の山中にある奇岩。怪力の弁慶が持ち上げて積んだという巨岩
- 宮古市「小川家」
- 山口の旧家。義経が写経したという般若経がある
- 宮古市「成ヶ沢家」
- 千徳の旧家。義経が写経したという般若経がある
- 宮古市田老「吉内屋敷」
- 乙部にあった旧家。金売り吉次の弟とされる吉内の屋敷であったとされ、宮古を出た義経一行はこの家に宿泊したという
- 岩泉町「加茂神社」
- 生まれて間もない義経と北の方の子供が病死したことを悼み、遺体を埋めて供養したことが神社縁起となっているという
- 普代村「不行道(ふこうどう)」
- 長旅で食料もなく身体も衰弱していた義経一行は、この地で牛追いにこの場所の地名を聞いたところ、牛追いは手にしていた鞭で「不行道」と地面に書いたという。この先に道はないという意味に愕然とした義経は近くの庵で宿を求めたという
- 普代村「卯子酉神社」
- 土地の古老の案内で卯子酉山に登った義経は、神託を得て祈願し、三柱を勧請したという神社縁起がある
- 普代村「籐九郎神社」
- 病気のためこの地に残るよう言われた藤九郎藤原盛長は、義経一行が無事に蝦夷地へ渡れるよう祈願を続けたが、のち病死、不行道に埋葬され藤九郎神社として祀られたという
- 一戸町「川底家」
- 普代村以北で道を断たれた義経一行は、進路を一端西にとり、一戸町小屋鳥の川底家に立ち寄り、粟を求め粥の礼に短刀と証文を残していったという
- 久慈市「諏訪神社」
- 再び海岸線に出た義経一行は、諏訪の森で陣を構える追っ手、畠山重忠の一隊と出会う。義経と重忠は対峙するが落ちてゆく義経を哀れに思った重忠の矢は大きく逸れて松の木に刺さった。義経は立ち去り、矢が刺さった場所には諏訪神社が建立され矢の穂先は御神体となったという
- 久慈市「源道(げんどう)」
- かつてこの土地には、源氏、ここを逃げて左峠の方に行ったという伝説が残されていたという
- 久慈市「侍浜」
- 源道を直進すると砂浜に出る。そこから連なるのが侍浜で、弁慶の足跡が残されていたという